砧教会説教2014年12月07日
「メシアの原像から」
サムエル記上16章1~13節
アドベント第2週の本日、キリスト、ヘブライ語ではメシア、すなわち油注がれた者の由来を尋ねてみたい。そのために本日はサムエル記の記事のうち、ダビデがメシアとされる場面を取り上げる。ところで、実は最初のメシアは本来サウルである。彼はイスラエルの部族連合が時代の変遷の中で危機に晒される中、預言者であり、最後の士師であるサムエルによって見いだされた人物で、やがてサムエルは秘密の内に彼に油を注ぎ(サム上10章1節)、その後にくじによって神託で選ばれたように装って彼を指導者として民に認めさせた(サム上10章20―25節)。その後、対アンモン戦争で手柄を立てたサウルは、ギルガルという町で民によって王として立てられた(サム上11章14―15節)。最初の王の地位はアンモン戦争という対外的な危機の克服という戦争指導者としての功績に基づく。他方、サウルが油注がれて指導者になる際、「サムエルは王の権能について話し、それを書に記して御前に収めた」(サム上10章25節)とされ、いわば王的人物への警告として事前に王権の持つ危険性をサウルに伝えている。こうした記事が事実であるかはもちろん疑問であるが、メシアである王はサムエルという神の代理人の支配下にあり、王権という非常に強力な実力装置でさえ、最終的に神ヤハウェの支配に服さねばならない、という考えを打ち出したのである。
サウルはやがて対ペリシテ戦争に明け暮れることになる。サム上14章52節には「サウルの一生を通して、ペリシテ人との激戦が続いた。サウルは勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えた」とあり、戦争に臨むにあたり、多くの傭兵を雇ったことがほのめかされている。イスラエルの戦争は各部族から集めた素朴な招集軍ではなく、王の軍隊であり、プロの戦争集団となっていったとみられる。こうした中で、アマレクという遊牧民との戦争に際し、サウルと兵は「捕虜や戦利品を滅ぼし尽くすべし」とする「ヘレム」つまり聖絶の掟に反し、上等なものは私物化した。サウルはこれらの戦利品はヤハウェに捧げるために上等なもののみ戦利品としたのであり、あくまでヤハウェのためであると主張するが、これに対し、サムエルは聖絶を実行しなかったのは重大な背任であり、背信であるとして、サウルを断罪する。わたしたちはここにおいて初めて、聖絶という一見むごい掟の意味を知ることになる。つまり、いかにヤハウェのため、あるいはみんなの利益のためといっても、こうした戦利品は結局王権の利益のためかその周辺の誰かのためであり、それは結局私物化であり、民全体の観点からすれば、共同体の和を損なうことにつながる。つまり「惜しい」と思うものこそ、潔く捨てることが、最終的に共同体の利益となる、という逆説である。ヘレムの掟の厳しさはじつは共同体の安全と平穏に強く結び付いているのだ。わたしはヘレムの危うさを常に思っていたが、戦争は戦利品を得るのが目的でなく、みずからの安全を求めるだけであり、それゆえにヘレムの理念があると解釈するなら、多少とも説得的な気がしているがどうだろうか?
さて、サウルがこうした掟に反して、いわば王権の利益を優先したことによって失脚した後にメシアとして登場するのがダビデである。ダビデはサウルのように初めから英雄的な者として現れるのではない。むしろメシア性はそうした外面的なもので測ってはならない。すなわち「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(10章7節)のである。ダビデはエッサイの末の息子だが、ヤハウェの目に適った。サムエルがダビデに油を注ぐと、「その日以来、主の霊が激しく降るようになった」という。これはサウルの場合と同じである。油を注がれた者は、いったん預言者団の一員のようになり、預言状態になることによって、ヤハウェの霊を受ける。つまり預言者団のへの一時的な加入によって、王であるメシアはヤハウェの支配のもとに置かれたということだ。同時に預言者の支配のもとにあるとも言える。つまり、神政政治の形は一応残るということだ。さて、ダビデはやがてゴリアテと決闘を経て、次第に頭角を現し、ついにはサウルの敵意を買い、彼から迫害されるのである。サムエルに油注がれたとしても、いまだ王にならず、かえってサウルに追われるが、ダビデは敬虔である。というのも、エンゲディにおいて、サウルを襲う隙があったにもかかわらず、上着の一部を切り取っただけで終え、さらにはそのことさえ悔やむ。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許さない。彼は主が油注がれた方なのだ。」(サム上24章7節)。常にダビデは主の選びを尊重し、サウルを寛大に扱い続ける。それでもサウルは繰り返しダビデを圧迫し、ついにダビデはペリシテの地へ寄留する。その後サウルはペリシテと戦い、やがて戦死するが、そのとどめを刺したアマレク人をダビデは赦すことがない。なぜなら、メシアに手をかけること自体、越権なのだから。こうした態度はその他でもくりかえされる。ダビデは神の支配に忠実である。
