砧教会説教2015年1月18日
「涙で足をぬらす」
ルカによる福音書7章36~50節
この物語を読んで皆さんは何を感じただろうか。
私は、ここに登場する「罪深い女」とだけ呼ばれる匿名の女性の深い悲しみと生きていく上での苦しみを想像する。この物語には、ルカ特有と思える、対照の際立つ場面が描かれている。まずファリサイ派の人の家に招かれたイエスがいる。そして食事をとろうとしている。するとイエスがいることを聞きつけた町の一人の「罪深い女」が香油の壺を持って現れる。ユダヤの律法を遵守して生きることをモットーとするファリサイ派の人にとって、このような「罪深い女」がこの席に来ることは論外であり、穢れたことである。ところが、この女性はなんと、イエスの足を涙で濡らしながら、自分の髪でぬぐい、その足に接吻し、持ってきた香油を塗ったのである(37―39節)。
この場面を読むたび、私は余りに異様な光景だと感じてきた。もちろん当時は、旅の途中、どこかに宿をとったり一休みしたりする際に、足を洗うということはあった(これは日本でも同じ)。また、イエスは自分の最期が近づく中、弟子たちの足を洗ったとされている(ヨハネ伝13章)。これはきわめて象徴的な行為であった。もはやイエスは弟子と同じ水準に立つ事の証しであり、権威も受け継がれていることの証しでもある。他方、女性が一心にイエスに尽くす姿は、ベタニアでひとりの女がイエスに高価な油を注いだことや(マタ14章3節以下、マタ26章6―13節、ヨハ12章1―6節)、ルカ10章38節以下のイエスに集中するマルタの態度にも示唆されている。しかし、ここでの彼女の行為は、やはり余りに異様な気がする。なぜなら、イエスの足をぬらすほどの涙を流していること、それを何らかの布ではなく、自分の髪の毛でぬぐうのだから。これは私たちの感覚では、この光景は、奇妙である以上に、ひどくエロティックでさえある。
これを見ている家の主のファリサイ派の男は、特段不思議がっていない。それどころか、こうした穢れた人が家に押し掛けていること自体については、意に介していない。それより、この女性がイエスにまとわりついているのに、なすがままにさせているイエスを訝る。つまり、この町では、こうした「罪深い女」がうろついていることは必ずしもあり得ない風景ではないのであり、かりにそうした女が家にやってきたところで、驚くほどのことではないのである。とするなら、この女性の行動は何を示すのだろうか。
まず浮かぶのはイエスのうわさを聞きつけてやってきた「罪深い女」と見るものだ。したがって彼女の本当の救いはまだ始まっていない。それゆえ、これは何とかしてほしいという懇願の涙であるのかもしれない。しかし、これは違うと思う。なぜなら、46節で「この人が多くの罪を赦されたことは……」とあり、赦された(つまりは救われた)ことは、文脈上前提されているからだ。やはり、この女はすでにイエスを知っていると見るべきだろう。では、この涙はどんな涙だろうか?
