日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年09月07日
「私たちは旅の途中にいる」申命記1章1~8節、フィリピの信徒への手紙3章5~16節
 申命記はモーセによって告げられた律法の核心である。これは五書の最後の書であると同時に続く申命記歴史記述全体の序論でもある。この書は、ただし、単に律法の集成ではなく、やはり、創世記から列王記までの歴史全体の一部であり、この律法自体が、歴史的なものであることを示している。律法が歴史的であるとは、これが無時間的で普遍的なものではなく、それはやはり相対的で暫時的なものであることを意味する。だからと言ってその有効性が短いとは限らない。それは非常に生命力にあふれ、長く後のイスラエルを導いてきた。そして、律法はイエスの時代においても、またイエス自身にとっても、そして彼と同時代のパウロにとっても、決してゆるがせにできない力を持っていた。
 この申命記律法はモーセの遺言であるとされている。モーセは実は約束の地に入ることが出来ず、その直前にモアブの荒れ野で死んだ。それは40年の旅の途上で起こった民の数々の背信の責任を負った結果であり、すでにモーセにおいてあのイザヤ書53章の苦難の僕の原型が、そしてイエスの原型が形成されたと見ることさえできる。このモーセは度重なる背信や反抗を経て、ようやくヨルダン川の東側、モアブの荒れ野に到達し、そこで律法の説き証しを行ったとされる。もはや命の限りを見据えた、モーセの最後の預言でもある。彼は土地の取得という神の約束の成就の前に、それを想像しながら、いやそれを確信しながら、生涯を終えることになるが、いったいなぜ、彼はそうした確信を持ち続けることが出来たのだろうか。彼はなぜ、自分の生涯の完成ではなく、イスラエルの未来を導こうと思ったのか。ヤハウェの召命を受けた預言者だから当然である、という答えもあるが、それは預言者とはそういうものだという後知恵に過ぎない。そうした説明をいったん括弧にいれて、丁寧に考察する必要があると思う
さて、自分の生涯の完成とは何だろうか。それは充実して生きること。健康に生き、富を加え、こどもに恵まれ、つつがなく生き終えること。これは実にすばらしいことである。しかし、モーセ(に限らずイエスや他の預言者)にとって、完成とは実は今生きている人々と未来の人々を含むすべてのイスラエルが完成することを意味する。だから、自分の生涯のみ、豊かであればそれで良いというのではなく、イスラエルの民すべてがヤハウェの下に平安に生きることが最大の目標であることに気づかされていたのである。そのことはモーセの召命記事に示されていた。彼はエジプトで罪を犯し、ミディアンの荒れ野に逃亡し、そこで平穏な羊飼いの仕事をしていた、つまり自分だけ安穏に暮していた。しかしその後、ヤハウェの呼びかけに出会い、自分の生涯の意味を知る。つまり「わたしの本当の幸せ、真の完成」とは私が棄ててきたあの同胞イスラエルの解放なくしては、決してあり得ないのであることを。これを単純に預言者の召命と呼ぶことは安易である。これはおそらくいかなる人にも当てはまるのではないか、そしてその呼びかけこそ、聖書の神ヤハウェの働きではないだろうか。
とするなら、私たち聖書の使信に連なる者たちは、自分の生涯の完成をやはり未来へとたくすことになるはずである。それはもちろん、今ある私たち一人一人がその生涯をまっとうすることが同時に未来の完成に寄与するものでなくてはならない、ということである。だから私たちはこの世界において、すべからく旅の途上にあると言えるのではないか。こう言ってしまうと余りに凡庸であるが、それは個人としての旅ではなく、ヤハウェが導くこの世界の完成を、その指針とともに歩み、その完成を期するような幻を自ら担うことである(だから、昔は良かったとか、決して言ってほしくない)。
だから、と言うべきか、約束の地を前にして、律法の説き証しをおこなうモーセの姿に、つまり申命記1章の本日の記事に私たちが触れるとき、私たちはあのモーセの生涯の課題に直面するのである。彼は私たちに向けて、残された課題を担うよう求めている。そしてそのための生きる規範を与えている。そしてそれを担う読者はもう一度、あの出発点としてのモアブの平野に、つまり約束の実現の手前に自らを引き戻すのである。そのことは何を意味するかと言えば、私たちが旅の途上にあるということ、そして未来を私たちが担うことの確認である。
さて、イスラエルはモーセに示された律法を基に、古代オリエントの歴史的変遷の中で自らの歴史を形成してきたが、イエスの時代に一つの臨界点に達していた。一部のユダヤ教では律法という手段がやがて目的となり、また一部のユダヤ教はいつの間にか国家主義になり、肝心の一人ひとりの命、そしてそれを創造したヤハウェの姿は、はるか過去の、あるいはひどく遠く隔たった世界にいるらしい老いた神となっていた。ヤハウェは律法にとって代わられた。おそらく、こうした危機はもちろん理屈や、あるいは何か地政学的な分析によって理解できるものではない。その危機は、イスラエルの中の極めて具体的な民の貧困、差別、病の人びとの置かれた状態を少しでも感じ取ることによって体で感じることが出来るはずだ。しかしそれは残念ながら初めから色眼鏡や枠を前提とする人には、その危機は危機として感じられない。
