日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年12月14日
「理想のメシアと平和な世界」イザヤ書11章1~10節
 アドベントの第3週目の日曜日、改めてメシア預言を取り上げてみたい。この個所はイザヤ書の第一部、1―39章、いわゆる第一イザヤと呼ばれる部分に属するが、その中でもイザヤ自身の預言が多く集められている2章―12章の比較的大きな単元の終結部、その前半の断章である。おそらくイザヤ書の編集者は2章にある終末の平和の幻に対応する形で、11―12章を置いたのだろう。ここには終りの日の世界、つまり完成された世界において、王たるメシアがどのような者なのか、またその支配する世界がどのようであるかを、2章とはやや違った視点で描いている。もちろん、イザヤ本人に遡るかは疑問がある。冒頭の「エッサイの切り株」という表現は、明らかにダビデ王朝がバビロンによって倒されたことが暗示されている。それでもダビデの末への揺るぎない信頼、つまりはヤハウェの選びへの信頼が明瞭である点で、少なくともイザヤの弟子筋がイザヤ本人の百数十年後にこれを書いたと言えそうである。この断章の後の預言もやはり捕囚が前提となっているので、11―12章は捕囚期の末か、そこからの解放の少し後かもしれない。
 さて、歴史的な位置付けはひとまず置いて、この単元の預言を見ていきたい。まず1節では「エッサイの切り株」とある。これは上記のようにダビデ王朝がバビロンによって倒された出来事(前587年)を暗示する。この預言者はそれでも、その切り株からもう一度ダビデ家のだれかが、王としてイスラエルを治めるために立ち上がるだろうという。ダビデ家の選びを強く意識しているのである。ここには明らかに民族主義的動機が見て取れる。(このことの持つ問題性は後日改めて考えて見たい。)その後にはその王に与えられる賜物が並べられている。すなわち、「主の霊」「知恵と識別の霊」「思慮と勇気の霊」「主を知り、畏れ敬う霊」である。はじめの「主の霊」がすべて包括しており、後に来る霊はどれも主の霊の一部をなす。霊と訳されるルアハは、いわば神の息吹であり、これは命の息(ニシュマト・ハイム)にも通じる(創世記2章5節)が、ここではメシアたる王の持つべき、支配のための賜物とされている。この中身は、この世を支える神に由来する知恵、そして判断力、深い思慮と決断力、そして主を知り、恐れること。この主を恐れるという最後の霊が最も基本的なことだ。これが王やメシアに欠けた時、その支配は全く不遜なものとなり、やがて自らの民を抑圧することになる。つまり、自分が全権を持ち、すべてを意のままにすることが可能になるからだ。世の支配者は常にこの危険性を持っている。イスラエルはこうした独裁的な支配を根本的に疑った。このことについては先週申し上げたが、サムエル記上8章の「王の権能」には非常に明瞭にこの危険性が表明されている。
この後に続くのは、この王の支配の姿である。目に見えることや耳に聞こえることによって裁いたり弁護したりしないというのはどういうことか?おそらく、偏った情報によってではなく、知恵、識別、思慮に基づいて、主の判断を仰ぐということである。もちろん情報がなくてはならない。しかし、最終的に偏らないためには、自らが熟慮を重ねるほかないということだ。つまり、王の主体性と自立である。しかし、その熟慮は、形式的な平等とか公平とかいったものではない。4節には「弱い人のために正当な裁きを行い」とあり(この弱いとはダルという語で、貧弱なとか貧しいという意)、「この地の貧しい人を公平に弁護する」とある(BHSではこの貧しいと訳された語はテキストではアヌイ〔アナウ、「謙遜な」の複数構成形〕だが、ヨッドを加えてアニウェイ〔アニ「貧しい、欠乏した」の複数構成形〕と読み替える)。
こうした配慮はごく当然に見えるが、現実は全く違う。残念ながら、貧しく、弱い人々は、公平や公正の外側にいて、つねに虐げられたままだ。なぜなら彼らを弁護し、代表する者はいないのだから。それより、こうした人々をその位置に留めておく方が、共同体にとって都合が良いとされることの方が普通である。現実とはそういうものだ。このことは現在でも変わらない。たとえば、この国でも、同じ働きでさえ、待遇に格差をつけ、それで平然としている。だれも仕事を分け合おうとは言わない。労働組合が一向に向き合おうとしないのは、既得権益のためだ。資本家ではなく、おなじく労働する者が自らを分断している。あるいは子育てに関わる女性の待遇を見よ。結局押し付けられたままである。あるいは、福祉の世界を見よ、厳しい仕事なのに、待遇は今一つのままだ。なぜなら、福祉の対象となる人々は、弱く貧しい人であり、それを助ける仕事は、仕事とはいえない単なるお世話のような、補助的なものに過ぎないとみなされているからだ。あるいは、幼児教育を見よ、「未来」そのものである子どもの養育の仕事が、正当に報われないことがあって良いのか?こうしたことを挙げればきりがない。要するに、「弱い人のために正当な裁き」「この地の貧しい人を公平に」という言葉は、実のところまったく理想的な、あるいは空想的と言ってよいほどだ。(この点に関して、わが砧教会はその草創期から本気で関わってきたと言える。また、わが国ではたとえば、賀川豊彦がこうした理想的預言の実現にむけて極めて劇的に生き抜いた人として記憶されている。)こうした真っ当な発言は、実は真っ当ではなく、非現実的と言われてしまうのである。
