日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年10月26日
「創造と贖い―その深さを知る」イザヤ書43章8~28節
 先週に引き続き第二イザヤを取り上げます。前回は第二イザヤの最後の部分でしたが、本日は43章の後半部です。この断章には「イスラエルの贖い」とありますが、その内容は入り組んでおり、イスラエルの贖いだけでなく、創造や歴史支配、イスラエルの選び、神ヤハウェの新たな決意などさまざまな主題が現れます。これらを、たたみかけるように、いや怒涛の如くに語るこの預言者の内面はいかなるものであったのか。いつも疑問に感じています。第二イザヤの預言はどうしてこうも躁状態なのか。彼は何を感じとり、何を根拠にこのような気宇壮大な預言を発しえたのか。
 背景にあるとされるのはバビロンの滅亡前夜の状況である。捕囚となって30年ほどたつと、バビロン帝国は急速に衰え始める。マルドゥクの神官の影響力が高まり、彼らの政治的発言力が高まったとされる。彼らの力で王が決まり、必要ならその王を暗殺したという。やがて最後の王ナボニドスは月の神シンに没頭し、ついにはバビロンを捨て、砂漠のテマ(オアシスの町)に隠遁してしまったという(551年)。彼はもともとハランという町の女神官の息子であった。他方、列王記の最後を見ると、この時代の前後に、597年に捕囚となってバビロンに移されたヨヤキン王が、当時のバビロン王エビル・メロダク(561―560年)によって獄から解放されて、彼の食卓に上がったとされている。エビル・メロダクはわずか2年で失脚したので、その後ヨヤキンがどうなったかわからないが、列王記はこの朗報をもって閉じられている。バビロン捕囚はイスラエルにとって、歴史的に極めて困難な時代であるが、他方、彼らがこの出来事を通じて自分たちの宗教を深く考え直す貴重な時でもあった。バビロンはイスラエルの王国としての外形は解体したが、その成員を殺戮したわけではない。捕囚民としてバビロンに移住させ、恐らく必要に応じて彼らを利用し、場合によっては一定の配慮をしたと見られる。先の列王記の記事もその証拠のひとつである。
 おそらくこの時代にバビロンで申命記の思想を背景にヨシュア記から列王記までの歴史が書かれたと言われる。他方、祭司文書も書かれたかもしれない。国家の滅亡はかえってイスラエルの民族意識や宗教意識を高め、かつての王宮にいた祭司や書記たちがその情熱を傾けて後のユダヤ教の基礎となる思想と文学を形成したと思われる。同時に、そのバビロンの斜陽を目にした預言者は新しい時代の到来を幻に見たのだろう。そのひとりが第二イザヤである。
 彼はバビロンの衰えをつぶさに見聞きし、そこから来るべき時代を構想したが、その神学の中心にあるのが、神ヤハウェによる創造と贖いの二つである。例えば40章12節以下で「手のひらにすくって海を量り、手の幅を持って天を測る者があろうか。……」。あるいは同22節で「主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住むものは虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる」と宣言する。こうしたイメージのもつ壮大さは、わたしたちのイメージではつかみにくいほど巨視的な感じがある。これはおそらく当時のバビロン町の規模やその宗教の持つ壮麗さと関連するだろう。第二イザヤはそうしたバビロンの主神マルドゥクの神官たちの宗教的観念を乗り越えるために、ヤハウェの位置づけを可能な限り高めた、そしてその結果、創造者であるヤハウェはあらゆる地上のモノを越えているのであり、造られた者ではないがゆえに、形がないのであり、また、だからこそ「呼びかける声」(40章3節)としか表現しえないのである。それにしても、彼の表現はこの世界を創造した神を非常に鮮やかに描くが、その姿はじつはまったく表現されていない。すなわち見えないのだ。こうした見えない創造神を知ることができるのは、実はこの地上世界の存在者それ自体の存在である。地上世界は、それが存在していることによって、すでに創造主を証明している。そしてそこに生きる私たち自身も、それを意識した途端に命の神ヤハウェを感じ取る。そしてそれをさらに深く感じ取った者は、同時にその神の意思をもきっと知るだろう。それは、世界は美しく、平和で、善であるべきということだ。しかしそれは残念ながら、超越的な神ヤハウェに気づくことのできない者たちによってさまざまに壊されている。しかも壊される側も気づかないままであるから、畢竟世界は混沌となる。
 しかし、第二イザヤは、自分たちが先祖に現れた神ヤハウェの民であることを深く認める(例えば41章8節以下、44章1節以下)。神ヤハウェは第二イザヤを通してこう宣言する。これは本日の断章の核心でもあるが、「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない」(43章21節)。神ヤハウェはイスラエルを神の意思を表現し、守り、かつ実現する道具として造ったというのである。これはイスラエルのただならない自己意識であるとも言える。だから彼らは責任が余りにも大きいのである。
 そのイスラエルは、現実には捕囚となっており、バビロンに服している。しかし時は移り、今やバビロンは急速に衰えている、そしてナボニドス王はもはやバビロンを棄てた。さらに、東から出て、やがては北のリディアを通って、新たな使命を帯びた王が来るらしい。(そう、これがアケメネス朝ペルシアのキュロスである。)しかも彼は、イザヤの理解では、解放の王となる歴史的使命を担うらしい。こうした予兆に自らを委ねた、あるいは賭けたとさえ言えるこの預言者は、改めてイスラエルをヤハウェの僕としての大切な役目を担う民ととらえ、もう一度この地の捕囚民を奮い立たせるのだ。だからこそ彼の言葉は極めて躁であり、饒舌であり、力に満ちている。その力が、その気高さが、そしてそのスケールの大きさが、民の日常を突き動かす。それは今の私たちが読んでも、たとえ紀元前6世紀のバビロンという歴史的文脈を知らずとも、感じ取ることができるほどである。
