日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年11月16日
「小さな者を軽んじない」マタイによる福音書18章10~14節
 この話は聖書の例え話でも非常に有名なものです。1匹の迷い出た羊と残された99匹の羊、そして羊飼い。羊飼いはどうするか? 当然、迷い出た羊を探しに行くだろう。99匹を山に残して。そして1匹が見つかったら、喜ぶだろう。当然の話です。しかし、問題は迷わずにいた99匹より、その見つかった1匹のことを喜ぶだろう、と書いてあることです。確かにそうかもしれない。いなくなったものが見つかったのだから。
 私たちもこの話に同意する。しかし、この話を離れて、実際の生活ではどうだろうか。99匹が残っているから、ひとまず1匹のことは忘れて、残りの99匹がいるから、そちらを優先しようと考えることの方が普通なのではあるまいか?実際、わたしたちの生活は、「大多数」が良ければ、その意見に従う、というのが基本です。しかし、人の命、人権にかかわる事柄はそうではない。それは多数決では決まらない絶対的なものだからです。たとえば殺人事件が起こった、しかし日本には1億人以上いるのだから、一人欠けてもまあ仕方がない、などとは言えません。犯罪者ひとりを見つけるために国は全力を傾けるはずです。
 他方、1匹を探しに行くのはいいが、残された99匹はどうする?ということもあります。現在の問題で言えば、一部の問題ある人のために、過剰な税金を費やしていいのか?いわゆる生活保護の費用の問題です。一部への援助は、それ以外の人々のねたみや不公平感を生みだす。そうしたねたみや不公平感が、たとえ間違ったものでも、そうした気分のようなものが広く広がっているのが現実です。
 このように大多数と一人の対比はいくつかの論点をはらんでいます。
 キリスト教は、イエスのこの例え話が残された通り、この問題を真剣に受け止めます。そして、この1匹を探し続けることを正しいとするのです。先程の例をもう一度見ますと、キリスト教は犯罪の被害にあった人のことを考えます。1億人以上いるのだからたとえ一人欠けても仕方ないとは言えない、だから警察は犯人を捜す。しかし、この羊の話は、犯人を捜すのではなく、失われた羊を探すというのが筋です。言い換えると、殺されてしまった一人の人を探すのです。もちろんその人はもういない。しかしその人に関わる人はたくさんいる。そしてその人自身が失われてもなお、その人のかけがえの無さ、無念、悲しみ、が残る。つまり、失われたその人を探し続けるのです。それは遺族や友と一緒にその人を悼み、怒り、さらにはその先に犯人への思いも含め、その殺された人を取り戻し、最後に、これからもこの世界の一員であることを確認するのです。これは一種の精神的なケアです。あるいは魂への配慮と言うべきものです。
 つまり、1匹を探すというのは、そのひとりの命が欠けた世界は、自分の痛みであると感じることから始まるのです。そして破られた安定、健康、安全をもう一度回復する。1匹は全ての人の幸福につながるという考え方です。
 さて、やや結論を急ぎすぎました。この例え話から二つのことを話したい。一つは、迷い出た羊の側から考えてみることです。私たちは道に迷う。比喩でなく、実際に迷うことがある。ナビもない、地図もない、もちろん方位磁針(コンパス)もない。見知らぬ街に迷い込んだ。しかも日が暮れてしまった。あなたはどうだろう。迷い出たというのは、方向もわからない、友人もいない、暗い、つまり孤独であるということです。この時どうするか、そこが町なら誰かを探すでしょう。交番でもよい、他人の家でもよい。そしてそこで誰かの声に出会い、ここがどこなのか、そして私が戻るべきところはどこなのかを必死に確認するでしょう。しかし、野や山において迷ったなら、つまり遭難したら、どうか。もはや完全に孤独です。そのとき私たちはたぶん本気で祈る。つまり打つ手がないと思った瞬間に、私たちは叫び、祈る。「わたしはここにいる、誰か見つけてください」と。つまり、本当に迷い出た羊に待ち受けるのは孤独と死である。
じつは今の私たちの時代は各人が迷い出た1匹の羊の如くに、みな相互に孤独になっているのではないか。こんなにも人は周りにいるのに、誰にも気づかれない、と言うことが現実にある。それは団地やアパートでの孤独死のような悲劇として表に出てきたものだけでなく、むしろ人知れず深い寂しさや悲しみに沈む人々のことです。誰にも言えずに悩みを抱えて、一人でいる。こうしてみると、1匹の羊は実はたくさんいるのではないかと思えるのです。
もし、そうだとすると、羊飼いはどうしましょうか。1匹だけなら確かに探しに行ける。しかし迷い出たのがたくさんいたらどうしましょう?それぞれの優先順位をつけますか。あいつは毛並もしっかりしていたし、乳も良く出たから、あいつからにしよう、と。いや、そうしません。キリスト教は羊飼いをたくさん育てることで対応します。そして迷い出た羊の孤独をいやし、帰るべき場所を作るたくさん作るのです。そして99匹の集団に戻すだけでなく、迷い出てしまったことによる痛み、孤独、苦痛を癒し回復させるために、99匹よりはるかに手厚い配慮をするのです。これは一見するとえこひいきにさえ見えます。そしてそう非難されるかもしれない。しかし、それはお門違いである。マイナスから出発した人には当然人並み以上にハンデがあるのだから、それを優先して埋めるのは当然なのです。
 さて、このように複数の羊が迷い出ていたらどうしたらよいでしょうか。
