日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年09月21日
「種の実らせる土地」マタイによる福音書13章1~23節
この種まく人の話は何を伝えようとしたのだろうか。
イエスは湖のほとりに座っていると、多くの群衆が集まってきたという。イエスは岸辺の船に乗って腰を下ろし、群衆は岸辺に立っている。水の上から話をするイエスは、集まる群衆とわずかに距離を置くとともに、自分をいわば舞台の真中に据え、多くの人々の視線の焦点となる。そこで語りだされたのは一人の農夫の話。彼は種をまく人として登場する。一般にパレスチナの種まきはいわゆるばらまきであり、いちいち柵を切って線状に蒔くのではないそうだ。
蒔いている間に一部は道端、一部は石だらけの地、一部は茨の間、そして一部は良い土地に落ちたという。はじめの道端に落ちたものは芽を出す前に鳥の餌となり、石だらけの地のものは土が浅いのですぐに目を出したが、その浅さがあだとなり、日に焼けて枯れてしまう。茨の間に落ちたものは、茨の成長の速さに押され、成長出来ずに終わる。そしてよい土地に落ちたものは非常にたくさんの実を結んだという。
さて、皆さんはこれをどう受け取るだろうか。この話のあとにはそこに集まっていた群衆の反応は書かれていません。したがってこの話は投げかけられたままです。
ところでこの話それ自体は全く当然の事実を述べているにすぎません。しかし、これは当然何か別のことを伝えようとしている。それは何か? 
読んだ感じではそんなに難しくはないように見える。
種まく人がイエス、種はイエスの言葉、蒔かれた場所はイエスが歩いた町や村で出会った人々。つまり、ある人びとからは、イエスの言葉ははじめから見捨てられ、あるところでは表面的に理解され、あるところでは別の思想が大きくなる。そしてあるところではイエスの言葉十全に理解され、それはやがて豊かな未来を作りだしていくということか。とすると、この話の主題は可能性のある町や人々を見極めることが大事だということになる。ならば、これを聞く人はここに出てくる群衆ではなく、弟子たち(あるいは伝道者)ということになり、この場面を前提にするなら、矛盾が生じるように思える。
いや、これは神からの言葉は、いろいろな場所に蒔かれるが、最終的には大きな実りとなるという単純なことを伝えている。つまり、神の言葉を広く伝えれば、たとえ一部は無駄に終わったとしても、それがうまく伝わった人々から最終的には豊かに広がるということか。すると、この話の主題は、広く伝えることの大切さ、と言うことになる。(加えて、弟子たちに対する励まし。)ならばこれも、聞き手は群衆ではなく、やはり弟子たち(ないし伝道者)ということになり、こちらも矛盾が生じる。
ではこの話の意図は何だろうか。イエスは何を思ってこの素朴な話をしたのだろうか。
実は、これを伝えた人も良くわからず、これについて長々と説明している。それが10―17節と18―23節である。
10―17節は唐突に弟子たちがイエスに質問する。「なぜ群衆にたとえで話すのか」と。すると、イエスは、弟子たちには天の国の秘密を悟ることが許されているが、彼らには許されていないから、と言う。そして、持っている人はさらに与えられ、もたない人は持っているものも取り上げられるという。つまりここでイエスが種明かしをしている。はじめの三つの蒔かれた場所は、場所ではなく、天の国の秘密を理解できない人々であり、最後の場所が、それを理解する人々、つまり弟子たちであるという事。このことを預言していたのがあのイザヤであり、イザヤ書6章9以下を引用し、多くのかたくなな民はその秘密を理解することはできない者だという。そして最後に弟子たちに、預言者が見なかったメシアをあなたは見ていると宣言する。これは明らかにイエスの発言ではもはやなく、原始教団の自己理解であり、同時に自己を鼓舞する発言である。つまり私たちはあの天の国の秘密を受け継いでいるという自負。実はこの単元はマルコにもマタイにほぼ似たような形で出てくるが、マタイのこの理由付けがいちばん長い。ただ、趣旨は似ている。つまり弟子たちへの鼓舞であり、つまるところ、自分たちの集団がイエスを受け継ぐ主体であることを確認している。