ダビデの治世はやがて確立する。それはエルサレムを首都とし、神の箱を安置し、預言者ナタンを通して、ヤハウェがその王朝の永続性を保証したと宣言させる。こうしてエルサレムとダビデの選びはヤハウェの意思であるとされ、この後のイスラエルの信仰にもう一つの基礎を与えた。言うまでもなく、一つは出エジプトとモーセの律法(シナイ伝承)だが、それにエルサレムとダビデ王朝の選びという伝承が加わって、イスラエル・ユダヤのナショナリズムの基礎が完成した。
つまりメシアとは、イスラエルの国家としての自立性を確立し、さらにこの地位を持続させることを主な目的とする国家指導者、すなわち王である。ただし、その権威は王自身の実力に由来するのではなく、あくまでヤハウェの支配、具体的にはサムエル的な預言者の権威に服するものである。この点に置いて、王はあくまで人間に過ぎず、エジプトやメソポタミアの王のように神そのものであるとか神の養子であるとかいう者ではない。
ではどうしてこのメシアがイエス・キリストのような自己犠牲的なメシアに転換していくのだろうか?まず言えることは、メシアは民族の危機、すなわち外敵による滅亡の危機を救う者である、しかもメシア自身がその身を賭して闘う者であるから、自身の命を失うことを惜しまない。したがって、この点では、メシア像は転換するのではなく、元来そうした者だったとも言える。しかし、こうしたメシアはやはり武器を持つ戦士である点て、イエスのような非暴力的な者ではない。そこには暴力に訴えるという契機が残されている。この点で参考にすべきは、実はモーセ像である。モーセは若い頃同胞がエジプト人から鞭打たれているのを見て、思い余って打ち殺してしまった。その後逃亡し曲折を経て、ついに非暴力的にエジプト王と対決する。彼はヤハウェの約束だけを信じ、エジプトのファラオと対峙するのである。ここにはかつての暴力に訴えて一時的な救済に見えるものは実は救済でなく、かえって敵対を増幅するだけでしかないことが理解されている。そしてやがて解放を達成した。ここには自らの羊飼いといしての人生を棄てて、もう一度民の解放へと立ち返るモーセがいる。モーセは預言者とされている。そして彼以上の預言者は出なかったとされる(申命記のモーセの死)。しかし、モーセの歩みは実はイエス的なメシア、すなわち自己犠牲的なメシア像に近いとも言えるのではないか。とすると、ダビデ的な戦士的・王的メシアとモーセ的な預言者的・非暴力的メシアの二つが浮かび上がる。つまり、ダビデ的王的メシアとイエスは本来結びつかない可能性もある。これに対し、モーセ的預言者的自己犠牲的な姿こそ本来のメシアであると言えなくもない。
しかし、モーセ的預言者は実はモーセだけであり、その他の預言者はやはり神の言葉を伝える者であり、根本的には批判的、審判的な言葉の人である。つまり、預言者は指導者ではない、つまり実現する人ではない。実現する人とはやはり、戦う人であり、理想を実現する人である。要するにメシアの真の姿とは、救済の具体的な姿を実現する人である。その意味では、通常の預言者は実現者ではない。とするとモーセ的なるものとダビデ的なる者に共通するのは、ある理想的な世界を実現する者である。要するにメシアの本質とはある理想を実現することが第一義であると言える。しかしダビデ的なるものは暴力的であるが、モーセ的なる者は非暴力的である。そしてどちらがイスラエルの最終的な姿かと言えば、後者である。とするなら、メシアという称号は、その油注ぎという象徴的行為に基づくというより、むしろその実際の働きにちなむものと見た方が良い。そして、この自己犠牲的メシア像は、いうまでもなくイザヤ書53章の苦難の僕に収斂していく。この苦難の僕はダビデ的な国家指導者の位置にありながら、それを断念し、かえって自らを棄てた。彼が実力組織の指導者なのかはわからない。しかし実現者であることは明らかだ。そして実現したことは国家や国民の独立と言ったものではなく、自らの死によって民を破滅から救うことだった。
こうしてサウルから始まる国家指導者、すなわち王の登場は、その最初から民の救助者であり、暴力を前提するものの、やがてはモーセ的な非暴力的指導者と重なりつつ、自己犠牲的実現者としてあのペルシア時代初期の、つまりは帰還の時代の苦難の僕像を経由し、ついにはモーセ的、ダビデ的メシアを総合した如くのイエス・キリストへと変貌する。イエスにおいて実現したのは、もはやモーセ的なるものを越え、ダビデ的なものを越え、ついには神の地位に匹敵する。
しかしながら、このイエスの地位は、高いものではない、かえって、徹底して低いのである。この低さにおいて高いというまったく逆説的メシアに転換する。つまり新たなメシアは先頭に立つのでなく、最後尾について、最後の一人まで救うメシアなのである。
メシアの原像がどのように転換していくのか、アドベントを覚えて、今一度考え直してみたが、この問いは実は非常に錯綜している。しかしわたしたちの賛美するメシアにはるかな前史があり、それらが聖書の歴史を通して深められ、やがて今に至るまでメシアであり続けているその力にただ有難さを思うのである。