実は教会共同体は、このような問いを解決するために存在するのです。一人の羊飼いではとても手が足りない、あるいは力不足である。これに対して、すでに教会の仲間となり、救いに与かっている者たちは、羊飼い一人に任せておくのではなく、むしろ自らも羊の地位を脱して、羊飼いとして働くのです。これを旧約聖書ではイスラエルの民は「祭司の王国」であると言い、そこからルター派の教会は、プロテスタント教会はそれに倣って万人祭司説がその本質であるというのです。教団の教会の主流は改革派・長老派であり、さらにその流れで、メソジストも含まれていますが、こちらも万人祭司とは言わずとも、モーセの権威を授与された長老の権威を重んじています。要するにプロテスタント教会は、信徒は、もはや救いの客体ではななく、その主体、主催者の役割を担うことになるわけです。もちろん、それはだれもがというのではありません。そんな事を要求するなら、当然みんな疲れていきます。実はプロテスタント教会の勢力が弱っているのは、そうした要求が言わば律法主義的な圧力として受け止められた結果、ひたすら求道者的な態度を持ち続けることに疲れたり、あるいは飽きてしまったりした結果である思います。
 それにもかかわらず、教会は複数の失われた羊に対して、協力して対応しなくてはなりません。もちろんそれは重荷であってはならない。それは喜びである、あるいは楽しみであるくらいでないと、ダメです。幸いわたしたちの砧教会はこの羊と共に歩むのを基本にしているので心配はいりません。しかし、世の教会は内向きになり、今の状態を何とか維持しようという方向に行っている気がします。私たちはもっと開かれているべきなのに、です。
 ところで、もう一つの問題は失われた羊が多数、つまり99匹が迷い出てしまったらどうするか、というものです。これに対処することはできるのだろうか。もはや余りに多すぎて、教会員が力を合わせても、到底太刀打ちできないという時です。
 私はアジア太平洋戦争時の日本のキリスト教を思い浮かべます。教団の一部の教派(ホーリネス教会)
は弾圧されましたが、それ以外はかえって時流にのって戦争協力したとされ、戦後も鈴木正久教団議長の声明止まりで、教団としての責任をいまだ正式に明らかにしていません。こうなっているのは、そもそも戦争に協力したとか、政治に翻弄されたとか、政治的な対抗運動を行ったとか、といったこの世の問題のわずらわしさから逃れ、それを忘れたいが故のキリスト信仰であると考えているからです。しかし、これは信仰の在り方は聖書の使信にとって本質的ではありません。聖書の使信は信仰を部分的なものに関わるものとはおよそ考えていないからです。つまり、キリスト教の信仰の向き合う世界は「すべての世界」であるからです。
 さて、話を戻して、99匹が迷ったとすると、ひとつの教会では太刀打ちできません。それではどうするか。そのためにはより大きな教会の連合体で当たるべきです。第二バチカン公会議以降、世界の教会は一つの家である――エキュメニズム――という考えかたが表明されましたが、もう一度手を取りあって、別れた兄弟と連帯しながらこの課題に向き合っていくべきでしょう。すでに何度か説教でも言及しましたが、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』には連帯する必要があると思います。
 現実には今、99匹が迷い出ている時代であると言えるでしょう。20世紀の遺産はすでに賞味期限が来ているようです。もちろん賞味期限は消費期限とは違うので、ひどくまずくはなっていますが、まだ大丈夫と多くの人が我慢して食べている感じでしょう。しかしそれはもはや時間の問題です。
 この中にあって、実は教会自身も、あるいは教会に集まる信徒のひとりひとりも、広く考えれば、ここの時代を生きているわけですから、見方を変えれば教会も信徒も失われた羊であるとも言えます。こうなるともう一回出直しです。どう出直すか?おそらくそれが聖書の持つ役割です。つまりキリスト教にとって、変わらないものはじつは聖書だけです。私たちは自分たちが迷ったと感じた時、もちろん客観的にキリスト者であっても(あるいはそうでなくても)、このテキストに戻るべきでしょう。そして再び、創造と贖いの神と、その子であるキリストに出会う。そして改めて自分の、あるいは自分たちの生きる意味を発見するのです。そして、もう一度本日のテキストに出会う。その時には、すでに、私たちはもう一度、見出された羊であること、救われている羊であることを想起し、再確認する。そして、自分の外がすべて失われた羊のようであるとしても、つまり一人だとしても、そこから出発する勇気を頂くのです。なぜなら、すでにその先駆者であり、救いの完成者であるイエスが私たち以前に先に進んでいるからです。聖書はそのことを常に示し続けているのですから。
 最後にもう一度一匹の羊に戻りましょう。私たちはいま教会に集まり、礼拝を行っています。しかし、多くの人の祈りにあるよう、ここに集おうとして集えない者たちがいます。教会は常に「あつまれ」と勧告してきました。しかし、集まれない人にとっては無理難題、集まりたくない人々には大きなお世話でしかない。これからは事あるごとに教会が「出向いていく教会」にならなくてはと思います。このことばは教皇フランシスコの『福音の喜び』第1章第1節の題です。当然と言えば当然の提言ですが、本来の姿は失われた者を見つけるために出ていくのが筋なのです。わたしはもう一度教会の在り方をみなで考えてみたいと思っています。