日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年07月27日
「預言の巻物は甘い、しかし預言者の務めは厳しい」エゼキエル書2章1~3章3節、および16~21節
 預言者エゼキエルが見た幻の叙述は、たいていの人にとって、理解に苦しむものでしょう。それは非常にビジュアルなのだが、その形を私たちは想像しにくい。おそらく彼はイザヤと同じように神殿の内部の様々な彫刻やそれに類したものを詳細に記憶しているが、そうしたものが幻の中でいきいきと動くものとなり、さらにヤハウェの顕現に関わる伝統的なイメージに基づいた光景(雷鳴、稲妻、大風、炎、宝石など)がそれらとないまぜになり、あの1章4節から始まるヤハウェの顕現の描写が完成したと思われる。もちろん、これは彼が幻として「見た」ものであり、彼自身の「心的現実」に過ぎない。しかし、彼はその幻を巻物に記したのである。こうして彼の見た幻は、他の人にとっても新たな経験となる可能性を持ったのである。預言の幻を「書く」ということ、文書化することは、単なる証言ではなく、また単なる正統性の主張でもなく、まずはこの幻を他者に示し、その意味を問わせることにあるのではないか?わたしはこの謎めいた幻の叙述を読むたびにエゼキエルのいたケバル川のほとりへと誘われ、彼の幻を経験しようと試みる。そして彼はなぜこうした幻を見たのかを考える。
彼の叙述には、そうした異様な吸引力があるのだが、他方たぶん多くの人ははねつけられるか、あるいは拒絶反応を示すことになる。この叙述は要するに何を言いたいのか、こんな叙述のスタイルをなぜとったのか。これを理解しても仕方ないのではと思ってしまう。私もたぶん最初はそんな反応だったのかもしれないが、ある時この幻の持つ尋常でない凄味のようなものが感じられた瞬間にすべて謎が解け、エゼキエル書がはっきりと理解できるようになったのです。
エゼキエルは要するに原点に遡行しているのだということです。もちろんそのイメージはソロモンの神殿内部の様々な呪物に基づくが、それらは副次的、付随的なもので、エゼキエルが見ているのはヤハウェらしきものが神輿にのって空を飛んでいるという事態です。つまりヤハウェはついにエルサレムを離れてしまったということですが、しかし、これはヤハウェの自由を象徴する。つまりヤハウェはその当初の自由、荒れ野を導く神、すなわちイスラエルの出発点において存在したヤハウェの在りかたへと回帰したと見ることもできるのです。これはもちろん、エゼキエルの経験、すなわちヨヤキン王とともに捕囚となり、エルサレムを離れバビロンの町の一つに連れて来られたことと関連する。エゼキエルにとってはすでにエルサレムは棄てられた、同時にヤハウェはもう一度自由になり、同時にイスラエルも自由になった、つまり、もう一度始めからやり直すことに向けての覚悟のようなものがこの幻の背後にあると私には思われる。今日は触れませんが、後の方では非常に辛辣、または露悪的、過剰に性的な表現を、これでもかというくらい用いて(それゆえこの書物はユダヤ教では成人するまでは読まないことが勧められた。ただしそれだけが理由なのでなく、この初めの幻自体がある種の神秘主義的な過剰な思弁へと人を引き込む恐れがあるためでもある。)ひたすらイスラエルの背信を告発しているのですが、エゼキエルはこれまでのイスラエルの歴史をすべて否定し、完全に仕切り直しをするべきだと言う非常に過激な立場を表明しています。このことからも、彼は原点への遡行という事を非常に意識していたことがわかります。
 1章から始まるヤハウェの顕現の幻の特徴は、天空を駆ける山車が神輿のように感じられますが、よく読んで行くとそれはヤハウェのいる場所を指し示すものでしかない(1章22節)。主役は水晶の大空の上にいる。これは明らかに創世記1章の大空と呼応する。大空は創造の二日目に現れた。そしてその大空の上に輝きがあり、炎のようであり、また虹のようでもあるとされるが(3章27節以下)、これは栄光と呼ばれ、恐らくは創造の最初の光と関連するだろう。とすると、この物語は天地創造の出発点さえ意識していることになる。イスラエルとヤハウェとの関係どころか、世界そのものの始まりという気宇壮大な観点をエゼキエルは導入している可能性もある。
 さて、こうした幻の後で、エゼキエルは語りかけられたとされる。それが本日の聖書である。