そしてその後の断章18―23節で、アレゴリカルな解釈を提示する。すなわち、①道端に蒔かれたものとは言葉を聞いて悟らず、その言葉が悪者に奪い取られる人。②石だらけの地にまかれたものとは表面的な、あるいは一時的な理解の人で、迫害や艱難によって躓く人。③茨の間にまかれものとは世の思いや富の誘惑に負ける人。④言葉を聞いて悟り、実り豊かな人。
すでにここでは種は「御言葉」(ホ・ロゴス)とされ、イエスの言葉というより、教会の言葉ないし宣教(ケリュグマ)である。つまりここには原始教会によって打ち出された教えに従う信徒であるか、そうでないか、の分離、あるいは迫害や艱難と言った言葉から、すでに教会内部の争い、ファリサイ派との抗争、などが前提とされている。そうした中にあって教会員の結束を促し、勇気づける言葉として解釈する。
要するに10―17節、18―23節は原始教会の言葉であり、イエスの言葉ではない。原始教会としてはこう解釈するのが本筋だっただろう。だからこそ、これは三つの福音書に揃って受容された。では、もう一度戻って、冒頭のイエスが語った農夫の話を我々はどう取るべきだろうか。
確かにイエスはいろいろな人々のもとを訪れた。そして理解されないこともあれば、追い払われたこともある。しかし、今、湖のほとりの船に座って、岸辺を見ると、私を慕う人々の群れがかくも大きく膨らんでいる。これは今ここに豊かな実りが確かにあるのだという事ではないか。つまり、これはイエスの喜びの言葉である。同時にこれを聞いた群衆にとって、これはもしかして自分たちこそが良い土地に落ちた種であることを想起させるものではなかったか。そしてそれを聞いた群衆は大いなる喜びと慰めと勇気を得たのではあるまいか。最後の土地とは要するに今ここでイエスの周りに集まった人々であり、彼らはわざわざ湖のほとりまでイエスを追い掛けてきた。これはイエスにとって実りであり、群衆にとっても喜びである。
私はこの解釈を実はイエスの下に集まった群衆の事ではなく、今日ここに集まっている人々に重ねたい。今日本の教会は一般に厳しい状況にあるといわれる。それは戦後のキリスト教ブーム(いや宗教ブーム)から時がたち、確かに実りの時ではないように見えるが、私は少し違うと思う。確かにかつてのような熱気や人の数も少ない。しかし、私は蒔かれた地はあの4番目の地である、良い土地に蒔かれた種であることに変わりなく、それは新たな実りが期待されているのだ。そしてそれは現在の教会である。
このテキストを注意して読むと、土地はあらかじめ区別されているが、これはイエス自身がわかりやすく伝えるために分けただけで、本当は土地の違いは、あいまいでさえある。本来、どの土地もまたどの人々もその蒔かれた言葉、あるいはイエスの言葉と出来事を受けいれる可能性はあるはずだ。キリスト教はやがて分断的、時には異端を排除しながら、主流派が大きくなり、それが結果としての実りであると理解したかもしれない。もちろんそれはそれで良いが、本来、あの30倍60倍100倍とは現実より希望である。とすれば、やはり私たちは良い土地によい種がまかれていることを信じて未来を望むのである。にも関わらず、同時に、それはすでに現実でもある。なぜなら、日本プロテスタント150年の歴史の歩みの実りの一部としてわたしたち砧教会が今ここで礼拝していることが、じつは天の国の実現であるのだから。天の国とはこうして皆で協力し、さまざまなタレントを分かち合って、お金を出し合って教会を守り礼拝を守っていること、そのこと自体が実は天の国である。私たちはあの湖の周りの群衆と同じく、今イエスの喜びを共有していると言えまいか。