砧教会説教2014年11月30日
「救いの時を夢に描く」
イザヤ書35章1~10節
今日はアドベントの第一週の主日です。アドベントとは待降節と訳されるが、本来この言葉は「到来」の意味である。これはローマの軍隊が戦いに勝って凱旋することの意味であるという。つまり勝利者が「到来」するのを待つことである。キリスト教はこの勝利者の到来とイエス・キリストの誕生、つまりメシアの誕生とを重ねたわけである。
これは喜ばしいことであるが、メシアの到来には二重の意味がある。メシア到来の期待は、救いの時であると同時に、時の転換の時であり、大きな苦しみが待ち受けるときでもある。したがってアドベントは緊張の時でもある。キリスト教の暦では、平常の月が終わり、終末に向かう時の始まりでもある。メシアの時とは、考えようによっては呑気に祝う時ではなく、ある心構えを持って過ごすべき時であると言えよう。
さて、本日はイザヤ書35章を取り上げたい。これは読んですぐにわかる通り、イスラエルの栄光の回復を夢見る詩である。イザヤ書の39章までは第一イザヤと呼ばれ、紀元前8世紀のエルサレムの預言者イザヤにさかのぼる預言が多く残されているとされる。しかし、その多くは後代のものであり、今日の詩もおそらく、バビロン捕囚期(前6世紀、前597―538年)のものであろう。この預言は第一イザヤの事実上締めくくりの預言であり、非常に完成度の高い預言に見える。そこで語られるのは、喜びである。この喜びはおそらく、アッシリアの時代から新バビロンの時代、そして捕囚という前8―6世紀にかけてのイスラエルとユダの民族的苦難を経験した匿名の詩人が、イザヤの名を借りつつ、新しい時代の到来を夢見て歌い上げたのだろう。
1節では「荒れ野」「荒れ地」とほぼ同義の言葉を並べ(ただし、後者は「渇いた地」と言う感じか)それらに喜べと命じ、さらに砂漠に向けて喜び、花を咲かせよと命じる。さらに砂漠はレバノンの栄光、カルメルとシャロンの輝きに飾られるという。これは砂漠が豊かな森となり、美しい山と豊かな実りをもたらす豊穣の地に変わることを指す。自然的世界の変貌は、神の栄光と輝きを表すのである。このような非常にスケールの大きな表象は、預言や詩編によく出る。わたしは常々こうしたやや大げさな表象を、実感を持って受け取れなかった。要するにピンと来ないのだ。もちろんパレスチナの自然を知らないことも大きいが、大地の人格化というか、これに命じるという発想がわからないのである。しかし、最近日本の和歌の世界にもこうしたスケールの大きな、つまり大地に向かって命じる詩があることを知った。水原紫苑(『桜は本当に美しいのか』平凡社新書)に取り上げられた柿本人麻呂の石見相聞歌の長歌の結びにある「夏草の思い萎(しな)えて偲ふらむ 妹が門見けむ 靡(なび)けこの山」(『万葉集』巻2、131)徒の詩は、まさに山に命じているのである。命じているのは人麻呂自身で、命じる理由はわたしを思って萎えている妻を見たいがゆえに、である。つまり動機は慕情である。慕情の高じた人麻呂に、山は平らになって遠くにいる妻を見させよ、というのである。恋の慕情が大地の変貌を要求するとは、なんとも不思議な感じだが、水原さんはこれを「鳥肌が立つような絶唱」とかたり、「山が動いたかどうかはわからないが、自然が感応するには、これほどの歌でなければなるまい。古今集のどこを見ても、これに匹敵する呪術的迫力を持った歌はないだろう」と万葉のこの詩を絶賛している。彼女は、古今集のようなもはや人為的で枠を持った美学とは違うより呪術的原初的な万葉の詩の力を評価している。わたしはこれを読んで、動機はともかく、自然の変貌を要求するという規模の大きな表現は、この箱庭のような自然の日本でも、すくなくとも万葉の時代においては可能であったことに感動したと同時に、願いや希望の強さは表象の(イメージの)大きさに比例することに、思いを新たにしたのである。
さて、3―4節は元気をだせという促しである。神の栄光はきっと間もなく現れる。それに応じて捕囚民の仲間たちよ、元気を出せ、神は必ず報いる、というのである。
