日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年08月10日
「牢にいるヨハネとイエスの覚悟」マタイによる福音書11章2~19節
 イエスの活動は洗礼者ヨハネが逮捕されたあとから始まったとされる。ただし、マタイの記事ではイエスはヨハネがヘロデ・アンティパスによって逮捕された後、ひとまずガリラヤに「退かれた」とされる。つまりイエスはヨハネ逮捕という衝撃的な出来事を知って、ヘロデ・アンティパスの権力から離れるのである。ところで、ヘロデはなぜヨハネを逮捕したのだろうか?マタイ14章によるとヘロデ・アンティパスが兄弟フィリポの妻を奪ったことを非難したためとされる。これは明らかに律法違反であり、ヨハネから見れば赦しがたいことであるが、これはヘロデ家内部の私的な事件に過ぎない。したがって、こうした批判がヘロデに通じるはずもない。単にヨハネはヘロデの反感を買い、逮捕されたのである。そこにはヨハネの一種の律法への従順、ある種の純粋主義も垣間見える。彼の洗礼運動は当然、こうした律法への素朴な、あるいは純粋な信頼を基にしており、それが荒れ野での活動に、つまり、都市的なものへの反対、エルサレム的な偽善への反対となった。そしてそれはイスラエルの伝統でいえば、預言者的なものである。彼の姿はエリヤ的である。というより、エリヤの再来である。
 つまり彼は律法の極北として荒れ野での厳しい生活に甘んじつつ、当時のユダヤ世界、パレスチナ世界を批判し、悔い改めを真剣に説き、悔い改めの儀式として洗礼運動を指導した。洗礼とはわたしたちの言葉でいえば禊である。つまり、穢れた魂を浄化することであり、それは新たな出発をするための準備の意味を持つ。
 イエスはこのヨハネの洗礼運動に加わり、彼から洗礼を受けたと伝えられている。これはやがてキリスト教にとってやや承認しがたいことに映る。なぜなら、イエスが洗礼を受けたという事、は自身の穢れや罪を強く意識していたことを意味するから、彼の完全性を棄損することになるのである。このことから、物語はヨハネをイエスの前にへりくだらせ、ヨハネよりイエスの方が偉大であるあることをヨハネ自身によって表明させている(3章11節以下)。しかし、ヨハネから洗礼を受けたことは消さなかった。かえって、ヨハネを先駆者として、イエスのメシア性を強調するために積極的に利用した節がある。例えばルカ伝はヨハネとイエスの誕生物語を並行して描き、彼らの母同士があらかじめ知りあっている。いずれにせよ、ヨハネはイエスに先立ち、かつ、イエスを新しい活動へと導いたのである。
 しかし、そのヨハネが逮捕されてしまった。イエスはガリラヤに退却するが、むしろそこから新しい活動を開始する。彼はもはや荒れ野ではなく、町や村で「福音」を述べ伝える。というより、福音そのものとしての活動、すなわち病人を癒し、悪霊を追い払い、貧しいものたちと分けあうことを行い始める。これはもはや預言ではない。洗礼運動のような悔い改めを促して、律法遵守へと回帰させることでもない。つまり彼は促す人ではなく、また単に批判し、非難する人ではない。彼は実現する人である。これは真の意味でのダーバールすなわち言葉である。福音とは言葉であると同時に出来事でもある。イエスは明らかにヨハネとは別次元の活動を開始した。これが彼のメシア性、すなわち神の支配を実現する働きである。
 本日の聖書はヨハネが牢でまだ生きながらえていた時期の話である。なぜかヨハネが弟子をイエスに送って、「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」と問わせている。奇妙な設定である。おそらくこれはマタイ伝の著者の創作であろう。しかし、その後のイエスの言葉は重要である。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」。これは明らかに神の支配が始まっていることの表明である。つまり、ヨハネの問いへの答えは「イエス」である。
