日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2014年12月28日
「イエスの誕生―言葉は肉となった」ヨハネによる福音書1章1~18節
 このヨハネによる福音書の冒頭はロゴス賛歌と呼ばれている。これは有名なテキストで、元来ヨハネ福音書に独自のものではなく、広く流布していた賛歌かもしれないとも言われる。
 「はじめに言葉があった」これをめぐって様々な議論がある。言葉とはなにか?ギリシア語のロゴス。これは音声や書かれた文章、あるいは単語、文字、ではない。外に現れたものの背後にあって、外に出た者(もの)を支える力である。言葉とはつまり、目に見えたり聞こえたりする個々の単語や文を根本的に支えている、いわば文法体系のようなものかもしれない。つまりロゴスは意味を造り出す。
あるいは、ロゴスとは宇宙を支配している法則のようなものかもしれない。それは宇宙の動き、つまり自然の全過程を秩序づけている。
 ところで、ここでのロゴスは「神と共にあったとされ」、さらに「言葉は神であった」とされ、錯綜する。2節では「この言葉は、はじめに神と共にあった」とされ、1節の第二句を繰り返すかたちで、言葉がやや独立して存在することを主張する。3節には「万物は言葉によって成った」とあるので、言葉はやはり世界の一部ではなく、世界の起源であることが述べられている。このあたりはやや思弁的になるが、ロゴスは世界の創造の前にすでに創造者である神の非常に近くいる。ただし「いる」といっても、それはたとえば「ここに犬がいる」という文でいわれている「いる」とは違う。なぜなら犬はすでに世界の内部にいるのでロゴスによってつくられたものに過ぎないが、ロゴス自身は世界以前なので、普通の意味で「いる」というのではない。ここで考えられているロゴスは、世界の創造以前の状態である。これは非常に分かりにくいが、目に見える世界「以前」を考えようとする、いわば形而上学(メタフィジクス)的な思考であると言えるだろう。これは旧約聖書の創世記を念頭に置いているとは思うが、はるかに抽象的である。つまり具体的な「もの」が出てこないのだ。さらに「なったもので、言葉によらずになったものは何一つなかった」とあり、あらゆるものにはロゴスの力が及んでいる。4節には「命」が出る。言葉の内に命があったとされるが、これははじめからあったのだろか。それとも途中で存在し始めたのだろうか。しかし、この問い方が間違っているのである。なぜなら、言葉は世界以前からあるのだから、まだ時間そのものが始まっていない。したがって、命が「いつ」ロゴスの中に生まれたのかと問うことはできないのである。つまり、ロゴスと命の関係も永遠と見るべきだろう。しかしその次の文では「命は人間を照らす光であった」と言われ、この命は単なる生命体の持つ「時間」のことではなく、暗い人間を明るくする力である。その後に、「暗闇」に言及する。もはや、擬人化されている暗闇は「光を理解しなかった」とされている。非常に抽象的に言っているが、これはあくまで具体的な世界の事情を抽象的に言っているだけで、この闇とは、ありていに言えば、ローマに支配にされていたイスラエルの人々の苦難のことだろう。あるいはこのローマ支配そのものを闇と見ているのだろう。そして光はキリストである。問題はなぜここまで抽象化したのだろうかということだ。おそらく、この背後には具体的に書けない状況があるのだろう。なぜなら、ヨハネ福音書を書いた教会は、恐らくユダヤ戦争のあと、エルサレムからは追われ、他方ユダヤ教の集会からも追われ、さらにローマの支配からも追われていると思われるからだ。
他方、もっと積極的に考えるなら、ギリシア的思考によってキリストを捉えるという野心的試みかもしれない。わざわざギリシア語で書いているが、研究者によれば、かなり下手なギリシア語であるという。しかし、これによってヘレニストと呼ばれるギリシア世界のユダヤ人や異邦人、つまりユダヤ人以外のギリシア・ローマ世界の一般の人々にキリストの出来事を伝えることができたのである。
そのギリシア的思考では、絶対的で永遠なる者と相対的一時的な者の区別があり(二元論)、当然、絶対的な者が優位であり、他方は劣位である。おそらく当時のローマ世界では、非常に大きな潮流として、この現実的世界の不確かさのほうが強く意識されていたのではないか。地上にあるローマの偉大な文明世界の豊かさに反比例する形で、世界の矛盾も深まり、人間の精神も新たな世界理解と魂や体の本当の行方を知りたいと望んでいたのではないかと思われる。そしてそこに登場したユダヤのメシア運動の中で、一つの革新的な言葉が生み出された。それが贖罪と復活であろう。その革新的な中身をギリシア語で伝えたのが福音書であるが、それはまだユダヤ教の枠組みが濃厚に残されており、異邦人には近づきにくい。そこで、やや付け焼刃だが、ギリシア的な二元論風の論理でイエスの伝記を抽象化したのがこの福音書の冒頭の話であり、やがては初期のギリシア語で活動した教会教父(クレメンス、オリゲネスなど)に受け継がれたのである。
このメシア運動には、贖罪と復活を通して永遠の世界に入るという、いわば人生の問いへの回答が存在する。これを抽象的な論理と、アレゴリカルな物語で示したのがこのヨハネの福音書であろう。
さて、本文に戻るが、6節以下では具体的なお話しになる。バプテスマのヨハネの登場である。しかし彼も象徴化され、単に光について証しする者である。光の方は、まことの光と呼ばれ、同時に「言葉」ともいいかえられる(10節)。そして言葉と世が対立し、世は言葉を受け入れなかったという。これは明らかに、イエスの活動の抽象化で、イエスがユダヤの世界で対立し、排除されていく歩みをひとことで述べている。他方、この言葉を受けいれた人々とは、教会を形成した弟子や最初期の信徒のことであり、今あるヨハネの教会の人びとのことだ。しかもこの人々は、血、肉、欲、によって生まれたのではなく、神によって生まれたとされる(13節)。ここで言われる「生まれる」ということは、たとえであり、実際の誕生のことではなく、言葉を受けいれることで、新しい命を得た、つまりこの世にありながら、新しい生き方を始めたことを意味する。だから血、肉、欲ではないというだけのことであり、なにか禁欲的な、あるいは神秘的なことによって生まれるなどということを伝えようとしているのではない。つまり、信徒は新しい命の言葉で新しい命を生きるのである。だから重要なのは「言葉」である。
