砧教会説教2014年03月02日
「預言者的使命を担う教会」
エレミヤ書15章10~21節
1、昨今の政治と社会の動きから
安倍政権下での特定秘密保護法の成立、集団的自衛権の容認や憲法全体の改定の思惑、NHK経営委員や会長の人事による公共放送への政治介入と見られる動き、そしてごく最近の「エネルギー基本計画」にある原発の「ベースロード電源」としての温存などは、全体として民主党政権以前の、特に第一次安倍内閣で頓挫した課題と考えられる。そこでは平成不況から抜け出せず、経済規模で中国の後塵を拝する中で、また北東アジアや東シナ海の政情不安にともなってアメリカから防衛努力を要求されるなかで、日本の国家像を改めて問い直そうという素朴な意志もあるのだろうが、現実には安倍首相が「戦後レジーム」と呼ぶ、現憲法と戦後民主主義(個人主義、平等主義、人権の尊重など)を捨てて、1945年8月以前の明治憲法下の強権的で全体主義的な日本を一種の郷愁をもって、あるいはその過去を美化して、アジア太平洋戦争さえ、かつて言われたように「欧米からのアジア解放の戦いだった」のであり、必ずしも侵略戦争ではないとし、かつての日本は全体として天皇を元首とした上下、長幼の秩序のもとに各人が分をわきまえ、庶民は庶民らしく、地位の高い者はそれにふさわしい振舞いをし、しかも最終的に天皇の大御心あるいは一視同仁によって日本人である限りにおいてすべて平等に扱われるという非常に手前味噌でご都合主義の神話を回復したいという意志が当の安倍首相他保守政治家や財界の一部、そしてかなりの数の一般の人々によって共有されている。それは3期前の東京の知事に石原慎太郎氏が当選したことに象徴される。戦後的な、あるいは東西対立の中で軽武装のまま経済成長を実現しつつ、平和を享受した日本は、単にそうした状況の中で一時的に、あるいは偶然にそれに恵まれたに過ぎず、東西対立が終わり、全面的に高度な資本主義と市場経済の世界化と、そして情報通信技術の絶えざる発展の中では、サバイバル競争に勝ち抜くため、平和主義、憲法九条、人権、個人の尊重などと呑気なことを言っていては元も子もなくなるのだから、そうした理想的な価値はいわゆる戦後民主主義という裏付けなき盲信に過ぎず、それの無力さを潔く認め、そして捨てさり、世界規模の競争を通じて勝ち残る者をたくさん育て、その力の下にその他大勢の者は庇護されることで、生き伸びるしかないという。このような形はすでにお隣の韓国で現実化している。日本はまだそこまでではないが、今のところその方向で進む可能性が高い。
こうした中で、日本の指導者はひとまず国家主義に舵を切ったが、それは新たな国家の定義ではなく、結局のところ旧憲法よりもはるかに見劣りする「自民党憲法草案」として現れている。もはや立憲主義も否定し、単に統治者の、というより隠然として存在する維新以来の日本の既得権者や保守層(ほとんどはいま東京にいるはず)の利益を代表する人々の意志によって国家が操縦されるのを良しとする憲法であり、それを天皇の元首化とそれにかしずく臣下の構図としてみせることで下々の者は下位にあるが故、その構図を何か本当に恐れ多い事と信じ(つまりああした地位の高い人々がかしずいているのだから)、かつそれにあずかることを有難いと感じるようになる仕組み、つまりパターナリズム(温情主義)による支配である。これが浸透すると(すでにというか、かなり以前から浸透しているが)、権利を主張すること、意見を言う事、(庶民の分際で)平和を口にすることなどは、分をわきまえぬことであり、そうした主張は不謹慎でさえある。大いなる権威や権力はすべて見通しているのだから、こちらに任せておきなさいということになる。
そもそもこのような構図はむしろ学校や部活動や会社において普通に見られるものである。ただ、これまでは少なくとも「戦後民主主義」の理想によって覆われていた。その覆いは先に述べたように、無力なものとして揶揄されるようになると、露骨に現れる。それが橋下大阪府知事、ブラック企業と批判される、ワタミの渡邊氏(現参院議員)、あるいはユニクロの社長さんの主張などが良い例であろう。今回のNHK会長の籾井氏の発言も同じ文脈で理解しうる。
さて、このような事態をどうとらえるべきだろうか。それに同意する人もあろうし、同意しない人もある。皆さんはどうでしょうか?私はどうだろうか。私はこの事態を極めて危険であり、憂慮すべきものと見ている。なぜか?
結論から言えば、私は権力による命令とか権威に基づく無言の力とか、数の多さとか、人を駆り立てて競争させて選別するとか、体罰などと称して暴力によって訓育するとか、軍事力を増すことで平和が持続するという主張など、全く信用できないからです。これらはすべて、人と人の関わりを壊す、あるいは関わりの構築を阻む、そして支配し支配されるという歪な関係をもたらす(それも関係といえばそうだが、不均衡の関係は結局苦痛だろう)。
私はこうした立場にどうして立つようになったのか?