 ヨハネの弟子たちが帰った後、イエスは群衆に向かってヨハネに関して説明しているが、これはヨハネを預言者、それも最高の預言者、人間として最も偉大であるとべた褒めしているが、その後には「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」として、恐らくはイエスも含めたイエスに連なる者たちの偉大さを宣言し、新しい共同体に集う群衆を慰める。なぜなら、この天の国運動は厳しく迫害されているからこそ、こうした確かな言葉、鼓舞する言葉が必要なのだ。そしてさらに、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」として、自分たちから新しい時代が始まっていることを強調している。ここにはおそらくヨハネに連なる荒れ野の洗礼運動とは別の、つまりいまだ律法的純粋さに戻ることで道が開けるかのような、あるいは悔い改めてそれで終りというレベルの私的な、あるいは個人的な、あるいは社会的な広がりがないある種の離脱の運動ではなく、それをこえた、世の中全体を変えていく、神の支配の実現というべき新たな運動である。マタイの描くイエスはメシアであるが、このメシアはやがて苦難の僕となる。同時にヨハネも苦難の預言者となる。つまり、ヨハネは仮にこのイエスへの問いかけの出来事とそれへの答え、つまりイエスがヨハネの予想したメシアであるとの答えを聞いた後、間もなく処刑されたのである。もちろんこの断章にはヨハネの死は描かれておらず14章まで持ち越されているが、獄中のヨハネはこの答えを知り、深い感慨を抱いたに違いない。
ただし、実際にはヨハネの運動はイエスの活動とは袂を分かつものであったとも見られる。それは9章14節以下の断食に関する問答からわかる。おそらく逮捕された後の設定であるが、ヨハネの弟子たちが来て、なぜイエスの弟子たちが断食しないのかを問う。するとイエスは、今は婚礼の時、すなわち福音が実現している時であるから断食は必要ないと言っている。そしてさらにやがて花婿が取り去られることを預言し、その時に断食して嘆くのであるという。これはイエス自身の十字架前提としている。さらにこの後かのおりたての布で古い服に継ぎ当てを作ることの愚かさ、古い革袋に新しいぶどう酒を入れる愚かさを語っている。これはおそらくヨハネの弟子たちへの当てこすりないし批判である。つまり、ヨハネの集団は要するに古い革袋、古い服であるということだ。それは言い換えれば律法への執着である。もちろんそのことは明らかではないが、イエスは自分の師を批判している。ただし、この個所はファリサイ派との比較でもあるので、ファリサイ派への批判でもあるが。
さて、11章にもどると、16節以下では時代全体をマタイの視点から(これはイエスではない気がする)ヨハネの時もそしてその後イエスの時代も多くの人々はそれぞれを愚弄している、あるいは関心を示さないのである。つまり、「笛吹けど踊らず」というのである。ヨハネが厳しい断食をしていると悪霊に取りつかれていると批判し、逆にイエスが断食もせず平気でものを食べていると「大食漢で大酒のみ」と批判する。マタイはヨハネもイエスも理解されていないと嘆くのである。
私はこの笛吹けど踊らずという17節以下の言葉がとりわけ今つらく響いている。私たちは今深刻な危機の時代(わが国では震災、原発事故、高齢化、格差社会、世界的にも格差、テロ、民族紛争、とりわけ東アジア世界の緊張など)にあるが、なぜか動きが鈍い、どちらかというと危機感が共有されていない。こんな状況なのに今日と同じ明日が来るかのように漠然と信じ、危機を深刻に捉えきれていないのが現実である。昨日は長崎平和祈念式典があり、69年前の長崎の悲劇を想起したが、体験者の当時6歳だった女性の言葉が非常に厳しく現状の日本政府の方針を批判していたのが印象的である。しかし、それがどれだけの力となるのだろうか。いま、私たちはまだ20世紀の遺産のなかでまどろんでいる気がする。ヨハネの厳しい悔い改めも、イエスの福音、あるいはイエスという福音も人々に届いていないという認識がすでにマタイ教団にあったとすれば、それをどう乗り越えて行ったのか。それはおそらくこの記事の後に来る、受難、十字架の出来事の復権であろう。とするなら、わたしたちの時代もこの十字架の出来事の重さを想起すべきである。どうじにその出来事に重なる現代の出来事をつぶさに見なくてはならない。具体的なことは言わずもがなであろう。そのためにはわたしたちの教会が改めて牢に入ったヨハネの問いを想起し、メシアの時は本当に始まったのだと確信をもって外へと伝えることである。その方策をあらためて練りたい、そう考えている。