 彼は本日の断章を神ヤハウェの言葉として語る。10節には「わたしの証人はあなたたち、私が選んだわたしの僕だ、……あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するだろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを」と記され、ヤハウェが完全で唯一の創造者であることを宣言する。そして11節では「わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」と語る。こうして創造者である神は同時に救い主でもある。
 しかし、この二つはどうつながっているのだろうか。創造の神ということは、必ずしもイスラエルでなくても、もちろんキリスト者でなくても理解は可能であろう。つまり簡単な理屈である。世界に存在しているものは誰かが造ったに違いないという簡単な論法で十分である。しかしそのことと、救いの神であることとがどのようの結びつくのかは簡単にはわからない。
 これについては12節でかすかにヒントを与えている。「わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、あなたたちには、ほかに神がないことを伝えた」(12節)。これが何を指すか? これはモーセに予め示され、やがてイスラエルを奴隷の国エジプトから救いだし、さらにシナイ山で第一の掟を、モーセを通じて彼らに与えたことを暗示する。つまり、神は神の造った世界の完全さ(ヘブル語でトーブ)、現代の言葉でいえば平等、自由、そして分かち合いといった理念をあのヤコブの民に、あの弱小のヘブライ人に実現したのである。このことをより立ち入って考えてみると、そもそも創造とは単に世界に事物を造ったという次元ではなく、このイスラエルの救済と共同体の形成を通して、世界を新たに創造したということ、つまり創造と贖い(ないし救い)とが一体であることを示しているのではないか。第二イザヤは創造と贖いをくりかえし強調するが、彼においては創造と贖い(救い)とが一体のものとみなされているからだろう。したがって、第二イザヤにとって、いまバビロンに埋もれているイスラエルの民は言ってみれば創世記の最初にある混沌に中に、つまりまだ水の中に埋もれているのに等しい。それゆれ彼はその民に向って、創造の神を高らかに宣言し、新たなことが始まることを告げる。それが16節以下の言葉である「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、……初めからのことを思い出すな。昔のこと思い巡らすな。見よ、わたしは新しいことを行う。……」。これらの言葉はやはり、創造と救いの一体であることを暗示していると言える。正確に言えば、再創造かもしれない。それは自然的世界の転換をも視野に入れているから(19―20節)。
 最後の連で、先にも触れたが、イスラエルはヤハウェの使命を帯びていることを告げる(21節)。その後にはしかし、かつての罪を回顧している。ついさっき「昔のことは思い巡らすな」言ったばかりなのに、である。このあたりはイザヤ書の編集の問題なのか、第二イザヤの精神の高まり具合とその向きの問題なのかはわからない。ともあれ、驚くべきことは、25節の言葉である。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」。これは何を言おうとしているのか。「わたし自身のために」とは私である神の正しさをもう一度立証するためにということだ。先に、神自身がその道具であるイスラエルを結局は罰しいったんは滅ぼした。しかし、それでは結局イスラエルの神と称するものは何事もなさなかったと同じである。あの理念は泡と消え、そして世界はただ混沌としたままである。ならばどうするか、神自身があなたがたの、すなわちイスラエルの罪をぬぐい、忘れることにするというのである。このことこそが真の意味での神の贖いということである。つまりこれが赦されて生きるということの意味である。そしてこれがさらにはっきりと具体的に見える形になるのが、後のイエス・キリストの出来事とその意味、すなわち神自身が子を送ってイスラエルのためにその罪をぬぐったという物語である。(第二イザヤはあの53章でもより鮮明にこの論理を僕の詩に寄せて描くが、かれは神を守ると同時にイスラエルの使命をもう一度取り返すのである。)
 さて、本日は43章で切ってしまったが、実は44章8節までで一応の区切りとなり、最終的にもう一度神自身が「わたしは始めであり、終りである。わたしを置いて他に神はない」と宣言し、さらに「あなたたちはわたしの証人ではないか」(44章8節)との反語の疑問をもって、イスラエルの特別な地位を確認してひとまず終えている。
 第二イザヤはおそらく創造と贖いを一体としてとらえている。それは単なる世界の事物の創造ではなく、世界の事物、自然や人間の最善の最高の在り方、それは今のわたしたちの時代の言葉でいえば、平和、自由、平等と分かち合いであるが、それはヘブライ語でまとめればシャロームということになろうが、そうした最善最高の世界を完成するという意味での絶えざる創造であり、それに参与するのがイスラエルであり、その民はくりかえし挫折するが、しかしたえず神の赦しの中で、つまり贖いによって、再度の使命へと促される。もちろんこのイスラエルはあの紀元前6世紀のバビロンに捕囚となっている人々だけではない。このテキストに触れ、自らの生きるべき道を見出したすべての人がイスラエルである。なぜなら聖書は過去のものでなく、今を生きる私たちのものであるから。