砧教会説教2015年1月4日
「創造と恵み」
創世記1章1節~2章4節前半
本日の聖書は多くの方がすでに何度も読んでできたものでしょう。それどころか、これは聖書に近づいた人が必ず読むだろう個所で、余りに多くの人の目と耳に触れた個所であり、人類の持つ文書の中で、恐らく最も読まれているものだと思います。
キリスト教徒はこれを聖書という前提で読むので、ある種の権威を帯びたテキストとして、極めて重々しく読み、また理解するのですが、その前提がない人々にとっては、このテキストは数ある創世神話の一つです。しかし、やはりそう単純なものではない。そこには相当な思いが込められていると見られる。今回はそれを少しだけ取り出してみたい。
さて、よくキリスト教では「無からの創造」と言われますが、それはかなり遅い時代の考え方で、旧約聖書の時代より、やや遅いくらいです。旧約続編にあるマカバイ記Ⅱの7章28節には、アンティオコス・エピファネス時代(前2世紀半ば)の想像を越えた弾圧の時代、ユダヤの闘士である7人の息子たちが拷問の末殺されていくなか、最後の子供に、その母が、この困難にひるまないよう諭す場面で語った言葉の中にひとこと、この無から創造という考えに近いものがあるとされます。残酷な拷問の前に、母はこう言います。「子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものを既にあったものから造られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知っておくれ。この死刑執行人を恐れてはなりません。喜んで死を受けいれなさい。そうすれば、憐れみによってわたしは、お前を兄たちと共に、神様から戻していただけるでしょう。」
「無からの創造」と言う考え方は、実は単なる理念ではありません。これは究極の信仰と言うべきものです。ですから、普通はこうした考えは理解できなくても仕方がない。無から創造というのは思考の果てにある、ある種矛盾した言説(命題)です。したがって、この個所をもう少し普通に読めば、なんとなく原料みたいなものはある、そもそも深淵があると言っているくらいですから、水というか液体は存在している。それに形を与える過程が、創造とみなされているように見えます。
これをもう少し整理して言えば、創造とは、よく言われるように「混沌」に「秩序」を与えると言うことになります。つまりは形のないものに形を与えることです。こうした考えはそれほど奇異なことではなく、現代の私たちにも理解できます。とするなら、このテキストの著者とわたしたちとはそう遠くいない。
しかし、次に出る光は違います。混沌とした世界の前に、あるいは先に光があると言うのです。これは混沌とは違う次元です。つまり世界以前のものである。これを後のヨハネ福音書はロゴス(言葉)とも呼びました。ヨハネはこの物語を正しく読み、世界とそれに先立つ者を分けたのです。そして先立つのは神であり、つぎの光もそうである。これらが世界(と歴史)以前のものです(これについては先週話しました)。ところでこの光を理解できないと感じるのは、わかりやすく言うと、本来、光は太陽や月、惑星、そしてその他の星のはずだからです。これが先に光の基として造られるのなら話は早いし、理解も自然です。しかし、その光とは違うものです。つまりこれは、くりかえしますが、世界の創造の前にある、世界そのものを浮かび上がらせる力にほかなりません。
この点で、この物語は他の創世神話とは違う、別の観点を含みます。つまり光は神の意思であり、それは世界を存立させる元であり、これは原料ではなく、素材でもなく、これ自体が恵みである、と言うことでしょう。もちろんそこまでは書かれていません。ただし、ひとこと「これを見て良しとされた」と書かれています。これはもしかしたら根源的な言葉かもしれません。光は「良い」「善なるもの」と言うわけです。そしてそれが行きわたらない場所は闇であり、それは言外に「悪い」と言うことを表明しているのかもしれません。
このように創世記のはじめの5節は非常に深く考え抜かれています。これは革新的なものだったでしょう。ただ、これを「無からの創造」というのはやや厳しい。それでも、世界には始まりがある、それもほぼ混沌からの出発である。改めて考えるに、創造というより、始まりと言った方がよいのではないか。
造る、産み出す、造り変える、形を与える、これらの行為のためには、ともかく始める意思がまず存在する。創造とは出発のことであると言えるでしょう。つまり世界に造られた者はそこにあるだけではなく、始まったのです。始まったということは、命を持つということです。なぜなら、始まることの意味は、動き出すということだからです。さらに「始まる」という自動詞は、あらゆる動作を総合する。そしてその他動詞「始める」は、あらゆる動詞の補助動詞となる。それは日本語でも欧米語でも同じです。そしてそれは全て、「良い」とされる。これは神の評価ですが、それも自己評価ですが、世界は善なるものとして始まったのである。しかし、世界自身は、あるいは人間自身は、必ずしもそう評価しない。それどころか、苦難がたくさんある、矛盾、破壊、死、病、飢饉、戦争、災害……。つまり、世界は良くない、世界は厳しい、悪い、価値がない、意味がない、……。
