日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2014年04月20日
「復活、あるいは忘れ去られることの拒否」
 復活信仰はキリスト教にとって要となるものです。しかし、この復活という言葉が指す事柄は一義的ではありません。
 復活祭は春にあたるので、季節の循環の中での冬の終わりとともに植物が芽を出し、再生することの喜びを復活と同一視し、いのちの再生の意味で使われています。こうした再生の喜びはヨエル書2章21節以下に次のように歌われています。「大地よ、恐れるな、喜び踊れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。野の獣、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり、木は実を結び、いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。云々。」これは蝗(イナゴ)の被害という深刻な災いを審判と捉えた預言者が、時の移ろいとともに自然が再生する驚きと感動と喜びを神の大いなる恵みの業としてとらえているのです。蝗の災害を自然のサイクルの破綻ととらえ、その破綻こそ神の審判であるとみなし、それが悔い改めによってひとまず収まった後に、かのサイクルがもとに戻り、生き物の営みが回復されることを神の恵みの業と捉えること、これが復活であり、それが拡大されて、私たち人間の命もそれぞれの死を経た後もう一度生まれ変わるという信仰へと発展し、人間の限界としての死を乗り越える希望の根拠、あるいは慰めの手段として多くの人々に受容されている。もちろん単なる再生ではなく、それは倫理的な態度、すなわち各人の罪責を告白し、悔い改めた人生を歩むことによって、そうした穏やかな再生を期することが出来るという、ある種の応報思想です。
 これは実は特にキリスト教的と言えるものではありません。聖書の語る復活とは自然のサイクルとは関係ないか、そうしたサイクルを突破する、あるいは世の習いとは全く矛盾する事柄である。つまり、死人がもう一度立ち上がるという、極めて恐ろしくかつおぞましい、他方で荒唐無稽でさえあるような、出来事です。イエスはキリストとして世の秩序を超えて復活した。だからイエスの歩みに倣うなら、あるいは少なくともイエスこそメシア(キリスト)と仰ぐなら、私たちもイエスの復活に与かることができる、したがって死という究極の限界をもはや恐れる必要もない、ここに復活信仰があります。
 このような復活信仰はすでに当時のユダヤ教、とくにダニエル書に見られる黙示的なユダヤ教にすでに存在したものです。イエス自身がその考え方を受容した節もありますが、マタイ福音書記者も明らかに受容しています。つまり復活信仰は必ずしもキリスト教に特有なものではありません。ユダヤ教の一部の思想を拡大したものです。
 ところで、死者の復活は常に異常なこと、荒唐無稽なこと、つまずきのもととして取り上げられてきました。原始教団においてもそうですし、以後のキリスト教伝道においてもそうだったと思われます。しかし、パウロを出すまでもなく、これはひたすら強調され、使徒信条、ニカイア・カルケドン信条において当然保持されています。
 ところで、復活という異常なこと、これが中心にあることの意味は、単に死という人間の限界に対する宗教的観念による一般的な慰めであるといったものではありません。つまり、これはキリスト教が存在しうるための本質的な思想です。では、どういう意味で本質的なのであるか?