はじめに注意すべきことは、1章は幻の描写であり、それは一方的にエゼキエルが見たものであるが、2章からは言葉となる。つまりここにおいてヤハウェが語るのだ。その端緒は「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」これは象徴的に見えるが、単にそのままの意味、つまりヤハウェの幻に接するとともに、ある種の憑依現象に見舞われたエゼキエルが倒れ伏していたゆえに、ただ「立て」と命じられただけとも見える(後にそうした事態も記録されている)。しかし、これは両方の意味を持つ。それは「霊が入り、わたしを自分の足で立たせた」とあるので、エゼキエルは伏していたことを暗示するとともに(霊の力とは言え)自分の足で立ったのだということだが、さらには自らの足で歩み始めること、ひろく「復活」を暗示していると考えられるのである。はるか後代のイエスの物語ではこの自分の足で歩くとか立つとかの表現が出るが、これはこのエゼキエルへの語りかけを踏襲しているように思われる。すなわち、新しい出発、あるいは再出発、もっと言えば「復活」である。しかも呼びかけは「人の子」である。これは新約ではメシアの称号であるが、もちろん、ここではそうではない。こちらは単に取るに足らない、罪に捕われた、塵から生まれた「人間」を指すと見られるが、ここでアダムの子という表現をより真剣に受け止めるなら、やはりこれもある種の始まりを暗示する。すなわち最初の人間であるアダムへの言及である。
やがてヤハウェからの使命が下される。それは「イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。」というものである。エゼキエルは、イザヤやエレミヤと同様、困難な課題を与えられた。それは立ち返りそうもない民に使わされるということだ。しかし「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」と命じられる。その言葉に背いてはならない。背くなら結局あの民と同じとされる。何とも深刻である。その時である。「わたしが与えるものを食べなさい。」との命令とともに、ヤハウェの手(と思われる)には巻物があり、哀歌、呻き、嘆きが記されている。
この命令は実に奇妙であるが、非常に重大な意味を担う。巻物はヤハウェによってエゼキエルの口にいれられたが、「それは蜜のように甘かった」。普通に見れば、こんな表現は余りにも常軌を逸する。ヤハウェの言葉は単なる食べ物ではなく、甘く旨い。これは後にイエスが語る「人はパンのみ生きるのではなく、主の言葉によって云々」よりもはるかに強烈である。預言者にとって単なる生きる糧ではなく、生きる喜びとしての、あるいは快楽でさえある、神の言葉なのである。これはおそらく普通のキリスト教が予想するよりはるかに、言葉への思い、その可能性への信頼といったものが大きいことを暗示する。やがて、それはやや極端な、場合によっては偏狭な律法主義へと変貌するが、恐らくそうした人々にとって律法はエゼキエルのあの感覚と同じ味覚なのかもしれない。
ただし、エゼキエルの任務はこうした甘い巻物と裏腹に、非常に困難なものである。それが3章16節以下に記されている。それによると、預言者は不作為責任を問われるということだ。まず、任務をまとめて「イスラエルの見張り」とするが、具体的には民への警告である。警告するなら、たとえ警告を受けた人が悔い改めようとそうでなかろうと、責任は問われないが、警告をしないままに放置し、その人が死んだなら、預言者は責任を問われるというのである。
預言者の任務は悔い改めを迫ることであるが、これを放棄することは許されない。悔い改めを促すことを放棄するのは、実は悔い改めない人々と同じであるとみなされる。なぜなら、ヤハウェの言葉に忠実でないからだ。ヤハウェに背いた人々に罪があるのは当然として、それに警告しない人も罪があるのである。
ここでわたしたちキリスト教徒は、あるいは教会は自分の使命をどうとらえるべきかを自問せざるをえません。私たちは聖書の伝統に立つ事を自覚していますが、だとするなら教会の中だけにとどまらず、広く自分たちの住む共同体や国家が壊れつつある中にあって、それがわかっていながら世に警告を発しなければ、その怠慢の責任を問われることになると私は思う。エゼキエルはすでに国家がほぼ失われつつある中で、最後のあがきをしたとも見えるが、それをしないことは許されない。それは民を救う可能性があるというだけではない。実はヤハウェ自身を救うためでもある。もちろんそれは結果的な見方に過ぎないが、後の世は、エゼキエル書が残ったこと自体をヤハウェの存在と支配の証しと考えるようになるだろう。ヤハウェを意識した人、信じた人、信じ続ける人は、世の背信、世の罪、すなわち戦争、貧困、疫病、あるいはその原因を作っている人、あるいは世界の様々な困難の中で世の中こんなものだ、誰が悪いのでもないとうそぶいている人、現実がこうなんだから仕方ないなどの現状維持派や伝統主義者、カミもホトケもないとニヒリズムに陥って知る人、こうした人びとに批判や警告を行わなければならない。キリスト教を社会的な、政治的な、道徳的なこととは無関係だと感じている人がいるとすればそれは全く間違いです。
今の日本は歴史駅な曲がり角と言われている。しかし、多くは保守反動や現実主義者によって、新しいものは生み出しにくくなっている。そしてその先には深刻な戦争、貧困、格差が見え隠れする。そこで、わたしたちはもう一度エゼキエルの危機を真剣に受け止め、世に対する責任を自覚すべきである。しかも、預言の巻物は甘いということ、警告や批判の言葉が真の食料であり、かつ喜びであることを確信しながら、世にあるキリスト者としての責任を果たしていかなくてはなりません。