日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年09月28日
「五つのパンと二匹の魚」マタイによる福音書14章1~21節、マルコによる福音書6章30~44節
 今朝は二つの個所を取り上げたい。一方はマタイで、これは洗礼者ヨハネが殺される記事と五千人の食事の話。他方は、マルコの五千人の食事の話です。マルコの方も6章14節から全部読むべきですが、中心の話は食事の話しなので、これだけにしました。しかし考えていくうちに、マルコとマタイは観点が全然違うとわかり、やはりマルコも6章14節以下も検討します。
 これらの個所を読んで、二つの事を話したい。一つはマタイとマルコの思想の違い、もう一つは奇蹟の食事の意味です。
 まず、マタイはヨハネの死とイエスの活動を関連さているのに、マルコではそれらは独立した別の単元である。読んでみるとマルコの記事の方が、はるかにつじつまが合うことに気づきます。マルコの記事では、ヘロデがヨハネをすでに殺害したことを前提に、イエスをヨハネの再来とみなしている。しかもヘロデは、本当はヨハネを尊敬しており、「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とされ、必ずしも暴君の様には描かれてはいない。しかしヨハネは、妻ヘロディアの策謀によって結局殺害されることになる。それゆえ、彼は「非常に心を痛めた」(26節)のである。ヨハネの死後、ヨハネの弟子たちが遺体を運び埋葬したことをもって、いったん物語を閉じている。
 それに対し、マタイはヘロデがヨハネを高く評価している部分(マルコ6章20節)を取り除き、わかりやすくヘロデを悪人にしている。しかもヨハネの死は過去の出来事ではなく、今起こりつつあるのである。そして処刑が終わった後のヨハネの弟子たちはわざわざイエスのもとに報告に言っている。こうしてヨハネの死という出来事がマタイでは次の食事の話につなげて理解されているが、それは何故か。
マタイはマルコに比べて文章を簡略化し、マタイの筋に不要な個所は前もって排除している。そしてヨハネの死とその後のイエスの行動をつなげる。つまりマタイでは、イエスはヨハネが殺されたことを受けて「人里離れたところ」に退却したのである。そし多くの群衆に出会い、奇蹟の食事が起こることになる。しかし、このマタイの構成は、恐らく二次的なものである。それはマタイのヨハネ殺害の記事には破綻があるからだ。本来は、マルコにあるように、ヘロデがヨハネを義人とみなして彼を保護していたのに、妻ヘロディアの策略によっていたしかたなく殺害を命じることになり「王は非常に心を痛めた」のであるが、マタイでは「ヘロデを殺そうと思っていた」ので、かりに「民衆を恐れた」としても、殺害を命じることに「心を痛めた」というのは、筋が通らない。つまりマタイはマルコとは違ってヘロデを悪人とし、その死がイエスに報告されることで、二つの物語をつなげて理解させたのだろう。何のためか?おそらく、ヨハネの殺害を、イエスの受難に先立つ予兆的な出来事として印象付けるために敢えて行ったのだろう。これに対し、マルコはヨハネの殺害とイエスの行動を結びつけない。というより、元来別の伝承だったのだろう。それをならべているだけである。
このように両者を比べて読むと福音書がそれぞれ思惑を持って編集されていることがわかる。ひとまずマルコが底本としてあるとしても、それ自体、編集の産物である。マタイはそのマルコの配列を尊重しつつ、個々の断章の文句を変更しそれなりの理屈をつけて筋書きを作ることは可能だ。おそらくマタイの編集者は自身の意図に沿ってヘロデの思いを変更してイエスとの対比を明確にしたのだろう。
さて、マタイによればイエスの退却に連動するように、群衆がイエスのもとに集まる。このあたりはマルコの物語がより詳細に描写している。ただ、いずれも群衆が大勢イエスの後先に従っており、その群衆を見たイエスが「深く憐れんだ」とされている。この深く憐れんだとは、新約学者佐藤研氏によると、「腸がちぎれる思いにかられて」という、非常に強いストレスが悲しみを引き起こす時の叫びとして訳すのが妥当だという。つまり、イエスに連なった群衆は、単に町や村からイエスの話が聞きたくて出てきたのではなく、そうするほかないような寄る辺なき人々であり、その背後には彼らの生活を追いこんで行く、過酷な社会構造があった。イエスの「深く憐れんで」という思いは、かれらの人生への深い同情であり、その裏には当時の世の中への怒りが満ちている。