創世記の冒頭の著者はそのことをひとことで、トーフーワボーフーと言う、つまり地は「混沌であって」という。そして、そこから創造が生じた。いやそこから世界は始まったと言うのです。もうお分かりでしょう。このテキストは、単なる世界創造の神話、あるいは思弁ではなく、人間が置かれている世界の現実への評価、すなわち苦難、戦争、不自由、奴隷状態などの絶望が、全く違う局面へと転換することを主張しているのです。もっとわかりやすく言えば、世界の創造とは混沌からの解放、あるいは救いと言うことです。そしてここで言われる「良い」という評価は、創造された世界は恵みを受けたということを意味する。とするなら、創造と恵みは一体と言うことになるのです。
このように、この旧約聖書の冒頭に隠された理念、あるいは創造に重ねられた思想は、解放と救い、つまり「恵み」なのです。わたしたちはそのことを14節から確認します。ここには太陽、月、星といった天体が、ずいぶんと遅れて造られたことが報告されています。もちろんこれは意図的です。全オリエント世界において、これらは神です。つまり創造者に準ずる。しかもこの神々はそれぞれの人間の権力と深く結び付いている。そうした権力は、しかし、全く二次的であり、草木よりも遅い。つまり神ではなく、単に造られたものであり、支配されるものである。これは、かつてのエジプト、そしてこの著者が経験しているバビロンの神々であるが、我々はこれらの支配のもとにあるのではないことを明確に主張している。したがって、この物語の姿勢には、現にある世界の在り方への批判がある。しかし、現にある世界では、太陽や月は神であり、それと直結する(子であるとか養子である)権力ある人間も神ないし神に準じる者である以上、そして彼らが現に人間の世界で人間を支配している以上、簡単にあらがうことはできない。それでも、それとは違う世界を構想することはできる。それがこの14節である。つまりわたしたちが考える神とはこれらのもではない、つまり天をぐるぐるまわっている、くりかえしているものではまったくないのであり、むしろそうした循環を断ち切る、あるいはそれらの力によって混沌としている世界に光を与え、新たな形を創造する者、すなわち新たな世界を出発させる者のことである。おそらくこの物語の背景にあるバビロン捕囚にあるのひとりの思想家は、世界の歴史に対し、全く別の歴史観を対置した。つまり、今ある世界、権力が後退しては生じ、生じては滅びる世界から、あらゆるものが完成し、創造者を賛美しうる世界へ。そこには自由と平和と安全がある。それを著者はこの1章から2章4節前半において主張した。すると、これは創造ないし始まりの物語に見えるが、他方で終末論的な世界像とも言える。つまり創世記冒頭の著者は世界の始まりを描きながら、世界の完成を描いているのである。それが六日間の創造の業の後に続く、神の休息と言う思想である。この著者が意図したのかそうでないかはわからないが、彼は創造ないし始まりを描く中で、同時にそれが解放と救い、すなわち恵みであることを描きながら、その物語を世界史それ自体の簡略版として書いたのではないか?この物語は始まりを描きながら、終りを描いている。つまり、世界の完成を描いている。これは旧約聖書の思想全体の縮図でさえある。
世界とは創造されて始まり、ついに完成する。その間の曲折よりも、それ以前の曲折(混沌)を強く意識しながら、今ある現実の混沌を乗り越えていく意思。それがこの物語のエンジンである。それはやがて、はじめに述べたあのアンティオコス・エピファネスの迫害において一人の母が語った言葉へと通じていく。つまりいかなる迫害においてであれ、それは神の創造の自由、すなわち新しい始まりを妨げることはない。すでにあるものから世界は成ったのではなく、すでにあるものを越えて始まるのが創造であるからだ。そしてそれこそが恵みであり、救いなのだから。それを信じきるのがあの母の言葉であった。
ただし、マカバイ記の物語は他方で極めて民族主義的で、殉教の礼賛ともなり、極めて危険なテキストである。なぜなら、そこには抵抗の思想を装った自力救済、すなわち戦争的メシアの優位性が主張されているからだ。したがってそこには神の支配への本質的な謙虚さに欠けている。だからこそ、旧約の正典(カノン)には入らなかったのだろう。
これに対し創世記はどうか。もっと素朴な気もする。しかし、先程述べたように非常に手の込んだ物語である。しかし、そこには明るさがある。それは希望の光とも言うべき、原初の光が最初にあるからだろう。もう一度も冒頭に戻るが、地上世界以前に存在する光は、世界内部にある二次的な光(太陽、月など)よりも本質的である。そしてそれは人間を根源的に照らしているのだろう。創世記の著者は彼の読者を越えて、今なお、現実世界において苦しみ、悩む者に、新しい始まりの可能性を告げる。つまり世界は反復ではない。混沌でもない。新たに始まったのだということ。その始まり自体が永遠であること。そしてそれは恵みであること。さらに、わたしたちが生きていること自体が創造であり、始まりであること、それゆえ、すでに恵みをうけているということ。
つまり、創造と恵みはいまここにおいて生じていることと言えるかもしれません。