日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年02月02日
「キリスト者であることの幸福」マタイによる福音書7章24~25節
 今日取り上げた聖書の個所は山上の説教の締めくくりの一節です。「これらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」とありますが、これはキリスト者のあり方を語ると同時に、キリスト者の幸福とは自分たちが揺るぎないものの上にあることの安心感にこそあることをほのめかしています。
 しかしながら、岩の上に家を建てることの比喩は簡単ですが、前にある説教の言葉を読む限り、この比喩は当てはまらないように思えます。なぜなら、山上の説教の最初の言葉はあの「幸いの言葉」ですが、ここには「心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、義のために迫害される人々などが幸いとされておりまして、これは普通不幸なことです。もちろんこれは未来を約束する言葉であって、幸福は未来にあることを述べているとも見えます。しかしそれでは、要するに不確かであり、単なる慰めにしかなりません。しかも、そうした慰めはかえって現に置かれている状況を暗に容認するか我慢するかになってしまい、事実上不幸を放置することになりかねない。これは宗教批判の重要な観点です。
 このように山上の説教の冒頭は、最終的は慰めにすらならない、それどころか悲しむ人、貧しい人を愚弄することになりかねない。
 さて、次の地の塩、世の光、の比喩ですが、これは要するに世界を陰で支える者、あるいは世界に向けて真理の在りかを指し示す者となれ、ということですが、特にこれには内容がない。たんなる激励です。
 次の「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」という句は、明らかにユダヤ教との繋がり、それもそれを正当に受け継ぐと同時に、それを完成するのだ、というマタイ教団の意気込みを宣言しているだけでしょう。もちろん、それは現にあるファリサイ派や律法学者のレベルでのユダヤ教ではなく、もう一歩先に行くユダヤ教です。結局のこの言葉も、当時のマタイ教団においては意味があるとしても、かならずしもそれは今日のキリスト教が真剣に取り組むべき言葉ではありません。
 問題は5章21節から始まる「しかし、わたしは言っておく」シリーズです。
 1、「殺すな。人を殺した人は裁きを受ける」に対する「しかし、私は言っておく。兄弟たちに腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。……」これは共同体おいて(家族も含む)仲間といさかいを起こすだけで、裁かれる、つまりその人は共同体の名によって罪ありとされ、それなりの罰を受けるということである。実に厳しいというか、小さなことにこだわり過ぎのような気さえします。窮屈でしょうがない。
 2、次の「姦淫するな、と命じられている。しかし言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」。これも実に厳しい。ここから禁欲と女性差別が生まれてくるのは明らかです。この言葉は事実上、男のみに向けられており、その欲望を厳格にコントロールすることを求めているかのようです。他方、このコントロールを容易にするために、女性自身が顔や体を隠すことを求められるようになったのです。この言葉は単に窮屈というだけでなく、差別的な力を持つものです。
 3、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ、と命じられている。しかしわたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。云々」。これは結婚そのものを解消できない、つまり男女の関係をこれまた厳しく固定するかのようです。なんとも窮屈です。
 4、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせと命じられている。しかしわたしは言っておく。一切誓ってはならない。云々」。これを真に受けるなら、社会生活は成り立ちません。
 5、「目には目を、歯には歯を、と命じられている。しかしわたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかが右のほほを打つなら、左のほほをも向けなさい。云々」。これは単に我慢せよということか、あきらめろということか、あるいはある種の達観した地点から、悪人を憐れむことなのか。
 6、「隣人を愛し、敵を憎め、と命じられている。しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。云々」。果たしてこれが可能だろうか。これも前の言葉と同様、ある種の達観か?
 これらの六つの「しかしわたしは言っておく」シリーズは、一見すると、これを字義どおりに受け取ることが幸福につながるとはとても思えません。
 
 さて、6章1―18節には「そうすれば隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」で括られる三つの断章がありますが、これらはどれも要するに謙虚であれということです。ただし、こうした態度、つまり謙虚さを常に意識してふるまうのはかえって人を縛るものになりはしないだろうか。途中にはさまっている主の祈りは、実に求めることがらは最小限であれというものです。これもこの文脈で読むとある種の謙虚さ、ささやかさと醸し出すものですが、本当にそうなのだろうか、という疑問も浮かびます。
 続いて「富は天に積みなさい」とあります。これも比喩ですがいったい天に富を積むとはどういう事だろうか。後の教会はこれを教会への寄進や寄付と見なし、やがてこれをいわば有価証券化し、販売し、天国行きの切符の一部にしたのでした。天に富を積むイコール善行を重ねることだろうか。これはその次の次にある断章(24節)を読むとわかります。つまり地上の富は神と背反するものなのです。とするなら、富は否定され、この世の一般的な幸福は否定されることになる。本当にそれで良いのか。

