砧教会説教2015年1月11日
「イエスの弟子になることとは?」
列王記上19章19~21節、ルカによる福音書5章1~11節
本日は弟子になることの意味について少し掘り下げて考えて見たい。
先月末から今月の初めまで、イラスト版の聖書翻案(仮題)の翻訳をしている中、エリヤとエリシャの関係についての記述があり、そこには興味深いことが書かれていた。エリシャはエリヤの弟子であり、やがて前9世紀のイスラエルの政治に大きな影響を与えることになる人物である。昨年の説教で、福音書はエリヤ伝を元に書かれていると申しましたが、正確にはエリヤ・エリシャ伝を元にというべきでした。ところで、何が興味深かったと言うと、本日の聖書の個所であるエリシャの決断と家族のとの別れの場面の解説です。私はかつてこのあたりをかなり丁寧に読んだ記憶があるのですが、あくまでエリヤに焦点を当てていたので、それほど深く考えなかったのです。しかし、ここにはエリシャがエリヤの弟子となるにあたって、家族を捨てて全く違う世界、つまり預言者として生きるために、どのような儀式が行われたかが書かれているのです。そのことが印象的に指摘されていたわけです。
聖書にはエリシャが農民としてアベル・メホラの村で牛を12軛つまり24頭飼っていた、おそらく大きな農家の青年のごとくに描いている。アベル・メホラはイズレエルの肥沃な農業地域だったらしい。その彼が畑を耕しているところをエリヤが通りかかり、自分の外套を投げかけたという。するとエリシャは全てを察して、エリヤの弟子となる決断をした。牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。……」と声をかけると、エリヤは非常にそっけなく、どうぞご自由に、わたしがそもそも何をしたというか、と非常にそっけない。つまり、エリヤは弟子にするともしないとも言っていない。ただ、外套を投げるという象徴行為らしきことをしたに過ぎない。むしろ、エリシャとの出会いをことさらに重く見ようとはしていない。ここが良くわからないところだが、すでに16節ですでにエリシャに油を注ぎ、預言者とせよと書かれているので、流れとしてはエリシャが預言者としてエリヤを継ぐことが決まっている。それなのにエリヤはそっけない。これはエリヤがエリシャを試しているのかもしれない。
紀元前10~9世紀のイスラエルの宗教的人間、特に預言者団とされる特別の職能集団は、列王記の記述では、巡回する托鉢の集団のように描かれる。つまり、顧客(クライアント)の依頼にそれなりの報酬を得て神の託宣を告げるのである。ただ、エリヤ自身は単独の預言者として描かれ、理想化されている。それでも、列王記上17―18章を見ると「主の預言者団」がアハブとイゼベルによって弾圧されたとあるので、エリヤもそのメンバーの一人であったと見られる。
ところで、21節でエリシャは家族その他の人々と送別の儀式を開いている。この儀式を通して、エリシャは家族集団と離別し、農民から全く別の世界へと入っていく。しかも、自分の牛の装具を燃やして肉を煮るという実に印象的な描写があり、ここにはもはや農耕の世界に戻らない覚悟が表明されている。一種の出家である。この儀式の後、エリシャはエリヤに従ったとされる。
つまり、預言者団に入るには、本人の決意の後であるとはいえ、家族の同意がある。この同意を経て、預言者団の一員になるが、最初は実はそっけないもので、それらしいものとしてほのめかされるが、それ以上に配慮されることはない。本日は読んでいないが、列王記下2章でエリヤが天に昇るという物語においてエリシャがエリヤに対し、エリヤの霊の二つの分を要求した。これはいわゆる長子相続権と同じであり、エリシャがエリヤの正統な後継者であることを求めている。そしてそれが実現したとされる。こうした権威の委譲は新約では、イエスが天国の鍵をペテロに授ける場面が相当する。
では、新約では、弟子になる場面はどのように描かれるか?本日のルカの物語は、イエスがガリラヤ湖畔で説教し始める場面で始まる。群衆が岸辺に大勢いるため、やむを得ず船に乗ってその上から岸に向かって説教する。その後、シモンに「沖に漕ぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と命じる。その後大漁となり、船が沈みそうになると、シモン・ペテロは恐れ、自分が罪深い者であるという。この罪深さの意味は、にわかにはわからないが、自分たちがユダヤのラビからみたら周辺的で、律法を必ずしも遵守していない者であることを自己卑下している言葉であるといえよう。
