砧教会説教2014年10月12日
「ひとりのこどもを真中にすえること」
マルコによる福音書9章33~37節、マタイによる福音書18章1~5節
本日も、マタイとマルコを比べることから始めたい。マタイでは章の始まりに、マルコの記事より短くされて置かれているが、実はマタイの記事はその前の神殿税についての問答(17章24―27節)と関連している。場所はカファルナウムであり、隠れた主題は「こども」であり、本日の個所へとつながる。しかも、マタイの話は全体としてメタフォリカル(隠喩的)であり、おそらくマタイの「こども」は地上の王の身内としてのこどもではなく、真の神のこどもたちである。だから地上の王権の代理に墜した神殿に税など納める必要ない。「こども」とはイエスの周りに集まっている人々のことを指す。そして、神の前で最も謙虚である姿をこどもに重ね、そのようである限りにおいて、自分たちがいちばん偉いことを自己確認するような話になっているように読める。
これに対して、マルコはカファルナウムに着いた直後の様子から始めている。そしてイエスは、道すがら誰が一番偉いかと議論していた弟子たちに、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」(35節)と告げている。これと似た言葉は別の文脈で再度出てくる(10章43節)。おそらく、イエスにとって、この言葉に託された思想が非常に大切なものだった。一言でいえばこれはキリスト教的奉仕の精神を述べたものである。マルコの文脈では、弟子たちが考えているいちばん偉いというのは、おそらくイエスの弟子として誰がいちばん優れているのか、ということ、もちろんそれはイエスから見てという意味で。以下、マルコの記事を中心に見ていきたい。
さて、「いちばん先」とはおそらく天の国に行くに最も早い者、あるいはイエスの弟子として最高のリーダーになりうる者、要するにいちばん偉い者でしょうが、イエスは逆説的な答えを告げている。すなわち、そうなりたい者は「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と。すべての人の後になるとは、すべての人に救いの言葉、すなわち福音を告げ、すべての人が天の国に入る見込みが立った後に自分も続きなさいということだろう。これをより分かりやすく言うなら、大きな船が座礁し、このままいくとやがて深い海に沈没してしまう。その時、船長が取る行動は、体の弱い者、こども、女性、そして男、乗組員、最後の最後で船長自身の順で船から避難することである。今年の6月でしたか、韓国の客船セウォル号が沈没し、数百名の前途ある高校生が亡くなり、韓国中が悲しみと悲嘆にくれる大事故がありましたが、あの時、確か船長は早々と船から脱出し、他の乗員乗客を事実上見殺しにするというとんでもない行動をとりました。さらに、その客船の運航会社とその親会社も運航の安全より金儲けを優先し、貨物の積載量は制限をはるかに超え、その貨物をまともに固定していなかった(その会社のオーナーは或るキリスト教団体のボスでもあった)。その結果が、あのような悲惨な事態を産んだのです。すべての人の後になるとは、実はいちばん責任の大きいことである。だからこそ船長はいわばいちばん偉い、とみなされる。
しかし、それを完全に勘違いした時、いちばん偉いからいちばん先に逃げる、いちばん価値が高いのだから、価値の低そうな者より、先に安全なところに行くべきだ、と考える人も実は大勢いるのです。頭がいい、金持ちである、権力があるなど、恵まれた人こそ、いちばん先になるべきと考えるのが合理的だと考えるのです。考えようによっては、確かにそうかもしれません。出来の悪い人、貧乏人、病人、こども、老人。こうした人は生産力も低く、かえってお荷物である。したがって社会的に価値が低いのだから、優先順位が低いのだ、という考えです。
皆さんはどう考えますか。これは確かに一見合理的であり、効率的な考え方です。出来のいい人ばかり、金持ちばかり、年寄りがいない、こどももいない、病人もいない社会。健康で若々しく、お金に溢れている。しかし、このような世界を突き詰めて想像していくと、非常に恐るべきことになる、あるいは異様である。お金はあふれているが、それをどう使うのか、そもそも安い時給で汗水たらしてモノを作る人は貧乏人のはずだから、その人はもういない。こどもは足手間といだからいないとしたら、未来はどうなるのだろう、病人がいないということは、自分も病人になったら今いるところから追い出されるのではないか、年寄りがいないといことは年寄りになればもはやここにいられないということか、……。つまり、豊かであること、健康であること、そしてすべて整理整頓されていることを最大の価値として、その価値にとって合理的・効率的な考えを突き詰めれば、仮に今優先されている人だとしても、次の瞬間、見捨てられる人、いちばん最後になってしまう人になることに常におびえて生きることになる。一見、健全に見える世界は、実は最も不安で、不信に満ちた世界に確実になることが、すぐにわかるでしょう。
残念ながら、今の日本も含め中国、韓国、そしてアメリカや西欧の一部は、優位にある自分を失いたくないので、とにかくいちばん偉く、強くなることがいちばん先に安全な世界に行けることと考えている。つまり、煎じつめれば、効率の悪いこと、生産力の低い人、不健康な人、そしてこどもたち、貧しい人たちを社会の片隅に追いやり、捨て去ることを容認しているのです。
