日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年09月14日
「信仰と実践」ヤコブの手紙2章14~26節
 以前、ヤコブの手紙を説教で取り上げたことがある。礼拝の終わった後、ある牧師から「ヤコブ書についてお話しされるとは予想外だった。わたしは取り上げたことがない気がする」と言われ、ある信徒からは「ヤコブ書はルターが取るに足らない書の意味で『藁の書』と呼んだと言われますが、そんなことはないですね」と言われたことがある。たしかにヤコブ書はマイナーな書物かもしれない。このヤコブという名さえ、主の兄弟ヤコブを騙ったものであり、言ってみれば『偽書』である。新約聖書の神学的核心を占めるパウロ主義からしても、内容的に相反するように見える、あるいはキリストの出来事への言及がほぼないし、律法主義的にさえ見える、などいくつかの理由から価値の低いものと見られてきたと言える。
 しかし、これが新約聖書の正典の一部となっていることから、それ相応の価値が認められていたのも確かである。わたしはこの書と読むとき、極めて穏当にみえるが、しかし非常に大切な事柄を伝えていることに感銘する。それは「信仰と実践」をしっかりと結びつけている点である。これは明らかにパウロ主義に対する批判であり、信仰によって義とされるとするパウロの主張に対抗する。もちろんパウロ自身は、信仰によって義とされる、つまり信仰によって罪が赦され、救われるとする主張を、律法主義に対抗して、つまり神自身ではなく律法を神としてしまう、あるいは神をこちら側、つまり律法主義的人間に取り込んでしまう誤りに対抗して、あらためて信仰義認論を主張したに過ぎず、これは必ずしも新しくない。それはパウロ自身が例示しているように、アブラハムがすでにそうした立場を(見ようによっては)取っているからである。つまりアブラハムの前に「律法」はまだ存在せず、したがって信仰が優先する。ただし、それはまだキリストの出来事のはるか以前の先祖の話だから、信仰の根拠はただ神の言葉による指示のみである。これに対し、パウロはキリストの出来事によって(つまり十字架と復活によって)、罪人のまま義とされるというややアクロバット的な論法で信仰の重要性を主張した。つまりキリストの贖罪によってあらゆる罪はすでに赦されているという考え方である。これを承認すること、信じることで差し迫った最後の時を越えて、神の下に安心立命する。これが終末論を前提したパウロの思考回路であり、これが大勢となっていく。
 しかし、これはやがて(いや現代においてさえ)信仰の名において義とされるなら、もはやそれ以上の倫理的な生き方を探る必要はない、もはや救いは我がものとなったのだから、それに見合う良きことをする必要がない、この世の事情に関わる必要もない、この世は間もなく滅び、私たち信仰者は救われるのだから、それ以外の人々は結局滅ぶだけである。こうした、ニヒリズムというか独善と言うべきか、パウロ主義の一部を切り取って自己の正しさを主張する人々がたくさんいたし、今もなおたくさんいる。
 こうした主張は何が誤っているか?それは信仰による義認とは、それが終わりでなく、単に出発点に過ぎないことを忘れている点だ。問題はその先にある。もちろんそのことをパウロは良く知っているので、第一コリント13章を書いたのだ。つまりいくら信仰があっても「愛」がなければ一切は無益だと。これを多くの人々が忘れた。これに対してこの小さな勧告の手紙は異議申し立てをしたのだろう。大切なことは一体何なのか考え直してみようというのである。
 さて、本日の個所に先立つ2章の前半は「人を分け隔てしてはなりません」という命令ないし勧告から始まる。富める者が貧しい者を隔てる、あるいは軽くさげすむ、こうした態度を戒める。さらに「神は世の貧しい者をあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された地を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)と述べる。さらに加えて、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章の言葉を引用しながら、差別の行為を厳しく批判していく。
 その後に本日の個所が続く。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(14節)と問い、具体例を話しながら、やがて次のように言う。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)。
 この発言を読んで、多くの皆さんはマタイによる福音書の山上の説教の結びを思い起こすのではないか。「そこでこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタ7章24節)。イエスは自分に従うことは、言葉通りに振舞うことを望んだ。そのことと同じ響きがヤコブ書にはある。総じて、ヤコブ書はマタイの山上の説教の要約と敷衍と考えてよいだろう。
