日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年11月23日
「働くとは何ですか?」マタイによる福音書20章1~16節
 働くとは何か。おそらく新約聖書の時代では、いわゆる労働(つまり農耕や牧畜、汗水たらしておさんどんとする、何かを建設するなど)は民衆あるいは農奴がすることであり、貴族や役人たちはそうした労働はしなかった。ギリシア・ローマ世界では労働とは奴隷の仕事であり、市民はもっと知的で政治的で、芸術的な行為をすることが本分であった。労働は特に創造的ではなく、絶えざる反復であり、退屈なものである。これは身分社会、階級社会が成立して以降、比較的近い時代まで、続いている。それは近代ヨーロッパ、あるいはそれ以外のところでも似たようである。しかしながら、こうした階級分化とそれに伴う生きる営みの前提となる農業生産、建築などを貶めることは、本来の人間の在り方とは違っていると思う。その本来の姿は、古代ギリシアの著述家ヘシオドスの『仕事と日々』に現れている。ヘシオドスの生きた古代ギリシア地方では子は父に倣い、農業を受け継ぐ、それは美しい労働である。そこには労働への後代のような偏見はない。体を動かし、汗を流し、豊かな実りを得る。それをこどもたちへと、後々までその労働の喜び、それによる恵みを享受できるよう伝える。ヘシオドスの「仕事と日々」には管理支配するものが偉く、働くものは低い人間であるという認識がない。それはおそらく人間の社会的分化はいまだ起こらず、多くの人々が働くことの喜びと意味を実感していたと思われる。しかしギリシアのようなそれぞれが自立したポリスを形成していた世界においてさえ、恐らくは農業革命とそれに伴う農器具の発達によって劇的に生産力が拡大し、同時に土地の収奪の争いが始まり、やがて相互に戦争奴隷や農奴のような人々を連れて来ると言ったことが生じる。その結果ヘシオドスの時代に謳歌されていた労働の喜びは、農奴がやるべき、あるいはより身分の低い者が行うべきものとされた。これは人間の階級分化の基本的な姿である。
 加えておくと、このような階級分化と同時におそらく性別に基づく分業と女性の地位の低下もあっただろう(ギルガメシュ叙事詩にはこの事情が明確に語られている)。もちろん男たちもいくつかの観点から選別され、戦士的なものを優越とする序列が出来上がっていく。その極北はギリシアのスパルタであるが、彼らの自由は基本的には身体的な完全に基づいている。そして女性は知的であることと美的であること、そして豊穣の可能性を秘めていることなどによって、つまり男にとっての価値と、かつ共同体の豊かさに奉仕する力とによって序列化されただろう。
 労働は、最も重要でありながら、最も低い価値に貶められていく。このことは創世記のアダムとエヴァの物語にも当然反映されている。禁断の木の実を食べた二人は、神の怒りに触れ、楽園を追い出される。アダムに課せられたのは労働である。それは罰とされ、負の刻印を押されているように見える。これはやはり、この神話がつくられた時代の価値観を反映していると言えるだろう。ただし、旧約聖書全体が総じてそうであるかと言えばそうでもない。旧約聖書の本来的な考え方は、生産手段としての土地は嗣業であり、それは家族、一族が命の神ヤハウェから賜った、売買は原則禁止の、神聖なものであって、そもそも所有ではなく、ただその個人なり一族なりが占有権を持つにすぎない。そしてそれによって家族の主体性や自由が保たれる、極めて重要なものであり、そこから得られるものを感謝していただくことによって生活を豊かにできるのであり、当然そこでの労働は喜びであり、かえって神聖でさえある、というものだ。このような原則的な考えは、もちろん現実とはかけ離れていく。たとえばアモスの預言や、イザヤの初期預言にある通り、富める者が家に家を建て連ね、貧しい者を追い出して行った。イザヤはこのような富める者の横暴を、口を極めて糾弾している。彼は貴族的な身分だと思われるが、その心根は古い部族連合の根本的な姿勢であったのだ。つまり、その地位や生まれがどうであれ、根源的な立場を保持することができたのである。イザヤは特に祭儀批判も厳しいが、こうした現実の宗教への批判も先の土地問題に関する批判と同様、イスラエルの根本的な教え、つまり「生きている神」への忠実が本分であり、祭儀は二次的であるということだ。まして巨大な犠牲や祭儀に大きな富が使われることには、重大な疑義がある。それは下々から絞り取った富によって下々を幻惑し、その窮状を一時でも紛らわすことに使われるだけとなる。これではヤハウェ宗教ではなく、もはやバアル宗教とさほど変わらない。
 こうして、労働はイスラエル社会でも相当程度分断され、王宮や官僚、祭司などの上層と、古くからの伝統的な土地と労働の在り方を守る人々の間には溝が深まっていっただろう。そして後者はやがてさらに周縁化され、そうしたあり方は単なる理念として保持されるだけとなったと言える。かつて「地の民」と呼ばれた古くからの豪族は、やがて新約の時代には困窮した人々を指す言葉になっていく。
