日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年12月21日
「私たちはキリストの誕生を忘れない」ルカによる福音書2章1~21節
 クリスマスおめでとうございます。せっかくの機会ですから、ぜひ隣や近くの方とも喜びのあいさつをいたしましょう。
 さて、本日の題は「私たちはキリストの誕生を忘れない」としました。この文の機能というか、働きは「誓い」です。私たちが本日教会に集まり、礼拝とお祝いをするのは、何のためかと考えますと、私たちが主と信じるイエスの誕生を思い起こすためです。思い起こすためには、それを覚えていなくてはなりません。つまり忘れずに取っておくことが前提です。しかし、イエスの誕生は、今の時代を生きている私たちの個人の記憶、各人の人生の体験の中にはありません。それは遠い昔のユダヤの北のガリラヤの一人の女性に起こった、一人の息子の誕生のことなので、彼を産んだ若いマリアさんだけが、自分の経験として想起することができるのです。さらに、マリアさんの人生を共にした父親のヨセフさんも息子誕生の喜びを体験したので、そのことを思い起こすことができるでしょう。では、私たちがイエスのことを思い起こすことできるのは何故か?それはイエスの物語を知り、彼の生涯において示され、また達成されたことが、私たちの救いの出来事であったことを深く感じ取り、彼の言葉と行いが信実であることを選んだゆえに、彼の誕生の思い出を自分の生涯の一部に組み入れた、つまり自分の体験であるかのように記憶したからなのです。ですから、この思い出、記憶がないのにイエス・キリストの誕生を祝うことはできません。そこには単なるから騒ぎがあるだけです。
さて、この出来事をうけて、私たちが「忘れない」と誓うのはなぜか?
 本日の聖書にあるように、私たちは若いマリアさんに起こった出来事を、ファンタジーを通じて経験し、彼女に起こったことは天使のお告げによる受胎の告知でした。これに先立って、ヨハネの父ザカリアにも天使のお告げあがり、年を取ったザカリア夫婦に子どもが生まれると言うのです。名前もあらかじめ決まっている。ヨハネ、ヤハウェは恵み、という名です。ところで、ヨハネの誕生は父親に告げられています。これに対し、イエスの誕生は母となるマリア、しかも非常に若く、男を知らない処女です。非常に対照的です。方や、老人に、方や若い女。しかし、両者とも、奇蹟的に子どもが与えられるのです。ルカのファンタジーは非常に周到で、いたるところに旧約の伝承を反映させ(例えばハンナの歌の援用、ヨハネの一族がアビヤ組の祭司の家系等々)、さらにイエスとヨハネを交互に登場させ、さまざまな事柄が微妙なずれを含みつつ、繋がりあっているのです。ヨハネの母エリサベトおばさんはマリアさんの親類になっていたりする。しかもマリアさんを「わたしの主のお母さま」(1章43節)などと、すでに将来の栄光の姿を見越して恐縮しているのです。
 さて、今日の聖書に含まれていないところで話していますが、もう一点だけ。天使はマリアさんに「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる」(1章32節)とあるが、ここの「いと高き方」とはアブラハムを祝福したサレム(エルサレム)の王メルキゼデクの神、エルヨーンのことだろう(創世記14章18、22節)。どちらの個所もギリシア語ではヒュプシストス(最も高きもの)であり、ルカはあきらかに、エルサレムの古代の神の名を想起することによって、アブラハムとダビデとイエスをつなげ、かつ崇高化している。つまり、ルカの物語では、イエスははっきりイスラエルの太祖アブラハムとダビデの王座を受け継ぐメシアになると決まっているのです。