 さて、ヤコブ書のこの個所で言われている「行い」とは具体的には何か。それは当然先に触れた前半の事柄であろう。すなわち、「人を分け隔てしてはならいない」という言葉に対する応答の行動である。ただ、続いて語られるのはディアトリベーと呼ばれる架空の対話のようなものと旧約の故事二つである。前半(18―20節)は意味が良くわからないが、おそらく信仰だけの立場の危うさを主張しているのだろう。「神は唯一だ」と信じるなら悪霊どもだってそうだ、彼らもそう信じているから、とわかりにくいことばだが、信仰を持っているからそれで良いというのでは、結局「それは、神に敵対する生き方とも共存できる」(Luke T. Johnson, 『ハーパー聖書注解』教文館、1996年、1342頁、右欄)ことになってしまう、あるいは神に敵対する勢力を許容することになってしまうことを意味する。神に敵対する勢力(ここでは悪霊たちと呼ばれている)とは、この著者に従えば、人を分け隔てさせるこの世の権力、あるいは伝統の名で正当化されるこれまでの差別や貧富や格差などである。それは教会内にも反映されている。これを克服する力はすでに律法としてユダヤ人に与えられていたが、律法自体がそうした差別を生みだすという皮肉な場面も生じた。こうした現実世界の罪を深く憂い、そのもとで深刻な苦しみにある者たちへの深い同情から出発したイエスは、再度律法の原点に戻り、あのレビ記19章を取り出した。その記憶がマタイを通じ、このヤコブ書に響いている。そしてこの著者は改めてアブラハムによるイサク奉献の伝承を持ちだし、やや無理があるが、この奉献の行為と神による義認を結びつけ、またヨシュア記2章のエリコ探索の記事を取り上げ、エリコの後略において遊女ラハブがイスラエルへの手助けという行為によって義人とされたことに触れる。そしてこの断章の締めくくりは実に端的かつ衝撃的である。すなわち「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」。
 この著者が言う「行い」とはやや漠然としているが、すでに述べたように山上の説教の内容を実践することであると言ってよい。行いとはユダヤ教の狭い意味での個々の律法の実践ではなく、律法の原点に立って、その精神を実践することである。それは世の公平と正義を実現することである。しかし、これはあくまで「隣人を自分のように愛する」という根源的な命令に基づくものでなければならない。それがないと、公平や正義といっても、たいていは誰か一部の正義や公平にとどまるだろう。隣人を自分のように愛するとは、理想的に言えば、あらゆる人々が相互に助け合い認め合い、そして労り合うことである。それはまたあらゆる一人を最後まで大切にすることであり、かつそのことをあきらめないことである。
 このあきらめないということを、ヤコブ書の著者は始めと終わりに置く。1章2節では「わたしたち兄弟たち、いろいろな試練に出合う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば完全で申し分なく、何一つ欠けたことない人になります」とあり、5章7節では「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。……」と言われる。「忍耐」とは結局目標をあきらめないという意味である。つまり、ヤコブ書の著者にとって行為は愛の実践であり、それは信仰と深く結び付く、あるいは一体である。
 今、私たちはヤコブ書の言う信仰と実践が求められている。キリスト教は本来、放っておかない宗教である。それはお節介であるが、やはり実践的である。それはもちろん身勝手で、独りよがりになることもあるし、これまでもあった。しかし、だからと言って信仰が愛の実践によって伴われないなら、それはパウロに倣えば、一切は無益である。だからこそ、ヤコブ書は使徒後の時代、教会がその内部にいても差別や格差がある現実の中で(しかも外からの迫害もあるかもしれない)、もう一度イエスの姿、特にマタイのイエスを見上げ、そして愛の実践を信仰より優位に老いたのである。それも、主の兄弟の名を借りて。
 こうして私たちはヤコブ書の真意にたどり着いたが、現実の私たちはいったいヤコブ書の命令や勧告を本気で受け止めることができるのか。むしろ彼が批判する「したり顔」の信仰者にとどまってはいないだろうか。私たちはヤコブ書の一見凡庸なテキストを簡単に隅に追いやるわけにはいかない。それどころが、今の時代だからこそ、このテキストの勧告と命令を受けて改めて実践に身を移すべきではないだろうか。具体的には戦争モードに入りつつある日本の現状にあって、平和主義にしっかり立つ事、深刻な原発事故によって生活が壊され、途方に暮れる人々が13万人を超える中で、エネルギー問題にことを矮小化させている政治や一部マスコミの差別的で抑圧的な姿勢を正すこと、極端な格差社会の是正など、取り組むべき課題は多い。しかしキリスト者であるからこそ、これらの痛みに敏感であり、それゆえ、その救済に立ちあがれるのである。なぜなら「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものだからです」。この言葉は、たぶん私たちに向けられている。