砧教会説教2014年10月19日
「希望の詩から始めよう」
イザヤ書55章1~13節
この詩は確かに希望に満ちているように見える。しかし、この詩の文脈からすれば、単純な希望というのではない。この詩は、イザヤ書の核心、いや旧約聖書全体の一つの頂点をなすと言われるイザヤ書53章の詩、つまり苦難の僕の詩の後に続いているがゆえに、あの苦難の出来事、挫折、蹉跌を通してもたらされた、極めて大きな負い目、同時にそれゆえの救いという驚くべき出来事への省察を経た後の、つまり逆説的とも言える救いをどのように自分たちのものとしていくかを問うた後に見出された、神ヤハウェ自身の言葉である。くりかえすが神自身の詩である。ということはイスラエルの側が希望を語っているのではない。神が希望しているのだ。
では苦難の僕の出来事とは何か?聖書に親しんできた人はご存知であろう。後のイエス・キリストの原型ないし予型、すなわちイエスの受難の歩みを先取りしているかのような詩である。正しくは52章13節から始まるこの詩は、本来、王ないし君主、あるいはおそらくはバビロン捕囚からの帰還を指揮し、新たなイスラエルの王国の建設を、預言者を通じて託された人物に見える。
しかし、このような動きはペルシアに対する挑戦であるとみなされ、さらには近隣諸国からも横やりを受け、すべての責任をとって民に代って犠牲となった悲劇の指導者であったのだろう(木田献一)。そしてこの僕が罪(ペルシア支配への挑戦という罪)を担う、すなわち死をもって償うことで、率いられた民は赦免された(代贖の思想、古来ある犠牲の思想とも言える。とくに秘儀ではない)。もちろん彼らだって罪の一端を担うべきなのに、である。このような出来事に関わる53章の苦難の僕の詩の後にこの54―55章の祝福と希望の詩が続くのである。この文脈をたどりつつ、54―55章を読むと、これがただの祝福や希望の詩ではなく、大きな悲しみとなすすべのわからない混乱の状態(なにしろ指導者がいないのだから)からの再出発を促す画期的な詩であることが想定されるのだ。それはあの出来事の解釈をし直すこと、つまり彼の死がわれらのためにであると理解し、その死によってかえって未来がひらかれたのだ、だから悲しみと混乱を乗り越えて先に進めることを目指しているのだ。これは後のキリストの出来事を解釈し直し、希望と救いに転換していく、弟子たちの歩みの原型でもあると言えるだろう。
本日はその後半である55章を読むが、これは第二イザヤと呼ばれるイザヤ書の第二の大きなまとまり(40―55章)の最後の断章である。まず、気がつくのは、1―5節は語っているのは神ヤハウェである点である。渇きと飢えをしのぐために、水のところへ来るよう促すことから始まる。そして対価を払わずに穀物やぶどう酒、乳を得るよう促す。さらに「糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」と問い、わたしに従うよう求めている(2節)。いったいこの水や食料は実際のものなのか、どうか。そして糧にならぬもの、飢えを満たさぬものとは何か。様々な疑問に突き当たる。おそらく糧にならぬものとは、異教の神々であろう。そして食料は神の言葉であろう。それはもちろん実際の食べ物ではないが、しかし最終的にはイスラエルを活かすものである。このことは出発点である出エジプトの出来事においても同じであった。モーセの言葉を信じた者たちは曲折を経て、カナンに入り、そこに自分たちの嗣業の地が与えられ、やがて実際の糧を得ることになった。そのことを前提にしている。3節ではそのことがやや明瞭に告げられている。つまり神の言葉に聞き従うことによって魂に命が与えられるとされるが、魂とは必ずしも観念的なものではなく、それはネフェシュすなわち首とか喉の意味でもあり、体全体を指すだろう。するとこの言葉を契機に人が全体として生きる豊かさを獲得するということだ。言葉が人を生かすとは、長い目で見れば心と体を確かに立ち直らせ豊かにするのである。つまりなにか観念的な思い込みなどではない。