この次の連が核心である(5―10節)。「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。……」このような転換も、やはりわたしにはずっと違和感があった。こうした奇跡は、すくなくとも目や耳の不自由な人にとって彼らを愚弄する言葉ではないか、という思いと、こんなことはそもそもあり得ないという漠たる感想である。これに続くのは、やはり、ほとんどあり得ないことばかりである(7―9節、きちんと読む)。しかしながら、ユダヤ教もキリスト教も、このような表象をまともに受け継いできた。なぜか?それはあらゆる人間の、あらゆる苦難や不幸は、いつの日か「完全」なものに変えられるということを期待することが、ユダヤ・キリスト教であるからだ。これを普通「終末論的待望」というが、これはあらゆるものは最後に神の前にたち、問われ、裁かれ、最終的にそれぞれに与えられている目的が実現し、世界は完成に至るということ。やや先走り過ぎたが、この詩もそのような、世界の完全なる転換を夢見るのである。その結果が、こうしたイメージを生み出したと言えるだろう。
このような詩は、じつはイザヤ書にはくりかえし出る。例えば2章、11章、あるいは40章以下。40章以下は第二イザヤと呼ばれる匿名の預言者によるものだが、これは創造と贖いの神を、勢いを持って歌い上げる(これについては先月お話しした)。要するに、イザヤ書に連なる者たちは、世界の悲しみや苦難はすべて乗り越えられるべきものだという信念がある。その信念は観念的な思い込みではなく、この地上に現実に出現するはずだと考える。このことは、キリスト教では「復活」ということになろう。この詩においては、この復活に相当するのがシオンへの帰還であると言えよう。かつてエジプトの奴隷となっていたイスラエルが現実に解放されたように、捕囚の民にとっては、シオンへの帰還こそが救いである。これこそが最終的な目的なのだ。
そして、その目的の実現とともに、「嘆きと悲しみは逃げ去る」のである。捕囚からの解放は嘆きと悲しみの終わりを画するのだ。おそらくこの詩はイザヤ伝説を挟んで40章の預言と結びつけて理解して良いと思われる。つまり、35章は40章を導くのである。
さて、こうした「夢」を謳うことは、わたしたちは本当にできるだろうか。いまはこのような気宇壮大な歌が歌いにくくなっている時代という気がする。それは何故か?不景気だからではない。それは、比喩的に言えば、捕囚民としての地位で満足してしまっているのではないかと思う。そして、自分や身の周りの人々が安寧であればそれで良い、と感じているのだろう。例えば3年前の原発事故。これに対して多くの人々は、当初は反対だったか少なくとも疑った。しかし今はどうか? こうした技術は、恐るべきことに今後も利用され続けることになりそうだ。それどころか、日本は事故の当事者であるにかかわらず、原発システムを売ることに狂奔している。そして福島の人々はおいてけぼりとされ、いつのまにか周縁化され、忘れられて行くかもしれない。
わたしたちの信じるキリスト教は、そういうことを決してやり過ごすことはない。なぜなら、こうした見捨てや忘却こそが罪であると知っているからだ。そして、忘却どころか、あらゆる苦難は解放され、救われると信じるのである。もちろん信じるだけではない。それを実現するのである。そして、それはもちろん早い方が良い。おそらくこのような思いが、本日与えられている預言の詩になったのである。この詩の作者は、このよう信仰を圧倒的なスケールで描いて見せたのである。
わたしたちは本日アドベントの最初の週を記念して集まっている。これはもちろん毎年の行事である。しかし、このアドベント、「勝利の到来」つまりメシアの誕生に込める期待や希望の内実は、毎年異なっていく。個人的にもそうだし、教会全体としても、あるいは社会全体としても。わたしは今年のアドベントに思い描くのは、やはり非常に独善的になった日本社会の転換と内向きなったキリスト教の転換である。具体的に言えば「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足する」(コヘレト3章13節)こと、つまり限りなく広がった格差を乗り越える道をつくること、もう一つ、キリスト教の諸派が、それぞれの伝統を尊重しながらも、広く連帯し、この世の課題にチャレンジしていくこと、である。そして、さらにもう一つは、この砧教会の新しい姿である。その新しさは、今日の預言のような劇的転換と言ったものではなく、もっとささやかである。それはこの教会に歌があふれ、人々の声が響き、皆が思いを寄せあって、祈り、世のために働く姿である。先週はバザーを無事終えましたが、こうした行事を通じて、もっと地域の皆さんに教会を知っていただき、いろいろな課題や問題を皆で共有し解決していく、そういう場もつくりたい。そして教会に来るのが困難な方々のために「出向いていく教会」となること(これは前回申しましたが)などなど。皆さんは、今年のアドベントに際して、何を思い描くだろうか。