(福音書を読むと、すでにイエスは生前からユダヤ教黙示思想にならって自分の死と復活を預言しています(例えばマタイ24章29―31節)。つまり、彼自身が復活信仰を持っていたということです。だとしても、ではどうしてイエスがそうした復活信仰を受容したのかが問われなくてはなりません。)
 私はイエスが復活したことを事実の問題として問い、またそれについて争うことはすべきでないと考えます。もちろん信仰の問題としてとらえるのですが、とはいえ、それは単に人間一般の死を宗教的に乗り越えるための信念のようなものとして位置づけるというのではありません。宗教的な死の乗り越えは特段キリスト教である必要はありません。日本では仏教が様々な趣向で死の乗り越えを提示しています。そういう何か一般的で普遍的な宗教思想の一部として「復活」があるとは私は思いません。
 では、どうしてキリストの復活が大切なのか。なぜそれを信じることが欠くことができないのか?それは、これがなければイエスの、あるいはキリストとしてのイエスのリアリティ、存在意義が永久に失われただろう、という意味で、必須なものなのです。イエス・キリストが復活したという宣言はもちろん荒唐無稽です。しかし、これを「信仰」として、つまりこの復活のキリストのイメージを心に固く保持することによって、原始教団の人々はイエスを歴史の闇に葬り去る力を拒否したのです。もちろんイエスの復活という幻が、パウロやその他の弟子たちを伝道へと鼓舞する力となったという面があると思います。また、その信仰がなければ彼ら自身も立ち上がることができなかったという事もあるでしょう。そしてそれらの方が復活信仰の意義としては重要だと考える人もいるでしょう。
 けれども私は「復活」というきわどい言説は、その本来の機能から見れば、イエスという男、あのガリラヤで貧しき人、病の人、差別された人、そしてエルサレムの支配者たちを否定し、富の力に支配された世界を根本的に変えようと奮い立ったイエスが忘れ去られるのを拒否する、という非常に主体的で未来への期待を込めた、根本的な言説(宣言)であり、信条である、ということです。
 イエスの復活を信じ、そしてそれにならう者たち、彼をキリストとして受容する人々は、実はイエスの苦難の歩みのリアリティが、いやもっと広く言えば聖書の解放のリアリティが、もっと具体的言えば、私たち自身を含む、この時代にある人々の様々な苦難が、忘れされることを拒否しているのです。復活するということは、あの十字架にかかった義人の命が、死によっては、あるいはこの世の秩序の力によっては終わらないことを、この世とそして未来の世へと宣言することでした。そして今の時代にあってさえも同じです。イエスの働き、すなわち神の働きは、わたしたちキリスト者がイエス・キリストの復活を祝い、彼の働きの深い意義を想起する時、もう一度私たちは墓を最初に見に行った女性たちやそれを聞いた弟子たちの恐れとともに、私たちにやって来る。もちろんそれはなにか神秘的で秘教的(エソテリック)なものではありません。復活とは私たちがイエスの苦難の生涯が目指したこの世の救いという途方もない目標、すなわちこの世は人が互いに柔和で平等で、平和となるという事、そこに生きる者がそうした人間に変わる、そして各人が人生の主人公になるということを想起し、それに参与する私たちになることです。したがって喜びでもあるが、時に険しいものともなるでしょう。なぜなら本質的には私たち一人一人の生き方をイエスの方に、イエスの働きに、向き合わせることになるのだから。そしてそれが、今の世を生きながらの私たち自身の「復活」でもあります。そしてそれだけなく、私たちがこの世界を去った後も、私たちがこの世にあってイエスの愛を実践したものとして覚えられることを、つまり忘れ去られないこと、それゆえ最後の時に復活することにつながっていくのです。もちろんこれは信仰の事柄です。そしてその事柄を伝え、祝い、期待し続けることを通じて、世の救いを導く事が出来るのです。そして教会がそれの拠点としてなるのです。
 私たちはイエスの復活を様々に解釈するが、その根本にあるのはイエスを忘れてはならない、永久に忘れてはならないという決意が復活信仰を生み出したのであり、その信仰は、その機能においてイエス自身の業を忘却の彼方に放置しないという実に根本的な動機に端を発するのであろうと思う。
 このように考えてみますと、復活祭は、一面では喜ばしい春の季節の「再生」や天国での素朴な永遠の命を確認するものと見えますが、それはイエスを忘却から救う言説として、イエスによって示された世の救いという気宇壮大な幻を受け継ぐことを世に向かって誓うときでもあるのです。それゆえ、復活を祝うのは世の救いをもたらしたイエスの課題を自分たちの世界に見出すことにつながっているのです。