日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年06月15日
「命は二度、与えられる」使徒言行録2章22~24節
 使徒言行録2章はペンテコステの基となる記事です。そこには聖霊降臨の後、ガリラヤの人々が諸国語で語り出した出来事が伝えられていますが、これはキリスト教の世界的な広がりを暗示する出来事です。ところで、使徒言行録はルカによる福音書の続きに当たり、本来まとめて読まれるべきものですが、新約はヨハネ福音書で隔てられています。新約聖書はその順序も含めて、読まれ方は見直されてよい。ルカ文書のキリスト教の理解とヨハネ文書のキリスト教理解はかなり違うし、パウロ文書のキリスト理解はより独創的なものである。
さて、1章には、イエスの復活後、イエスが天に挙げられたとある(1章6―9節)。これは列王記にあるエリヤの昇天と似る。ルカ伝および使徒言行録はサムエル記・列王記の語り方にならって、途中途中に説教を入れているが、これは申命記学派による演説挿入と同形である。またイエスの誕生物語がサムエルの誕生物語と重なるのは良く知られている。このように、ルカ文書は全体として旧約聖書の物語とその構造を利用しながら書かれているように感じられる。
 イエスの昇天後、天使によって再臨が告知され(11節)、マティアを弟子として選出する話を経て、聖霊降臨の物語に移る。先週はこのことを記念するペンテコステ祭であったが、これは教会の成立を祝う大切な記念として祝われてきた。嵐と炎の舌(雷光)とともに聖霊に満たされ、さまざまな言葉で語り出した。これは一種のファンタジーです。この物語とイエスの誕生物語はルカの文学的力の大きさを示すと思う。ファンタジーの威力は圧倒的に人々を魅了する。ルカ文書はキリスト教の伝道とそのイメージの受容に際して、非常に大きな役割を担ったのではと思う。誕生物語の影響力、復活と再臨、そして聖霊降臨、これらの描写の映像的な豊かさはメシア到来のイメージを決定的な形で作り出したと思われる。
 さて、その後に来るのがペテロの説教である。ここにはいわゆるケリュグマ(宣教の要旨、核心)とみなされる部分があるとされる(2章22-24節)。
「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。……」
ここにはキリスト教とは何かを問われた時に最も簡略な説明がある。つまり外形的な表現をなしている。すなわち、イエスはメシアであり、それは神の計画に沿って地上に送られ、やがて十字架の苦難を経て、復活した。そしてその苦難に責任のある人々すなわち全イスラエルは心を入れ替えなければならない、そのためには洗礼を受け改心する。
 
 しかし聖書内在的な研究ではなく、外側から史的イエスを研究することの可能性を低くみている。政治や社会の関数としてイエスの活動を歴史の中でとらえなおすことは当然可能であるし、さらに現代の状況との類比においてイエスの活動を捉え理解することも出来るだろう。つまり、教会の証言としての新約聖書はイエスを中心とした証言と見えるにしても、そうした証言が現れた経緯は単に文学的様式史的研究からは見いだせない(この点ではブルトマンの理解は妥当する)。証言の生まれる現実(リアリティ)の正確な検討を通して歴史を見極め、そことの連続において、つまり地続きのものとして、ケリュグマを理解すべきであり、かつ、ケリュグマ自体を旧約からの連続性において相対化する必要がある。もちろんこうした発言は異端的であるが、キリスト証言からすべてを始めることはその外を結局は見ないことになり、どれほど威厳があり、どれほど美しく見えようと、それは単なる独善に終わるだろう。

 
さて、ペテロの説教では原始教会のケリュグマ(宣教の骨組み)が語られている。それは詩編16編8―11節、110編1節を70人訳から引用し、ダビデによるとされる詩を用いてイエスを証明しようとする。このような、私たちから見れば牽強付会な、あるいは荒唐無稽でさえある証明の論理はもはや意味をもたないだろう。なぜなら、この証明は当時のユダヤ人の旧約理解とその適用方法、例えばミドラシュ的な解釈(実生活での利用)、さらにはアレゴリカルな解釈(言葉や語りの内容を次元を変えて理解する。)において意味が生産されたもの、ユダヤ教の文脈の中で理解可能なものであり、現代の、それも日本人がこのテキストを読んでも証明も理解も出来ないだろう。
 このテキストは事実上、ユダヤ人への弁証であり、恐らくルカの立場を反映する。22-24節はその証明ないし弁証の目的であり、結論であるが、そもそもこれは何を訴えようとしているのか。