 さて、本日の個所ですが、こちらはクリスマスにおいて最も大切な個所です。もはや何度も聞いたのではと思いますが、ルカはイエスの誕生をローマの皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令とつなげています。方や、世界帝国の皇帝、方やその皇帝の命令で仕方なく旅に出るガリラヤの田舎の夫婦。まったく取るに足らない若い二人の、これから生まれる子どものことが、実に際立つかたちで語られ始めます。そして産気づいたマリアさんはベツレヘムの町で宿も取れないまま、近くの馬小屋の飼い葉桶に男の子を産んだのでした。私たちは、第一に、このマリアさんの産気づいた姿を思い浮かべます。彼女の不安、これからどうなるのか、旅の途上なのに。言わば緊急避難として飼い葉桶に産んだ。そしてすべてはここから始まったのです。キリスト教の始まりはローマ皇帝の地位と全く対称的な、いや相互に対称となるところから始まった。命の神は小さいところ、もっとも小さきものにおいて、その主権を顕すといわれますが、それはこのイエスの誕生の場面を指すのです。もちろん、ルカはイエスの出来事が終わった後の時代の人間です。そしてマルコ伝も、あるいはパウロの活動も良く知っています。それでも、その伝承に不満だったのではないでしょうか。なぜならこの偉大なメシアの誕生の場面の姿がほとんどないからです。もちろんマタイにはありました。しかしそこにはマリアさんの気持ちはぜんぜん入っていません。ただ、外側から描いているにすぎません。だから、ルカは彼の思いを込めて、彼女に語らせ、彼女の思いを描写したのです。今年のエピファニー(公現日)の説教でお話したように、おそらくルカは全力を尽くしてこの誕生物語を書いたのでしょう。なぜか、それはこの物語を通して、イエスの出来事を記憶してもらうためです。そして時にはそれを思い出してほしいからです。そのために先程述べましたような、さまざまな「しかけ」を施したのです。
 さて、ルカにとってイエスの思い出はいろいろあったでしょう。しかし、いちばん大事なことは、このイエスから、新しい時が始まった、そして人々はもはや罪や穢れやこの世の煩いから解放されるのだ、それは新しい共同体、教会をつくることによって実現されるのだ、ということです。私たちはこのルカ(だけではありませんが)の精神を引き継ぎ、今この2014年のクリスマスを迎えています。そしてイエス・キリストの誕生を思い起こしています。それは、あらゆる困難や苦しみが最終的に神によって贖われることを信じる、このような幸福な共同体を、これからも未来に向かって守り伝えていく義務を確認するためなのです。そして、もちろん、今ここに集う人々が兄弟姉妹として座っているこの有難さ、幸福をともに分かち合うためです。
 だから、「わたしたちはキリストの誕生を忘れない」と誓うのです。
 もう一つ加えておきたい。
 このルカの物語では、マリアさんは良くみると、自分の子の誕生の意味が余り良くわかっていなように描かれています。これはおそらくルカの思いを反映させているのでしょう。マリアさんは受胎の告知の時はまず、そんなことはありえませんと主張する。もちろんその後「お言葉通り、この身になりますように」と言いますし、賛歌も歌っている。それでも、この誕生の最後の場面で、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2章19節)と書かれています。まだ、彼女はことの意味の大きさを知りません。その後のシメオンの話に接しても、彼の言葉にこの子の両親は驚いています(2章33節)。私はこれを読んで、イエスに限りませんが、親がこどもの誕生を喜ぶということだけでなく、そのこどもが、親が予想している姿をはるかに超えて偉大な者になるという、親以外の人々の想像や予期というものが実は大きな意味を持つと感じています。マリアさんは、天使のお告げもあったけれど、半信半疑である。しかし、かえって周りの人が気付いているのです。実は今でも、ユダヤの世界では、新たに誕生した子どもは、すべからく、メシアの可能性を持っているとみなして、だれであれ、こどもの誕生をこよなく喜ばしいことと受け止めると言われます。マリアさんはまだ、驚いているのですが、周りのユダヤの人々は本当に大きな期待をこのイエスに抱いていたのです。
 最後に、
 わたしたちは今日ここに集まり、イエス・キリストの誕生を忘れない、と誓います。なぜなら、この地上が続くかぎり、人々は喜びとともに、大きな困難や苦しみに出会うのですが、それでもなお、あのイエスの始まる救いの共同体、贖いの出来事が、必ずその困難を克服する道を与えてくれると確信するからです。
 今年2014年も間もなく終わります。今日を境に新しい年を思い、各人の課題や問題が乗り越えていけるよう、互いに力を合わせて参りたいと思う次第です。
 改めまして、クリスマスおめでとうございます。