さて、3節後半では「とこしえの契約」なる言葉が出、さらにダビデの名も出る。これはやはりイザヤの伝統を感じる。つまりあのナタン預言に象徴される、ダビデ王朝の永遠性である。イザヤ書はその点でかなり一貫しており、普遍的に見えるが、実は中心にあるのは理想のメシアとしてのダビデである(例えば2章、9章)。次の4節に「彼を立てて諸国民の承認とし」とあるが、これがダビデを受けるのなら、かつての事の回顧となるが(新共同訳はたぶんそう)、関根清三はこの「彼」を苦難の僕と取る見方を提示する。すると、あの苦難の僕においてあらたな「とこしえの契約」が結ばれることになる。たしかにこのみ方にも一理ある気がする。とするなら、この個所もまた、あのイエスの出来事の予型と見えてくる。
このように、初めの断章では神がイスラエルに要求している。それはこちらにこそ命の糧があるのだから、そしてそれはかつての約束とともに、かつ関根の解釈によれば新たな証言とともに、イスラエルのみならず、諸国民にとっても同様に糧となるのだから、「来るがよい」「求めよ」(1節)となるのだ(この言葉も何とはなしにイエスの言葉を想起させる)。
これに続く6―7節は預言者の言葉である。前の神の言葉を受けて、改めて神に逆らう者、悪を行う者に立ち返りを呼び掛ける。神に逆らう者、悪を行う者とは実際にはイスラエルを指すのだろうが、より具体的には混乱の中で、ヤハウェを忘れ、あるいは捨て、その他の神々に仕え、あるいは混乱の
中でなすすべのない人びとを指すのだろう。それらの人々こそ、先の言葉に素直に従うべきである。そう預言者は合いの手を入れる。
この後の8―13節は再び神の言葉である。これは創造と贖いの神の本質を神自身が語る形であり、地上世界の豊かさと、その豊かさが同時に救いであることを簡潔に詠う。印象的な8―9節はあのノアの洪水後の神の言葉(創世記6章5節)を思い起こさせる神と人間の思いの隔たり、つまり神の意思は実は人間に測り知ることはできないことを宣言する。これは身も蓋もない言葉だろうか?実はそうではない。これは、あなたたちの苦難や困難は単なる苦難ではないということ、つまり「なぜ?」問うような困難はすでに計り知れない者、すなわち創造者であり歴史の支配者であり、かつ贖いの神を、すでに人間はその問いを問うたと同時に見出してしまっているのである。つまりこの問いは、永遠なる者につながるのである。しかもこの問いを問うた時、さらに同時に、世界には希望が満ちていることに気づく。それが10節の創造された世界の描写である。そしてそれに続いて、11節、つまりわたしの言葉に一切空しいものはないと宣言するが、これはあなたたちが経験するあらゆる苦難も(そして幸福も)すべて意味をもつこと、あるいは役割を持つことを宣言する。すなわち「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとにもどらない」(11節前半)。だから、あなたたちは前に進める。「山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく……」(12―13節)。あらゆる自然的世界が人格化され、それが歓声をあげる、つまり世界の平和的な完成に至る。このようなおおげさで空想的な喜びの世界を、実はイザヤ書はくりかえし出てくる、(11章、35章、40章など)。わたしはこれはイザヤ書のみならず、聖書全体のある種の思想的中心ではないかと考えている。一見空想的は描写は、実は現にある自然的世界さえ、実は今だ途上に過ぎず、さらなる創造と変貌を経て新たな、次の世界へと再創造されていく、こんな展望を持っている気がする。
ともあれ、第二イザヤはこのような神の言葉、そして神の希望、神の神による神の賛歌で閉じられるが、これはもちろんわたしたちの希望と重なる。そしてわたしたちは仮に、各自の体としての命は尽きるとしても、その各自の思いは未来へとつらなり、その実現に向けて、働いていくのである。だから教会の年配者は語らなければならない。未来を作るのはその言葉であるから。