だから、たとえば日本では女の人がこどもを産まないのです。それはリスクだから。そのリスクは出産するということにかかわるリスク、つまり妊娠中や出産時の病気や事故といったことではなく、こどもを持って育てること自体がリスクなのです。その中身は、こどもを育てることで、「わたしの自由」「わたしの好きなこと」が出来なくなる、好き勝手に遊べなくなるといったこともあるにはありますが、それが中心ではないように見えます。こどもは好き勝手に動くし、病気もするし、育てるのに時間がかかるし、お金もかかるらしい。要するに非効率で生産性が低くなる、こういうことを言葉で言う人は少ないですが、代弁すれば、そういうことでしょう。これがリスクです。
私はこれを、私を含めた現代人の醜さであると感じます。しかし、それはもちろん個々のひとりひとりが悪いのではありません。この時代、この社会全体の仕組みとそこから生まれる風潮です。それにからめとられ、反省的に考え直す暇も与えられず、その風潮に流されてしまい、気づいたら、こどもを虐待していた、時には殺してしまうなどの悲劇が生まれる。ですから簡単にその事件の当事者を非難してはなりません。つねにその人を取り巻く事情を丁寧に考えなくてはならないのです。
イエスは、こうした人間の在り方、広くいえば自分だけ良ければ、自分の身の周りだけ良ければ、あるいは自分だけ安全で健康であれば良いとった独善的な人間の在り方を罪ととらえ、そこからの「悔い改め」(これは「回心」とも訳される。こちらの方が良い)を求めて活動し、そしてその途中で弟子たちに先のような言葉を告げたのです。すなわち、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となれと。ただし、これだけではやや言葉遊びにも似て、なんとなくわかるが、説明がないと分かりにくい。すると、イエスは一人のこどもの手をとって彼らの真中に立たせ、抱き上げて言ったのです。「わたしの名のためにこのようなこどもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのです」と。これはどういう意味かと言えば、簡単に言うと、イエスのもとに集まってイエスの福音(言葉と行動のすべて)を受けいれることと、一人のこどもを真に大切に受け入れることが同じであり、さらにひとりのこどもを真に受け入れることが、実はあの命の神ヤハウェを受けいれることと同じであるということであり、もっとわかりやすく言えば、一人のこどもは実は命の神そのものでもあり、それを受け入れることは、あなた自身がその命の神とともにあり、あなた自身がすでに救われているのだ、ということです。(ちなみに、マタイでは「わたしをお遣わしになった方を受けいれるのである」と言う言葉が削られている。おそらくマタイはイエスの先にある「神」を出すことにためらいを覚えたのだろう。ユダヤ教徒と決別するマタイの教会はイエスがキリストであり、最後の者であることを宣言したかったからである。)
ところで、こどもを真中に据えることをもう少し敷衍して意味を探ると、一人のこどもを真に大切することが、あなた自身を本当に平和で豊かで、そして喜びに満ちたものになるということではないか。いちばん弱い者、誰かに食べ物を与えられ、水を与えられ、着るものを与えられなくては生きていけない者、先程の言葉でいえば、最も非効率で、厄介な者を真中に据えて抱き上げる、いちばん上に挙げること、つまりいちばん大切すること、ここから、あの醜い社会、人を効率と生産性で判断し、結局はその人自身も安心して生きることのできない世界をひっくり返していくことができるのです。なぜなら、最も弱いと思われる部分をいちばん先にする、すると、あらゆる人々は全てそれよりも後になる、つまり弱さが優先される社会はだれも不安や恐怖、猜疑心にさいなまれることは原理的になくなるのです。なぜなら、自分が弱くなったとき、いちばん先になれるから。
わたしの父は、元は大工で、もうしばらく前に引退していますが、数年前、最後の仕事だなと言いながら、わたしとわたしの息子と3人で、解体した古家の材を使って4坪ほどの物置を建てました。その後のある日、片づけをしているとき、「この右手は良く働いてくれた」と呟いておりました。数十年大工として働けたのはこの右手のおかげだということですが、右手が自分の一部と言うより、授かった命として独立しているかのように慈しむ呟きに、昔の人は自らの部分さえ、かけがえない命の宿るものとして受け止める感性を持っていたのだと感慨深く思ったのを覚えています。
あるいは、私たちの多くはまだ、赤ちゃんがよちよち歩いている姿、それを見て顔をほころばせる。その瞬間に、恐らく私たちは確実にあの命の源としての神を受けいれている。その瞬間に私たちは本当の意味での聖なる者に、こどもに神の姿を通して出会っていると言えるのです。
歪になった世の中は、こどもの養育すら効率主義と合理化を追求している面がある。しかしわたしたちはあのキリストの言葉をもう一度自らのものとしなければなりません。明日は修養会で「人権」を改めて考え直してみることになっていますが、いまやそれは出発点でなくなっている気配があります。それは多くの人々が断片となり、人としての全体性を、すなわちキリスト教的に言えば「神の似姿」であるという事を、さらに言えば似姿ゆえに前提される「尊厳」を見失っている。それでもなお、私たちキリストに連なる者たちは、世の中の防波堤になるのだと思います。なぜならそしてその喜びであるひとりのこどものために尽くすことが自分の救いであることを知っているからです。それは困難な中ににあって、恐らくは最大の希望となるはずです。