その群衆は時がたっても帰る気配がない。そこで弟子たちは彼らを返そうとする。このあたりは、マルコはかなり丁寧に書いているが、マタイは簡略化している。弟子たちはこの群衆が自分で町や村で食料を調達するのが当然という。だからいったん解散させようとする。これに対してイエスは弟子たちに、「あなた方が彼らに食べる者を与えなさい」という。すると弟子は五つのパンと二匹の魚しかないと伝えると、イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡したという。すると五千人の人々が満腹したという。
これは奇蹟物語ではない。確かにわずかな食料が膨大になったのだから奇蹟だが、これはおそらく例え話というか寓話というかそんなものだ。ただし、少ない食物でもみんなで少しずつ分け合う事でみんな平等に満足する。このような分かち合いによって共同体が真に平等で愛に満ちたものになるのだという道徳的解釈もありうるが、それにしては食料は少なすぎ、人が多すぎる。要するに奇蹟にしても誇大すぎるし、なにもここまで荒唐無稽にする必要がない。
しかし、この食料が現実の食料ではなく、いのちの糧としての「言葉」を意味するならどうだろう。言葉なら数は問題ではない。五千でも一万でも大丈夫。言葉なら無限に共有できる。この物語の最後は余ったパン屑でさえ12のかごにいっぱいになったというが、これは言葉の持つ普遍的性格、すなわち誰にでもいつでもどこでも伝えることできる、分け与えることができることを意味している。
このような物語は、ファリサイ派との対決とは性格が違う。対決物語はどちらかというと脚色はされているとしても、状況と登場人物の関わりは明瞭で、ある種の証言としての性格も持つ。
これに対し5000人の給食の物語は、証言でもないし、かといって奇蹟物語でもおそらくない。これは神の言葉を命の糧として生きる望みをもらった、と理解すべき物語である。神の恩恵に与かった人々は、」やがて共同体を形成し、恐らくは共同体強化のために様々な律法めいたものを作り、最終的には教会共同体をイエスの言葉に基づいて形成したのである。
この物語から何を読み取るべきか?これは一応のメタファーとしてのパンと魚と捉えたうえでの話であるが、町や村からいったんは出て、自由になった。しかしかえって寄る辺ない事態に陥った群衆が生きる糧としての言葉を頂いていることである。これはちょうどモーセの言葉を信じてエジプトから出た民の姿を想起させる。彼らもまた、荒れ野に脱出したはいいが、食料もなくさまよった。その際は天からマナが降ったりしたが(これが奇蹟物語!)、やがて神の律法を得る。イエスの群衆はイエスから直接パンと魚を得る。もちろん言葉として。モーセの場合、エジプトに帰りたいと呟く群衆が現れるが、こちらではそれはない。しかし、弟子たちは彼らを町や村へと返そうとする。ここには弟子たちのある種の理解の甘さ、群衆たちの決意に対する理解の浅さが表現されている。彼らは本気で、つまりただイエスに部分を直してもらえればそれで良いというのではなく、彼のもとで新たに生き直したいという切実さがあるのだ。だからこそイエスは「深く憐れんだ」のだ。そしてそこから新しい共同体が生まれる。それはこれまでの共同体を離れたところで、人里離れたところではじまる。そこはモーセにとっての荒れ野であり、現代に生きる私たちにとっては家族や地域や国家を相対化した、ひとりの人間としての「孤独」に気付いた時とでも言えようか。その「人里離れたところ」こそ、イエスの命の言葉が与えられる場所なのだ。だから、その「人里離れたところ」すなわち「ひとりであること」を私たちはひとまず受けいれる必要がある。それはもちろん生きる上での「危機」でもあるだろう。しかしそうした場所においてこそ、私たちは本当の意味での命の糧を得ることができるのではあるまいか。