砧教会説教2014年01月05日
「シメオンの喜び」
ルカによる福音書2章22~35節
ルカによる福音書の最も大きな意義は、私見では、この個所を含め、非常に大きな誕生物語を構想したことにあります。それも単にイエスだけでなく、先駆者であるヨハネについても詳細に書いております。なぜ彼はこうした物語を書いたのか。彼はイエスの活動を二次的に知っていたが、それらの情報が錯綜していることから、納得いくイエス伝を残したかったのであることは序文にある通りです。加えて使徒の活動と教会の成立、パウロの伝道(使徒言行録)についても同様です。ただし、彼はイエスの伝記や原始教会の歴史を単に客観的に書こうとしてはおりません。彼は常に彼自身の思い、つまり信仰と伝道への意思にもとづいて、いやそれらを動因として何としても書かざるを得なかったのだと思います。つまり、これを書き遺さないとイエスの、そして原始教会のリアリティ、あるいは存在理由、インパクトが失われてしまうという危機感があったということです。結論から言えば、私はその危機感が最も現れているのが、この誕生物語だと今感じているところです。
ルカの物語は非常におとぎ話的に見えるし、神話的にも見えるのですが、彼はイエスの誕生をほとんどサムエルの誕生物語と重ねています。彼は、イエスは実はイスラエルの伝統にもとづいて、つまり神の選びによって見出され、しかもそれは生まれる以前にすでにその母を通じて将来が暗示されるかたちで、要するに世に先立つ形で決められているというのです。これはたとえば預言者エレミヤの召命においても強調されている。つまり神の選びは本人の意思のはるか手前で始まっているのです。これは後の時代のキリスト教の教義に深く影響を与えていると思われます。たとえばキリストの先在性のような考え方、あるいは予定論のような理屈の原型となっていると思われます。古くからのイスラエルの伝統をルカは強く意識して書いていることは明らかです。とりわけマリアの賛歌はハンナの祈りと重なる。ここには権力や富を持つ者と貧しい者の逆転を、あるいは一種の復讐が現れている。しかもそれはアブラハムとその子孫への約束として歌う(1章54-55節)。
全体として誕生物語はイスラエルの伝統を下敷きに、この伝統の内に生きている人々に向けて語っているように見える。ヨハネの誕生物語もメシアの先駆者としての預言者エリヤのように語る。しかし、彼は単にユダヤの伝統に媚びて書いているのではありません。彼はイエスの誕生を当時の世界、ローマ支配の世界における出来事として位置づけています。それは御承知のように、皇帝アウグストゥスの勅令とイエスの誕生が結び付けられました(2章1―4節)。これは単にその時代に起こったことであるという史的事実を言ったのではありません。世界史的意味があると言挙げしている。ずいぶんと気負ったものである。
ルカは確かにそうした大それた意味付けをしているように見えます。しかし、より根本的で重要なことは、イエスの誕生をそうした世界権力に翻弄された若い夫婦の旅の途上に位置付けたことです。イエスの誕生は、ルカによれば例の勅令によってヨセフとマリアの夫婦やむを得ず本籍地に移動しなくてはならず、その途中に月が満ちた。しかし泊まる宿もない。馬小屋で飼い葉お桶に寝かせるほかなかったというのです。これは、事実かどうかわからない。この物語は暖かくほのぼのした物語ではありません。これは危機の物語です。旅の途中で産気づき、若い夫婦は自力で子を産む。そして飼い葉桶に寝かせた。辛うじて生まれたとしても、この先どうなるかわからない。非常に不安な夜でしょう。一般には不幸な誕生の環境である。それだけではありません。これに先立つ誕生予告(1章26節―38)では聖霊によって身ごもったというのです。ルカではもはや摂理として描かれていますが、マタイではもっとリアルです。つまりイエスの父ははっきりしないのです。マタイの誕生物語を読んでまず感じるのはマリアの恐怖と不安です。これを完全にプラスに変えて行くのがマタイの誕生物語であり、このルカの誕生物語です。彼らはほとんど危機と不幸、不安を完全に転倒します。この事態が神の支配の始まりだと。この限界の状況が、つまり父もわからない、旅の途上で生まれるといういろんな意味で厳しい事態が、出発点である。このことを記憶せよと、ルカもそしてマタイも言う。
ルカでは加えて羊飼いがイエスの誕生を祝福しにやって来る。これも野宿している者たち、すなわち都市の周辺にいる人々であるが、もちろん彼らはイスラエルの元来の出自を象徴する。このイエスの祝福に関して、マタイではバビロニアの占星術師が現れているが、これはローマ支配の外側の人々であり、かつアブラハムの故郷でもある。このように誕生物語の射程は、現にあるローマ支配、それにその傀儡とさえ見えるユダヤ教大祭司と神殿の支配、そして硬直した律法支配のなかにあって、貧困や差別の現実からの解放がまさしくそのただ中からはじまることを告げるのである。
