日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年03月30日
「遺言としてのイエスの愛」ヨハネによる福音書13章1~35節
 教会暦に沿うなら少し早目ですが、洗足の物語を中心にヨハネ福音書を学びたい。この13章はイエスの受難、というよりイエスの神のもとへの回帰への時期が迫っていることを前提とする。1節では「この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」とあり、決定的な時が迫ったことを示し、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」と書くが、これは話のリードである。しかし、神のもとへ帰るのは、実は弟子のユダの裏切りによる逮捕と死を経なければならない。そのことを2節が示唆する。3節「イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とあるが、ヨハネの著者は明らかにイエスを神の子として、つまりそれは結局死んでも死なない者として位置づけようとするかに見えるが、そうではない。この「帰る」というのはこの世にいなくなるのであり、残された者にとっては死と同義である。もちろん、ヨハネはひたすらイエスを神に由来しある種の永遠性を持つ者として理想化、ないし権威化しているように見える。たとえば1章に引用されるロゴス賛歌なども、永遠性と崇高さ、権威を表明しているかに見える。
 しかし、それらの表現はむしろイエスの不在、思い出としてのイエス、幻や夢にしか現れないイエス、つまりは受難の果てに死んでいったイエスを何としてもこの世に記憶させたかったゆえのものである。
 しかしながら、イエス自身も実は自らの受難を前にして、何としても自分の最も大切な思いを伝えようと思った。それがこの洗足の行為である。
イエスは自分の最後が迫る中、弟子たちの足を洗い始める。これに対し、ペトロはどうして?と問う。「私のしていることは、今あなたにはわかるまいが、後で、わかるようになる」と煙に巻くが、ペトロが私の足など洗わないで、と恐縮するが、イエスは「もし私が洗わないなら、あなたと私は何のかかわりもないことになる」と言う。つまり、お前はほんとに私の弟子なのだとペトロに伝えると、ペトロは喜びのあまり手も足もという。するとイエスはすでに体を洗った者つまり、洗礼(正確には浸礼)を経ているのだから、それには及ばず、旅をして疲れ汚れている足だけでよいという。ただ、全身を水で清めたとしても、清められていない者もいるという。これはユダの事を指すが、それは後の問題で、ここでは洗足が主題である。私はこれを当然イエスの実際の行動と考えている。イエスは自分の終りを悟り、弟子たちにこの世界の最も大切なこと、つまりこの世を平安で、生きやすく、一人ひとりが神の子として生きることのできるようにと、その最も基本的なことを行動で示した。それが弟子の足を洗うというやや唐突な行動であった。
イエスは弟子たちの足を洗い終わると、やや大げさに「あなたがたはわたしの事を先生とか主とか呼ぶが、それは正しい」とユーモアを交えて言う。そしてこの洗足は模範であるという。つまり、自分を偉いなどと思わず、互いに仕え、労わりあうよう勧告する。そして17節「このことがわかり、その通りに実行するなら幸いである」と述べた。
18節-20節は詩編41編10節を引用しながら、受難の後のことを先取りする付加と見られるが、19節に特徴的な表現「わたしはある」が出る。これは4章26節、8章24,28節にもあるが、旧約の伝統との関連で理解されている。しかし、これは単に「わたしだ」とか「わたしがそれだ」とか訳すべきもので、「わたしはある」というのは間違いとする見方もある(田川)。しかしこれは旧約との関連を告げているのではなく、逆にモーセに現れた神の名「エフイエ」(わたしはある)をイエス自身に重ねている点で、ユダヤ教との決別なのであり、神はついにイエスを通して現れたことを宣言する非常に深刻な言葉かもしれない。つまり旧約と関連するがそれはイエス時代のユダヤ教に独占された旧約聖書を自分のもとに取り戻す、ないし旧約聖書のヤハウェのリアリティ、つまり解放と自由、そして平等といった出エジプト以来の価値を取り戻すということである。つまりイエスはモーセに現れた神の再臨そのものである。だから、律法主義と、儀礼的遮断による自他の差別のようなユダヤ教の現実を否定し、そのエッセンスを取り戻すということである。
21-30節はユダの裏切りを予告する場面である。ここに出る「イエスの愛しておられた者」とはこの福音書を書いた者であるという注釈が21章24節にあるが、やや奇妙である。この人物が架空のものか、それともある重要な役割を担った弟子なのかは議論のあるところだが、そもそもこの弟子は男なのだろうか?
31節以下は良くわかりにくいが、神が人の子によって栄光を受けるとは、イエスがこの世に神の支配を明らかに示したことを意味する。つまり、人間が神を再度知ったということ。そして人の子に栄光を与えるとはつまりイエスが神のもとに帰るという事なのだろう。とすると、イエスの生涯が間もなく閉じることを暗示する。そこで語られたのが34節。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。これは弟子への遺言としての掟であるが、この「愛し合う」という言葉の意味は、互いに労り慈しむ、互いを大事にせよということである。それは先にイエスが実践した洗足に表現されているのは言うまでもない。
ところで弟子たちはこのイエスの言葉をどう受け止めたのだろうか。わたしはこれを遺言として受け止めたのではないかと思う。もちろんこの個所が後の付加の可能性もあるが、この言葉に先立つ洗足の行為も一体として考えると、やはりこれはイエスの遺言ないし遺言的な象徴行為である。私たちはある区切られた時の終わりに直面する時、最も大切なものを感じ取ることが多い。そしイエス自身も終わりを意識した時、最も大切なものを示したかった。それは13章冒頭の「弟子たちを愛し抜いた」というやや唐突で極端な表現に要約されていた。
わたしたちキリスト者はこうしたイエスの遺言を大切にして生きてきた。そもそもテスタメントは遺言である。その核心は「愛」であるが、それは愛の対象が失われるという悲しみにおいて最も深く、強く気付かれ、実践されるものであろう。だからキリスト教はレントの時、イエスの受難と彼が失われていくことの苦しみと悲しみを聖なる時としたのである。その時にこそわたしたちは弟子たちに自分を重ね、愛の本質を知る。そして相互にいたわり、大切にすることの意義を確認する。その具体的な姿は当然一人ひとり違うが、気持ちは同じであろう。さらに、こうしたレントの季節においてくりかえし学ばれ、追体験されたことを通じて、それぞれの生活の場面で、これを生かす事が出来る。すなわち、今目の前にある生活、教会の仲間、友人、野の草花、そして自分自身、これらがそれぞれ限られた時をもっていること、つまりそれはら失われて、去っていくこと、このことに気づくとき、私たちは正しく愛を感じ取る。その時私たちは互いの関係を改善し、和解し、互いを労り合い、大切にする。
もちろんそんな限界を意識せずとも、実践すべきなのは言うまでもないが、ヨハネ福音書はそれが簡単ではないことを語る。それがおそらく光と闇という二元論的な思考に結果したのだろう。つまり愛し合うことに気づくことのない者たち、の存在である。これをどう克服していくのか、それはおそらく初代教会の最も大きな問題だった、もちろん教会内部、外部を問わない。それが極端な二元論や排除のシステムを作ることになって行ったのは歴史が教えるところです。しかし、元来、そうした排除や二元論的な分断を乗り越えることがイエスの教えであった。今、自分たちの身の回りで、国全体として、そして国際社会において、分断や差別、さらには無関心が広がりつつありますが、イエスの洗足、そして愛の掟を今一度想起し、教会において、さらにはその外に向かってこの遺言としての聖書を伝え、それを役立てていかなければと強く思うのです。