 ・イエスは神から遣わされた者、このことはしるしや奇跡によって証明された
 ・神の計画のもと、あなたたちユダヤ人に引き渡した。しかし律法を知らない者(ローマ人)の手を借りて十字架に付けた。
 ・神は死の苦しみからイエスを解放し、復活させた。
この後の25―35節では、詩編の言葉を予言と見て、その成就としてイエスの出来事を捉えることを経て、今日の聖書の句に至ります。
 「だからイスラエルの全家は……あなた方が十字架に付けて殺したイエスを神は主とし、メシアとなさった」
あなた方イスラエルの全家はイエスを十字架に付け殺したが、しかしそのイエスを神は復活させ、メシアとした、つまりこのイエスに神の義が現れているのだからあなた方には罪があると言うわけだ。これはなぜか?冤罪と見るべきか?おそらくそういう水準で理解することではない。イエスの苦難は象徴ないし代表として解釈されるべきである。何を象徴するか?それは貧困や差別に苦しむ民衆、重い病や障碍によって社会から排除されている者の苦難を象徴する。多くのユダヤ人は自分のせいであるとは思っていない。むしろ彼らが神に打たれたからだ、努力が足りないからだ、などと常に十字架にかけてきたのだ。これが神から見れば大きな罪である。しかし神はイエスをメシアとして復活させた。これは彼ら抑圧された者たちに神の正義があることを象徴する。もちろん信仰上の事柄であるが、これは支配者にとっては聴き捨てならない重大な問題であり、強さの罪が問われている。同時に、抑圧に苦しむ側にとっても大きな問いかけとなる。つまりあなたたちは求めなければならない、苦しみから救われなければならない、そのために立ちあがらなくてはならないのだ。イエスはときに「あなたの信仰があなたを救った」というが、それは「あなた自身が」立ちあがったことを象徴する言葉である。要するに、イエスのもたらす救いはこの世の秩序を乗り越えることだが、その本質は貧困、病、差別や戦争の広がるこの世の歪みを元に戻すことである。40節に「邪悪な時代から救われなさい」という勧告があるが、この邪悪という言葉は的を射ていない。むしろこれは歪んだとか曲がったを意味する。歪んだ時代から救われるためにはそれを正さなければならないが、それはイエスを、つまりは民衆を抑圧している者を抑圧されている民衆が滅ぼすことによらなければ、つまり悪とされる者たちをやっつけなくてはならないのだろうか?それは結局、新たな戦争である。しかもおそらくは勝ち目のない戦争。イエスは神の正義の実現を戦いに求めたのか?もちろん違います。ではどうするのか?
 イエスは抑圧する側に改心を求めた。そして殺されたが、復活を信じる弟子たちは再び、イエスの死の責任を担う者たちに、やはり改心を求めた。あなたがたは極めて重い罪を犯してしまったのだから、というのである。もちろんこれは信仰から見た言い方です。
 世に満ちる苦難や絶望、それを乗り越える道は実は各人の気づきと決断とその実行にある。それをやがて神との「和解」と理解するようになるが、今のところそこまで深められてはいない。しかし、十字架にかけた者も、それを見ていた者も、そして逃げてしまったこのペテロのような弟子たちも、そしてその出来事の外にいるさまざまの人々も、もう一度あなた自身を顧みて、本当にイエスの死に責任がないのかを考えよ、そしてそれに気づいたら、洗礼を受けて、聖霊を受けて心の向きを神の方に変え、生まれ変わるのだ。このようにルカは説得する。さらに、今日は読みませんが、ルカはその出来たばかりの共同体が互いに持物を持ちあって、分け合う非常に理想化された共同体さえ、描いている。もちろんこれも、彼の得意なファンタジーであるに違いない。しかし、これこそがキリスト教共同体の最もわかりやすい姿なのである。
 ルカはこうして、キリスト教が一種の生まれ変わりを実現する非常に魅力ある新しい教えであることを伝えている。もちろんそこには紀元1世紀のパレスチナの状況やユダヤ社会の現実の枠組みの中でしか、意味をなさないかのように見える。しかし、それは違うと思う。なぜならこのペテロの説教が言おうとする事柄は、恐らく普遍的だから。どうしてそう言えるのか?それは現実の構図が変わっていないから。持て盛る者の横暴と、格差にあえぐ多くの人々、そしてそれ自体に無関心な人々、そして何とかその間に立っているのが教会である……。いや今は教会がその自覚があるかどうか。私たちは今本気でペテロの説教の、あるいはルカのファンタジーの力をこの手に取り戻さなくてはなりません。そのためには私たちはペンテコステの祝いを行ったのですから。