さて、このテキストにさらに続けて、「その口をもって地を打ち、唇の勢いを持って逆らう者を死に至らせる」と記す(前半の「地を」はやや意味不明でBHSの脚注では第一子音をアレツでなくアインにかえて「暴虐な者」と読み替えよと提案する)。これはやや極端な言葉だが、要するに公平とか正当な裁きとは、弱いもの、貧しいものに「正当に」肩入れすることである。そして、5節ではメシアたる王は、正義と真実を身にまとうとされる。(この「真実」は原語ではエムーナー〔しっかりとか信頼、信仰〕、RSVはfaithfulness、ルター訳はTreue、LXXはアレーテイア。)要するに正義や真実とは、神の前に一人ひとりが全くかけがえなく、平等であるということだ。
このような真の平等は、ハンナの歌やそれの影響下にあるマリアの賛歌など、多くの歌に歌われる。その歌の根拠はもちろん、奴隷のイスラエルが神に選ばれ、エジプトから解放されたという出来事にある。このことは実は全聖書神学の基本に据えられるべきことである。それの変奏が預言書をはじめとして、福音書、パウロの手紙に至るまで、響いている。このやや物騒な表現を、ルサンチマンと解したのはニーチェだが、この理解はおそらく誤りだろう。ルサンチマンではなく、単に一人ひとりの人間が、命を頂いた者として根源的な平等性を持っていることの確認に過ぎない。それをルサンチマンとした彼は、単に彼のルサンチマンをこのテキストに投影したに過ぎないのだろう。
ともあれ、こうした確認は根本的である。つまりこれを忘れたところに、わたしたち一人ひとりの幸福はないのである。
メシアたる王の姿を描いた後に続くのは、そうしたメシアの支配する世界の姿である。これを初めて読んだとき、途方に暮れた。というより、余りに奇想奇抜で、なぜこんなイメージを描くのか理解に苦しんだ。しかし今は違う。神の真のメシアの支配する世界は、自然の秩序さえ、転換するということだ。「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供それらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは……」(11章6―8節)。一読してわかる通り、肉食で危険な獣、毒のある蛇といった危険な者たちが、彼らの力を納め、他方で草食の動物たち、そして乳飲み子、幼子という最も弱い者たちが、食べられることがない、という。わたしたち自然宗教の国では、自然の秩序こそが大切され、これに逆らうことは宜しくないこととされる。その感覚をもとに、たとえば自然保護・環境保護運動や反原発運動も行われることが多い。しかし、旧約の思想では、自然的秩序は、人間社会の秩序ともども、神の支配の下にある。つまり自然は超越のヤハウェではなく、命の神でもないのだ。だからこそ、こうした自然的秩序の転換が、先に述べたような平等や、あるいは「平和」の姿と繋がり得るのだろう。
私たちはこうした自然の「不自然化」に戸惑う。自然こそが尊いものだと思ってしまう。しかしそこには大きな落とし穴がある。たとえば自然淘汰、適者生存、弱肉強食といった四字熟語に見られる自然的世界の秩序から敷衍した考え方は、余りに容易に差別や抑圧、そしてその維持に結びつく。要するに自然的世界では、弱いもの、貧しいものは粛々と滅んでいくのだ、だから人間の社会もそうであるべきだというわけである。
こうした敷衍は、残念ながらいたるところで実現されている。すでに述べた労働の世界、福祉の世界、幼児教育の世界、だけではなく、時には医療の世界、男と女の関係などにおいても、そうである。
私たちの文化ではこうしたイザヤの幻を「理想的」とはみなさないだろう。それほど、自然への畏敬や憧れは強い。そしてそこを出発点とした環境保護運動などの批判的運動の方が、ややナイーブではあるが、なにか真実に近いかのような気がしてしまう。
しかし、聖書は全く違う。自然的秩序は、神の支配にはかなわないのである。9節では「わたしの聖なる山においては、何者も害を加えない」という。自然は救済には関わらないのである。それどころか、自然は(大地は)「主を知る知識で満たされる」のである。つまり、私たちが自然と呼ぶものは善悪の彼岸にあり、倫理的道徳的な秩序をこえたものであるが、旧約では全く逆であり、かえって自然は全く神の支配に属し、それらさえ倫理的・道徳的な批判に晒される。
そして最後に、「エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はその旗印を求めて集う」(10節)と言う。ここで再び、ダビデの王家の復興に戻る。この預言者の故郷はあくまでエルサレムのダビデ王朝である。このメシアは、地上の王とも言えるが、他方で現実を越えた理想の王でもある。このイメージはやがて、キリストの王的支配へと結びつけられる。しかし、その支配は、ここでイメージされている余りにダビデ的、地上的な王とは違い、かえって栄光は剥奪されている。もちろんこれは十字架上の死に関わる。しかし、それでもなお、ここに描かれているような、自然的世界も含めた現実世界が救済へと至る転換は、はっきりと受容されているのである。例えばその一つが、「復活」であるのは言うまでもない。
アドベントにちなみ、イザヤのメシア預言を見てきたが、ここに表明されている公平、正義、真実の意味とその実現である自然的世界の転換は、キリスト誕生の先ぶれとして、まことにふさわしいと言わねばならない。次週はついにメシアの誕生である。共に喜びたいと思う。