キリスト教は全くのマイナス、全くの不幸、苦難を絶対的始まり、救済の始まりに据える。希望は絶望の中にある。この逆説をルカは誕生物語において語る。彼はイエスの誕生を圧倒的な規模で構想する。それは始まりの記憶を創造する。これはもちろん史実などではない。それは想像力によって、同時に旧約聖書の伝統に基づいて書かれた。ルカにおいてこの誕生物語は、その豊かな想像力によって、この深刻な誕生の出来事が、何か全く新しい、しかも喜びにあふれたものとなった。この筆致は実はイエスの働きにおいて示された喜びと暖かさそのものであると思われる。つまりルカは困難にあえぐ民衆のただ中でのイエスの活動の暖かさ、あふれる喜びをその誕生の出来事に投影したのである。イエスの誕生はあらゆる困難を乗り越え、あらゆる差別を撤廃する旧約以来の、正確にはモーセ以来の神の救いのわざの歴史の極まりが示されなければならない。ルカはそのことを念頭に、この誕生物語を残したのでしょう。だから私たちはルカのイエス誕生物語を、本来の彼の誕生の困難な状況があたかも存在しないかのように読むのです。それはそのように読ませるルカの戦略であり、後の時代を規定するものになった。
さて、この誕生物語のおわりにシメオンが登場します。彼は「正しい人で信仰があつく、聖霊が彼にとどまっていた」とされている。その彼が両親に連れられてエルサレムに上ってきた赤ん坊のイエスを祝福する。彼はもはや老いていますが、この人生の最後の時、彼はメシアの誕生に接したのだという。この時の賛歌が29―32節で、これは民数記6章24-26節を基にしているとされます。それはともかく、老いたシメオンはメシアを見ることになっていたとされているので、それが実現したことを喜ぶのである。彼は敬虔なユダヤ人であり、正義の人である。注意したいのは、シメオンはメシアによる救済の出来事の実現を見ることはできないということです。つまり、彼は救われない。しかしシメオンはこう言う。「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせて下さいます」。彼は生まれて間もないメシアを見ることによって幸福を得たという。高齢のシメオンは救済の出来事を見ることはできない。しかし生まれた者がメシアだと信じて世を去ることが出来る。彼はそのことを喜びとする。未来を信じて生きる。年老いた人々はこのように未来を展望する。これはヨエル書3章1節が響いている気もするが、ともかくも年老いたシメオンは未来を信じて喜ぶ。その未来とは目の前にいる赤ん坊イエスである。一般に、子供とは未来そのものである。そして老いた人々は、孫の、あるいは赤ん坊の誕生を喜ぶだろう。だからシメオンの喜びもその文脈でも読むこともできよう。しかし、シメオンの喜びは自分の喜びではなく、未来のイスラエル、未来の諸民族、未来の世界が新たなものに変わることを期しての喜びである。私たちは、あるいは私は、老いてなお、将来の世界を本気で展望し、本気でその救いを信じることが出来るだろうか。ルカはそうした不安や疑問をあらかじめ塞いでおいた。この物語は年老いた者、時の間もなく終える者こそ、希望の内にあらねばならないことを求めている。しかしそれだけではない。シメオンは実はすくいの萌芽を見出す力がある者だということを示してもいる。「聖霊が彼にとどまっていた」とは彼がそのような識別する力を持っていたことを意味する。
私は師であった木田先生が、亡くなる少し前、「今僕はシメオンの心境だ」と語っていたと奥さまから聞きました。シメオンの心境とは私はメシアに会ったゆえに安らかに去ることが出来るということですが、だとすると先生は時を越えてイエスに、その赤子イエスに出会ったというのでしょうか。私はそうも思いますが、先生はすでにシメオンが喜んだ未来の一部をすでに生きたともいえます。にもかかわらず、シメオンの心境と言うのは、やはりメシアの救いは未来の課題としてあるとも言える。つまり、シメオンの心境は残された者にメシアの育み、彼を受け入れる心構えを求める。そしてそれだけでなく、そのメシアの実現した出来事をその先へと伝える義務があるということを教えているのです。
ルカによる福音書の誕生物語はイエスの誕生を語りながら、後のイエスの歩みから未来のイスラエルの、それだけでなく諸民族の救いまでを射程に入れている。その意味でこの物語は極めて重要である。おそらくルカはこの誕生物語を彼の持てるすべてを投入して仕上げたのだと思う。ちなみにマタイは山上の説教に全霊を傾けたが、ルカはこの誕生物語に生まれたばかりのキリスト教の可能性、意義、リアリティをすべて組み込んだと思う。そしてそのおわりにある老いたシメオンと赤ん坊のイエスの実に暖かな対比は、いかなる困難や限界にあってもなお未来を信じるに足ることを教える。
今日のエピファニー、公現の日に私たちは改めてシメオンの喜びをかみしめたいと思うのです。