この後に、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を獲る漁師になる」とイエスが語ると、「彼らは船を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とされる。そしてこれ以上何も書かれていない。これは何を意味するか?エリシャの場合、いったん家族のもとに戻り、別れの儀式をして、その後にエリヤに従う。ここではそうした儀式がない。いきなりイエスについていく。この決然とした振舞いは、イエスの吸引力が非常に強かったと言えるかもしれないが、そもそも、イエスの周りに集まった人々にとって家族などの確固とした共同体が維持されていたのかどうか疑問もある。つまり、そうした共同体と「別れる」という特別な儀式を必要とするほどのつながりがない、あるいはそうしたつながりを捨てることをかえって望んでいたのかもしれない。例えば、この後に出る(5章27節以下)レビの弟子入りの記事では、やはり「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とされ、何とその後にイエスのための宴会をしている。もちろんこれを別れの儀式と見ることもできるが、むしろ彼の決然とした姿が明瞭である。
要するにイエスの弟子たちは、漁師や徴税人など、周辺的、場合によっては被差別的な人々であり、ある意味ではこれまでの自分たちの世界を離脱し、新しい何かを望んでいた。ただ、それが何かはわからなかった。しかし、イエスに出会ってそれがわかった。そして「すべてを捨てて」イエスに従う。つまりかれらは「賭けた」のである。
これに対して、エリシャの場合、すでに知られている権威としてのエリヤの弟子になることは、農業の共同体からは離れることになるものの、別の共同体、しかも社会的に認知された集団に入るという、現にある社会の中での「移動」である。
イエスの集団は、エリシャのような預言者団ではない。イエスは、ヨハネの弟子筋として出発はしたが、もちろん職業的預言者ではない。彼は新しい活動家であり、メシア運動家であって、認知されている権威などない。だから全く別の、ただ神にのみ信頼し、その権威だけを自らに帯びているメシア(もちろん自覚していたかどうかは別だが)であり、弟子たちはただそのことに心を大きく奮わされ、「何もかも捨て」たのである。そこにはエリシャのような思惑はない。つまり預言者という社会的職能集団で生きるという思惑である。当然エリシャも、エリヤの権威に感動したに違いない。しかし、イエスの弟子になることとは違う。
イエスの弟子になることとは、社会の中での「移動」ではなく、社会自体からの「離脱」であり、新しい何かをつくる運動への参加である。それがやがて教会の基となる。しかもそれは預言者的職能集団という特殊なものではなく、もっと広がりがある。
私たちは弟子となることの両者の違いをどう見るべきだろうか?私たちは教会に来る、教会員になることは、エリシャのように、ある権威のある、社会的に認知された集団への移動なのか、そうした権威(つまり歴史的に西欧から来た高級な宗教として)とは関わりない、全く新しいメシア運動としてのあのイエスの運動にすべてを捨てて「離脱」していくことなのか、どちらだろうか?おそらく両面あるだろう。しかし、わたしはより本質的なのは後者だと思う。もちろん、私たちは現実には伝統的で普通の共同体(家族、地域、学校、職場)の中にいるのであり、あの弟子たちのような決然とした離脱は、カトリックの修道者、修道女のような形以外はほとんどない。それでも、本質的にはあのイエスにすべてを捨てて従ったあの弟子たちの心意気が本筋であろう。そこには、あらかじめ存在している安心や安全、幸福があるわけではない。ただ、そこには絶対的な希望と救済がある(らしい)。そして新しい共同体、共に分かち合い、共に喜び共に悲しむ共同体をつくるという課題がある。それはもちろん未来的な事柄だが、キリストの弟子になるということの本質は、もしかするとこの未来的であること自体にあるのかもしれない。というのも、多くの人々にとって未来とはすでに決まっているものだからだ。それは、貧者は貧者になり、障碍を負ったものはそのままひたすら施しを待つだけであり、女はいわば第二の性としてひたすら男に支配され、全体として民衆は権威と権力ある者の庇護と従属の内に生きる。言い換えれば、そこには循環と反復あるいは、要素や登場人物は違っても全く同じシナリオだけがある。
こうした予め決まった生き方、同じシナリオを突き破るのが、イエスの弟子となるということ、つまり全く新しい未来を生き始めるということである。
それゆえ、イエスの弟子になること、それは普通の生活とは当然異なり、不安も恐怖もあるが、それは救いである。なぜなら、それは矛盾に満ちた世界の中にありつつも、それを乗り越えた世界を生きることを可能にするからだ。つまりは、神の国は今ここで起こっているのである。