 イエス時代の背景は、ご存知のように、ローマの支配、つまり大土地所有制と農奴制を前提とするラティフンディウムと呼ばれる支配があった。膨大な数の農奴が少数の地主、ローマの貴族、強大な軍隊に支配され、かつ彼らを支えるために搾取された。その一地方がイエスの生まれたユダヤ州のガリラヤ地方であった。本日の話には、日雇い動労者が出てくる。つまりその日生きるための賃金をあるかないかわからない今日の仕事に賭けている人々である。こうした人々がおそらく都市周辺にたくさんいた。その人々への賃金支払いを題材に、たとえを語るイエスがいる。彼は朝から仕事をしてきた人も、昼間から加わった人も、終りかけに来た人にも、おなじ1デナリオン(一日分と言われる額)を支払った雇い主のことを語る。これは誰が見ても不公平だ。だから朝から働いた人は怒る。この雇い主は、私は雇い主だ、私が払いたいから払うのであって、雇われているあなたに関係ないことだ、という。契約は個々に行っているのである。
 これを天の国の比喩として語るのがイエスである。これは、日雇い労働者の苛酷な立場をよく知るイエスが、仕事にあぶれている人々も生きていけるだけの最低限の賃金を与えるべきであり、それは一見したところ不公平に見えるが、生存権を保障することを暗に訴えていると読む人もいる。それもありうるが、最後に加えられている「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」からすると、すでに救いが約束されているかのようなファリサイその他の優位な立場のユダヤ人に対するあてつけのような言葉である。つまり神の意思は人間の及ぶものではないということだ。しかし、神の国を表現するのに、こんな不公平な話で納得させることはできない。いくら神の主権が優越するからと言って、これでは、「だったら信仰など止めます」ということなりかねない。
 要するにこれは神の自由な選びといった(後の予定説につながる)ような神学的なたとえではない。
 では何か?これはやはりイエスの考える天の国、つまり理想的な共同体の姿である。働ける者、働かない者、働く気があってもその場所がない者、生産手段を持つ者、持たない者、男であるか女であるか、などといった立場や属性の違い、あるいは障害の有無、これらによってその人が生きることの権利は全く阻害されないということだ。各人の分によって生きるのが前提であるとしても、その分が小さかろうと大きかろうと、互いに分け合えば良い。しかしそれを労働者自身に渡しては必ず能力や時間で公平に分けようとするから、あぶれた人や能力の低い人は、場合によって生きられなくてもしようがないとされるほどまでに、公平が貫かれる可能性がある。つまり公平であるとは不幸を生み出す可能性を秘める。これは矛盾に見えるが、スタートラインが不平等である時、生産性で公平を貫くと、結果としてそうなってしまうのだ。イエスが言っているのは、スタートラインまで含めた時に求められるのは一見不公平に見える分配が必要だということだ。しかもこの分配は労働者の側に主導権があるのではなく、雇用する側にあるとすることで、不公平であると思いがちな労働者側の反論を無効にさせるのだ。つまりこの話は、天国を治める者は、このような気前の良さ、いやスタートラインへの配慮を前提に雇えという、雇用者側に要求する物語であり、ひいては雇用するものの立場を崩壊させるものでさえある。つまり何としても人を雇って一日分を与えよというのだから。
 そして、さらに言えば、天の国は実は雇い、雇われるといった関係そのものも問い直されるということかもしれない。それは働くものとそれを享受するものが隔たってしまったこの世界において、もう一度それを元に戻すことを視野に入れている気がする。つまり持てる雇い主は吐き出せというわけだ。
 これは深読みに過ぎることは承知の上だが(ただ、金持ちへの厳しい批判はくりかえされている)、以前から思っていたが、働く者、それも優位な労働者の側の不公平感から読むのではなく、雇用者への要求として読むなら、恐らく労使の格差を越えることを雇用者自身に促す物語にもなるし、それを徹底するなら、それこそ天の国であり、貧富や格差、生産手段を持つ者と体一つしかない者、さらには体に障碍を負っている者といない者の別なく、それぞれがその分に応じて働き、それができない者もふくめて、互いに労わりあう世界が天の国であるとも読み得るのである。
私は天の国を余りに観念的に考えるのは宜しくないと思う。イエスの言葉は強力であり、実感的であり、挑発的である。それは肉を持った言葉であり、圧倒的な力となる。私たちは、今、イエスの生きたガリラヤやユダヤのスケールとは大幅にことなるグローバルな世界を生きている。そしてこの労働者の矛盾よりはるかに困難で、はるかに複雑な搾取の構造の中を生きている。それは我々の住む日本、いや東京においてさえ深刻な事態であり、このことをめぐって政治も荒れている。まだ2年もたっていないのに、また衆議院が解散されたが、争点は経済政策だという。この状況にあって、しかし、このイエスの語る言葉は、やはり人間を生かす、根源的な発想を持ちうる言葉だと、つくづく思う次第です。やはりここから天の国は始まったのであり、教会がそれを実現している場であることにアーメンを唱えたい。私はその誇りを身にまといながら、天の国をまた一歩広げていきたいと願う者です。