イエス(もちろんその他にもいるはずだ)は、その枠を突破し、もう一度命の神ヤハウェを回復する。それはもう一度モーセの立場を回復することになるだろう。
しかしイエスの活動は様々な罪の力によって闇に葬られる。と思った瞬間、驚くべき復活の幻の出来事を通して彼の弟子たちは教会を形成した。やがてその復活の噂は優れたファリサイ派の一人の男を突き動かし、改めてあのイエスの出来事に意味を与えた。しかし、彼の活動をキリスト教の伝道と見るのは正しくないと思う。彼はすでにキリスト教が広がった町々の教会へと旅している。したがって彼はキリスト教の再解釈者であるも言える。だから、彼の言葉は矛盾や危うさに満ちている。そのことについてはまたあらためて話す機会を持つつもりである。
そのパウロが自己紹介して言う。自分は生粋のヘブライ人であると。しかしその有利さは全て損失であると極論する。こうしたパウロの極論は相当割り引いて理解しなければならない。これは彼一流のレトリックである。問題は彼の自身の言いたいことである。それは彼自身が律法から生じる自分の義、つまりファリサイ派としての在り方ではなく、キリストへの信仰による義、つまり直接ヤハウェの子に向き合うことによってえられる新しい世界での命、すなわち復活にまだ達していないということです。(この復活には二つの意味が重ねられており、一つは彼自身の人生の方向転換と歴史の終わりにおける復活という幻である。)彼は言う「わたしはすでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかしてとらえようと思っているのです」(12節)。この後に続くのはいかにもギリシア的なスポーツ的精神主義、賞を得るために目標目指してひたすら走るという表現です。フィリピはマケドニアの町であり、ヘレニズム都市で、恐らくこうした表現が違和感なく受け止められるはず。表現の仕方はともかく、パウロはイエスによって先鞭をつけられた全く新しい救済の道の途上にあることを告白する。彼において、世界の救済の道はもちろん始まったばかりである。パウロ自身ももちろん途上にいる。彼は伝道の旅の途上にいるのでもあるが、キリスト者の歩みとは13節あるように「後ろの者を忘れ、前のものに全身を傾けつつ」ひた走ること、それは常に途上にあることをはっきりと認めることです。
しかし、このパウロの促しの目標はややあいまいである。ここで私たちはファリサイ派としてのパウロの姿に戻ることになる。彼は当然ながら、律法の核心は知っていた。そしてイエス運動の可能性も良くわかっていた。だから彼らを始めは迫害したのである。しかし、彼はイエスの幻に接して、そちらの可能性に賭けたのである。だから彼の目標は最終的にはイエスの目指したことに重なるであろう。それはこの世界の根本的かつ最終的救済という余りに大きな目標である。この目標には少しずつ近づいているが、私たちはひとりひとりは常に有限であり、その意味でいかなる人も世界の終わりを見ることはできない。しかし、ヤハウェの子としてのイエスは、それを信じる者たちにとって始めであり終わりであるので、彼にあやかることは自らの永遠性を先取りする。つまりわたしたちキリスト者は有限なものでありながら、最後の完成を想像しうるのである。だからこそ、私たちは(先にも述べたように)、昔は良かったということはできない。なぜならそうした言葉は今ある世界と未来への責任を担うことを意図せずに拒否することになるからだ。
モーセも、イエスも、そしてパウロも、彼らは常に途上にあることを潔しとした。それは言って見れば当然、彼らは世界の本当の救済と自己自身の完成は関連するものなのだから。彼らは自分の幸せだけを望むのではない、自分の幸せは他の人の不幸や苦難がある限り、それは究極的には独善でしかない。最後の最後はみんながそれぞれに幸福であることが、世の完成であるとするなら、私たちキリストに連なる者たちにとって、それを夢見ることがアルファでありオメガであるといえよう。これをたとえばヨエル書では「老人は夢を見、若者は幻を見る」と語られるが、私たち聖書の宗教に連なる者たちは、自己の人生の充実と未来の幻を見続けることの二つを課題としなければならない。しかしこれは何も重たい事ではない。日々、小さな痛みや悲しみに思いを寄せ、すぐれた働きを賛美すること、そしてそれに参与すること、そしてそうした人々の力を集めることがその一歩である。そのことが、この世が天の国と重なる時を近づけることになるのだから。