2、預言者エレミヤ
それはわたしが単にある種のあまのじゃく的な性格だからだろうか。しかしそれは全く違うことがわかった。それは旧約を学び始めてからだ。今日は細かく触れないが、やはりモーセの生涯を知ったときだ。さらに預言者や新約聖書イエスを知ってさらに、自分が真っ当だと確信するようになったのでした。
さて、今日はエレミヤですが、彼はおそらく旧約聖書における預言者のうち、最も人間的な預言者だと思います。彼の召命は紀元前626年頃ともいわれますが、これはヨシヤ王の宗教改革の直前です。つまり、ヨシヤが王となってしばらく後(ヨシヤは8歳で即位、これはクーデタの結果。王下21章19―24節参照。)、政治的宗教的なラディカルな改革が行われた。それは地方聖所の廃止と祭儀のエルサレム中心化でした。この改革は申命記改革とも呼ばれ、神殿で発見されたモーセの律法に基づいて行われたとされます。これはしかし、モーセの名を借りた権力的・暴力的な革命とも見られます。これを積極的に評価することもできますが(つまり、それによってヤハウェ宗教は「純化」され、いかにも一神教となった)、結局それは中央集権的な国家主義であり、これによって多くの人々が傷ついた。列王記ではヨシヤ王は理想化されますが(王下22章2節)、実際にはどうだったか。ヨシヤ王はエジプトとの戦闘で死に、結局エジプトのファラオ・ネコは一時的にユダの支配権を握ったのである(王下23章33-35節)。ヨシヤの統治は事実上じきに崩れたといえる。エレミヤはこうしたヨシヤの統治の消息をつぶさに見ていた。彼が自分の出身地アナトトの人々から攻撃されていることから見て(エレ11章18―23節。エレミヤの告白1)、彼が(祭司の家系にもかかわらず)ヨシヤ改革を支持したからと見られるが、ヨシヤ王の死後、次第にバビロンの危機が迫るや、彼は民族主義的高揚とそれに基づく主戦論を真っ向から否定した(20章-21章)。それどころか、ユダとエルサレムはバビロンによって滅ぼされるのである。理由はエルサレムの支配階級の堕落である。エルサレムへの権力の集中は必然的に富の偏在化と貧富の差を産む。それゆえ富と権力を握った者は容易に堕落する。にもかかわらず、中央集権はヨシヤ王とその取り巻きには神の意志とされている。おそらくエレミヤはこうした改革以後の混乱と腐敗を見るにつけ、圧倒的は滅びの感覚、罪の感覚を次第に肥大化させたと思われる。そこから彼の非常に内省的で、倫理的な審判預言が語られたのだろうと思う。
このような彼の激しい情念に基づく預言活動は、現実的にエルサレムの住民に一部受け入れられたが、権力者にとっては極めて憂慮すべき発言であり、彼を排除するのは当然の行動であったと思われる。20章1―2節では主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルがエレミヤを鞭打たせた上で拘留したことを伝えている。さらにエレミヤはその後、エルサレムが包囲された時期、すなわち第2回の捕囚とエルサレムの陥落の時期、ゼデキヤ王によって拘留されていたのである(エレ37章)。
3、エレミヤ書15章10―21節
本日の聖書個所はそのエレミヤの一人称の告白うち、第二のものです。エルサレムの告発と審判預言を繰り返したエレミヤは、時に自分の預言者として活動に耐えられなくなります。そして、神に向かって訴えるのでした。彼はここで「わが母よ」と呼びかけ「どうして私を産んだのか」と問っています。これはもちろん問いではなく、嘆きです。「国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。」つまり彼はその預言活動によっていたるところで厄介者扱いされている。しかもエレミヤは「わたしは敵対する者のためにも幸いを願い、彼らに災いや苦しみが襲うとき、あなたにとりなしをしたではありませんか」と述べる。彼はすでにイエスを先取りし、敵のために祈るのである。彼は要するに、なぜ神に忠実なしもべであるのに、かえって苦しむのか、もはや耐えられないというわけです。12―14節は文脈違いの言葉があり、これを除いて15節以下を読むと、エレミヤの実に人間的な発言、つまり復讐の要求を見いだす。さらにエゼキエル書3章を想起させる「あなたの言葉が見出された時、私はそれをむさぼり食べました。」と続く。そして「憤りで満たされました」(17節)。つまり審判の預言者として語ること、そしてそのことによって傷を負うことになった(18節)。エレミヤは預言者として活動することの困難の中で、ある限界のようなものを感じる時があった。それは、神は自分を裏切ったのではないかという疑問です(18節後半)これに対し、19節-21節にはヤハウェの言葉が残されている。もちろんこれはエレミヤによって残された、つまりはエレミヤの心に語りかけたヤハウェの言葉である。それが記録された。その内容は驚くべきもので、エレミヤの再度の召命である。その核心は「わたしはあなたを、わたしの口とする。」もう一つ「あなたが彼らのところに帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。」つまり、必ずやあなたをエルサレムの人々はやがて理解するという約束である。20節以下はヤハウェによる確証の言葉。これはやや常套的な印象であるが、極めて力強いものです。
エレミヤはこうして最後に神ヤハウェの再度の預言者としての召命と確証を得て、もう一度民の前に姿を現したのですが、これを彼個人の出来事とだけ考える必要はありません。このエレミヤの嘆きと告白は世界の矛盾、社会の腐敗、共同体の危機において何ら批判や審判を告げ、人心を荒廃から救おうとする人々の集団の嘆きとして理解して良いと思います。つまり、社会の状況を根本的に批判し立て直す人々の嘆きです。
つまり、どうしてこんなことになってしまうのか、だれも理解してくれないではないか、こんなことならやらない方がましだ、迫害されてしまう、といった小さな集団の空しさ、やるせなさ、無力感の発露。にもかかわらず、エレミヤは再度の神からの確証の言葉を受けて、活動した。そしてその言葉を読むわたしたちの時代の批判者は、その言葉からもう一度立ちあがる勇気を得る。そして聖書はあらためて「聖書」と感じ取られる。この相互作用を経て、一人の批判者ないし預言者は、そして彼に連なる共同体は、彼らの時代の危機と罪を共に担い、弛むことなく告発と審判を告げ続けることができる。教会はもちろん、このエレミヤに連なるものであることは間違いありません。したがって、教会はこの日本の危機に対して、はっきりと預言者的使命を果たしていく必要があるのです。