ここまで読むと、私たちはこの山上の説教を字義どおりに受け入れるなら、とてもキリスト者は幸福ではないと言える。単に窮屈で、喜びどころか苦痛でさえある。

 しかしながら、これらの、特に「しかしわたしは言っておく」シリーズをもう少し丁寧に読むとこれらがすべて幸福への鍵であるあることがわかります。
第一に、兄弟に腹を立てること、つまり身近な共同体の仲間に腹を立てることと、人を殺すことが同じ水準で比較されているという点に注目するなら、これら二つの事柄は同じ重みを持つということ、つまり人を殺すこととは兄弟に腹を立てることが、同じとは言えないにしても、同じ価値を持つということです。だから心せよ、ということが一点。もう一つ、これは逆説的な解釈ですが、殺した人を裁くことと兄弟を罵った人を裁くことが同じ水準で語られていること、つまりどちらも殺されてしまうと書かれているのですが、兄弟を罵っただけで殺されるのはどう考えても理不尽である。なのにどうしてこんな重い罰が科されるのか?それはこういうことです。すなわち殺した者を簡単に責めるのは止めよということです。ここに、たとえば死刑廃止運動のような(日本ではなかなか理解されない)運動の動機が見出されます。マタイはこの個所の説明で和解を勧めていますが、おそらく冒頭のイエスの言葉の解釈にある困難を感じ、ともかく共同体内の不和は良くないから和解せよ、という比較的分かりやすい説明に代えているが、本来は、人を殺した者は裁かれる(つまり死刑になる)という常識とさえ見える律法を根本的に批判していると思われます。したがって、これは窮屈どころか、あるいは小さなことにこだわっているとかいう反応は実はお門違いであり、人を殺した人の人権というかその深みというか、そこまで見据えた言葉であり、さらに言えばいのちの尊厳から出発することはどういうことなのかを告げているのだと思います。とすればこの言葉はキリスト者であることに豊かさや広がりを与えてくれる大切な言葉となるのではないでしょうか。
 第二に、「姦淫するな」の話も確かに一見厳しい禁欲の要求にも見えます。姦淫は死刑とされることもある重大な事案でありましたが、この場合もそもそも姦淫の範囲を広くとれば、男の側の視線から問うべきであり、そこから問われるなら、つまり姦淫とみだらな思いで見ることを同水準で捉えるなら、あらゆる男は死刑である。当然そんな馬鹿な、という反応でしょう。しかしこの極端さの意味するところは、姦淫によって人が、特に女が殺されたりすることは完全に誤りであることを逆説的に言っているのです。これはヨハネによる福音書8章で物語られている物語と呼応するものです。つまり、ここでも先の話と同様、人間の、特に女性の尊厳を回復する、あるいは暗に宣言することばであり、いのちの尊厳とは何かを問いかける言葉なのです。ただしマタイはこれを厳格な禁欲の命令に読み変えていますが(29節以下)。そしてそれはすでに述べたように女性蔑視、女性の不可視化への道を開くことになったのです。
 第三に、離縁状の話、これも一見結婚の厳格化に見えますが、おそらく安易な離縁は当時の社会状況において圧倒的に女性が不利になり、結果、女性の人権が損なわれることを見越した発言でしょう。これを時代を無視して一般化するのは無謀です。ともあれ、これは当時の女性の幸福を考えた発言だったと思われます。
 第四に、誓い、これは分かりにくいのですが、おそらく人間の限界を見据えたかなり射程の広い言葉で、律法の遵守を旨とするユダヤ社会(当然イエスもそこに属している)への根源的な批判なのかもしれません。つまり、人間は天地にかけて神に誓うことはもともとできないのだという意味です。出来ることはできるし、出来ないことはできない、正直であれということでもありましょう。
 第五に、復讐、かつて田川建三氏はこの個所を抵抗が不可能な状況の迫害を前提に、この左のほほを向ける行為を、どうせコテンパンにされるのなら、こちらから向けてやる、というささやかな最後の矜持を表現する言葉としてとらえておりました。達観した地点から憐れみをこめてというのではありません。これには半分同意しますが、復讐の不可能な立場において、抵抗より、従順なそぶりかあるいは逃亡か、という状況の中での、ひとまずの行為かもしれません。つまり、当時のローマ支配に対する熱心党のスタンス(断固たる抵抗、やがてユダヤ戦争につながる)とちょうど対になっているのです。イエスはおそらく戦争、反乱へと傾斜する人々や、あるいは民族主義的高揚に対するやや極端な反発を言っているように見えます。これは非常に困難な歩みになるのですが、ここでも、最も大切なのは与えられているいのちなのだ、そこから出発せよと言っているのではないでしょうか。
 最後に、敵を愛せ。これはおそらく隣人という言葉の理解に関わるものです。隣人とは誰か。これは一概に言えません。現代でもこの言葉は比喩としてさまざまに用いられますが、究極的には「私にとっての他者のすべて」です。イエスは、したがってある者を敵とみなすことは本来できないのだということを伝えようとしているかのようです。つまり、恐らく創造論と関わると思われますが、時間と空間なかに創造された者は本来相互に隣人である、ということです。オリエント世界おいて、このイエスから始まるある種の絶対的な平和主義、相互に主体的な共同性が始まったと言えるのではないでしょうか。おそらくキリスト教の歴史は、それを根幹にしている。だからこれは達観でもなければ、夢想でもない。現実的な課題であり、それに気づくことは幸福なことなのです。(もちろん現実には困難なことですが)。
 