そこで14節以下の重要なテーゼが提示される。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。これが、ヨハネ伝の極限まで抽象化された「誕生物語」である。非常に殺風景だが、これがヨハネ伝のクリスマスであろう。
その後に、「わたしたちはその栄光を見た」とあり、さらに「父の独り子」とされ「恵みと真理にみちていた」とされる。独り子とは、当たり前だが、神が永遠である以上、子などあり得ないが、一歩で神が地上にあるためには神は人の形を取らざるを得ない。それは創世記の伝統を引きついでいるから。これはギリシア的世界でも理解できる。ギリシア的世界でも神々は人間と同形である。しかし、独り子であるとはなぜか?ここがユダヤ教の流れもあるが、他方で、永遠なるものが複数であることは矛盾である。複数あることは対立と抗争であり、価値の多様であり、真実を妨げる。真実、真理は完全であり、矛盾はあり得ない。だとするなら、神の全権を持つものとしての「子」は独りであらねばならない。こういう論理的必然が見える。
それでも、神と子という分裂はいかんともしがたいが、一応、永遠なるものが相対的な者になるには具体性が、つまり形がなくては駄目であり、したがって「子」として表現されるのである。しかし、やがてキリスト論の過程で、神と子は「本質」は同じである、と改めて決定されていく。もちろんそれで良い。そうでなくてはキリスト教それ自体が、分解してしまうから。このあたりの古代のキリスト論や三位一体論は実は非常に良くできている。これについてはまた改めてお話しします。
 15節ではヨハネが「わたしより先におられた」というが、これもアレゴリカルで、「先」にとは前にではなく、初めからいたという意味を含む。つまり世界の創造に先立ってということ。
 16節は自分たちの共同体、キリスト教の共同体の豊かさを確認するが、この豊かさの内容は具体的には示されない。ひたすら豊かさとか、恵みとかを繰り返すだけである。彼らはこのことを説明されなくてもわかっているのだ。それはおそらく、世界全体の矛盾を強く意識した人々が(そこには貧困、差別、病、不安、渇き、期待……がある)新しい命、光、言葉(これは具体的な言葉)を持ったこと、それによって全く新しい生き方をしていることの喜びであろう。彼らは、世にありながら、すでに世を越えた真理の世界に生きていることを実感していたのである。
 そしてそれは、すなわち恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたと言われる。さらに「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(18節)という。これは神話的表象だが、この表現によって後のキリスト教の自己表現が一部固まったのだろう。神の独り子、恵みと真理、こうしたキーワードがこれ以後のキリスト教を規定していくのである。
 さて、今日の話は言葉が肉となったという題ですが、新しい生き方、この世界において、その中にありながら、そこを越える生き方を実現する手段が「言葉」であるが、それはただの音や文字ではない。それはイエス・キリストという肉としての人間である。彼の生涯と十字架と復活とが「肉」で象徴される。それをいただくこと、つまりは彼に信実(忠実)であるこが、実は豊かさと恵みである。そして、それをはっきりと感じられるのが、この教会である、ということだ。
 ヨハネによる福音書は、いろいろと困難なテキストであるが、核心はそれほど難しくはない。この著者は、イエスの出来事を、非常に抽象的に語るが、これはこの方がわかりやすい人もいたこともあるが、他方、直接的に書けないという事情もある。ただ、わたしはそれ以上に、このテキストからはこの著者の信念の強さを感じとる。彼は、イエスの出来事を一時的な、あるいは相対的な、あるいはただのガリラヤの田舎の預言者の出来事ではなく、それどころか永遠の真理として、すでに存在してきたし、また存在し続ける神の「ロゴス」(「言葉」)と置き換えることで、あの田舎のイエスに現れた真理をより「高級な」ものとした。それは、ギリシア・ローマ世界の高級さをひとまず借りるしかない。そして曲がりなりにも、こうした物語―というより、説教集みたいなものだが―を書いた。それは非常に神秘的な感じで始まるが、実は決してそうではなく、あのイエスの出来事を極めて抽象化したものである(つまりできるだけ短い言葉で内容を全部表現する)。だから、その抽象化された言葉を、いわば「解凍」つまり氷を溶かすように読めば、たとえば今日の個所は、やはりクリスマスの、つまりキリストの誕生を祝うにふさわしい個所であることがわかるのです。
 わたしたちはこのような神秘的なテキストにやや翻弄されることもあるが、そうした傾向に惑わされたり、あるいは酔ったりするのではなく、ここに込められたイエスの出来事の本当の意味とそこから生まれた喜びと真理を自分たちのものとしなくてはなりません。つまり、この時代にあって、この共同体の喜びを実感し、またこの世にあってすでに世を越えていることの力強さを実感し、それを持って、世の苦しみを担わなくてはなりません。なぜなら、その「担うこと自体」がキリストを生きるということであり、それが喜びでもあるからです。そして、それが13節の終わりの句、「神によって生まれた」人々であるということの意味なのですから。