 このように読んで参りますと、6章1―8節の「そうすれば……」シリーズも単なる謙虚さに基づくキリスト者らしさの勧めではなく、もうすこし深いものかもしれません。たとえば天に富を積むということは「しかし……」シリーズで展望される本来の世界、あるいは新たなこの世を作るための行動としてより積極的なものと理解できるのであり、もちろんいわゆる善行や喜捨も含みますが、じつは人間と人間、人間と自然との和解や調和といった非常に気高い目的に向かう姿勢なのです。

 ここまで述べてきた山上の説教のもつ広がり、豊かさ、新しさ、つまりは新しい価値、そしてそこに連なることの喜びを最も明確に語っているのが、6章25―34節にあるあの「思い悩むな。……」の言葉でしょう。おそらくこの山上の説教の核心はこれです。そこではいかなることがあろうとも、授かったいのちの尊さからすべては始まるのであり、そこに本当に気付いた者こそが幸福を知ることができることを実に印象的に語っています。私たちはおそらくこのイエスの言葉、恐らくマタイの注釈は余り入っていないこの言葉を受容した時、キリスト者としての幸福な人生が始まると言えるのではないでしょうか。
 このような幸福な歩みを確かなものにするのが、7章1―14節の三つの命令です。最初の「人を裁くな」はすでに5章21節以下の言葉に対応しています。自分を正しいものとみなすこと、そして他者を裁くこと、これを戒めています。残念ながらキリスト教自体がこれを長く裏切ってきたことは皆さんご存知のとおりですし、今も似たような状態です。おそらくこれが、現在キリスト教が力を失っている最も大きな理由です。
 そして「求めなさい」。これは与えられた人生(これをハイデガーは「存在の意味は時間である」といい、日野原重明氏は「人生とは使える時間のことである」といった)において、根本的な姿勢である。
 さらに「狭い門から入りなさい」。これは私たち一人一人にそれぞれの道が与えられていることを意味しているのであり、人の行く道を真似したりするのではなく、固有の道を、すなわちあなた自身の道を見つけようということです。必ずしも困難な道を行けというのでもありません。脅し文句が付けられていますが、これはやや独善的なにおいがします。ちなみにルカでは門ではなく、戸口となっており、こちらも終末の審判を前提に語られています。もちろんイエスはおそらく非常に大きな危機意識と終末の到来を信じていたのかもしれません。しかし、このことは何か恐ろしいことであり、これ以上あがいても仕方ないといったあきらめ、あるいは人を脅してこちらに来いと要求するようなものだったのかというと、そうでなかったのではないでしょうか。
 イエスはこの山上の説教の核心に見られる言葉のように、恐らくははるかにおおらかで、ユーモアに満ちていたように思われます。もちろん厳しい、困難な状況になって行くのです。しかし彼は人間の幸福とは何かをひたすら求め語り、そしてそれを知った人は幸福になった。
 今日の聖書の個所、すなわち岩の上に家を建てた人とは、つまりイエスの示した根源的な、そして全く実現可能な、というよりそれに気づいた瞬間に実現する人間の在り方、共同体のありかたに気付いた人々のことである、そしてこのような気づきから始まるキリスト者の人生を、私はまさに幸福である、と感じているのです。もちろんそれは常に困難や苦難を伴うことでもあり、逆説的な面も否めません。にもかかわらず、山上の説教の核心は、わたしはそうした逆説さえ超えた全くの然り、全くの肯定、全くの喜びを示していると思うのです。