思うに、この涙は悲しみと嬉しさの入り混じった涙である。おそらくこの女はすでにイエスに会ったことがあり、イエスもそれを当然覚えている。なぜ泣くかと言えば、イエスが、彼女の隣人になったからだろう。この隣人という主題については、次週機を改めて考えたいが、要するに彼女はイエスによって救われたのだろう。その救いの中身は明らかでないが、この「罪深い女」の罪が一般に想定されているように、売春婦としての穢れであるなら、そうした不浄さを罪としない、それどころか、彼女を不浄だなどと決めつけつつ、結局利用している人々や社会(宗教制度)の方が罪深いのだと喝破したイエスによって別な人生を見出した女なのではないだろうか。この想定の根拠は、言うまでもなく、ヨハネ伝の8章に描かれた、姦淫の現場から引きずり出され、石で打ち殺されそうになった女の物語である。しかし、こうした根拠をわざわざ示す必要もなく、イエスが隣人となる姿、すなわち繭を破り、殻を破り、深い熱情を持って、時に激情にかられながら、痛みの現場へと赴くイエスの様々な活動から、当然想定して良いだろう。
するとこの涙は、今初めてあの偉大なイエスに会えたからというのではなく、以前のことを思い出し、再会できた嬉しさを全身で表現した時、あふれるほどの涙となってイエスの足をぬらし、やがてイエスの足を清めるほどとなったのである。
それでも、涙で足ぬらし、それを自らの髪でぬぐう光景は、確かにいささか異常である。なんだか汚らしい気もする。しかし、これはそう感じるべきものではないのである。これは、おそらく当時の社会の中で底辺に落ちた一人の女性の困難の厳しさを象徴するものであり、さらに言えば、その困難にある女性たちの悲しみの涙とイエスに出会ったことの嬉しさの涙の総計なのである。これはいかにもルカらしい。以前にも何度が申し上げたように、これもまたファンタジーなのである。これは断じて気持ち悪かったり、異様であったりするのでない。この女の涙は、この女に代表されるあの時代の売春婦たちの屈辱と怒りと恐怖と絶望の涙である。そして同時にこのイエスのもとで辛うじて見出した希望に対する、嬉し涙である。そう、デフォルメされた悲しみと喜びの光景なのである。
しかし、私はもう少し加えて解釈したい。この女の涙はイエスの死を予期した涙ではないかということである。ルカはマルコの13章に記されたベタニアの香油を注ぐ女の話を用いて、この物語を創作したのかもしれない。とすると、ベタニアでのイエスのへの油注ぎが、メシアとしてのものであると同時に、葬りの準備でもあったように、こちらの物語も、イエスに対する涙による洗足と、その後の香油を塗る行為は、やはりイエスの将来の死を予想し、嘆く涙と言えるのではないか。これはややうがちすぎかもしれないが。
ところで、この後に続くファリサイ派の男の反応は「この人〔イエス〕が預言者なら」この女がどんな女かわかるはずだと思った、というものである。登場人物の内面を語るルカは、もはや完全にお話しとして書いている。するとイエスは思いを見透かして、この男に問いを吹っ掛ける。500デナリオン借金した人と50デナリオン(デナリオンは1日分の賃金)借金した人がいて、やがて貸し手は彼らの窮状を知り、その借金を帳消しにしてやったという。その時どっちが金貸しを多く愛するかと、いささか芳しくない譬えを出す。当然、主であるシモンは額の大きい方だと言う。これに対し、イエスは「この人をみないか。私が家にはいったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。……」と、シモンと女を比較する。罪の許しの大きさが大きいほど、許した者への愛が大きいと言う。つまり罪の大きな女を赦す寛大さに比例するもてなしをしている、というわけである。逆に罪の小さなファリサイ派を赦す寛大さはもてなしも少なくなる。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)とは、言い得て妙である。赦されることの少ない者とは、ファリサイ派のように律法に忠実である者のことで、彼らは品行方正に生きているので罪は少ない。よって罪の赦しは最小限となる。これはこれで良いことだ。一方、愛することも少ない、とは何を意味するか?
おそらくこういうことだ。極論すれば、品行方正であることは自分で自分を救っているので、他を必要としない。そして、人にも同じように要求するだろう。その要求に応えることのできない人は(この物語では「罪深い女」)、ダメな人、罪人とみなされていく。だからそこには愛がない。しかし、ルカにとって愛とは、ある種の破れ、限界、病やその結果としての貧困、差別で苦しむ者にこそ逆説的に生じる。困難な経験をした人ほど、愛は深まる可能性がある。もちろんそこには、これらの世の苦しみを乗り越えられず、煩悶し、嘆きの中に居続ける人もいたに違いない。それどころか、世を呪い、憎み、世に対し無差別に反抗し、世を破壊する者に変貌することもあるだろう。だから愛を示すことができる人は、厳しさの中に在りながらも、救いの在りかに気がついた人々のことだ。いや、正確に言えば、その在りかを望む、あるいは求め続けた人々のことだ。そして、その救いの在りかが、イエスであった。だからこの女は涙で足をぬらし、洗ったのである。
そしてイエスは女に「あなたの罪は赦された」というが、ファリサイ派の男も客もこの発言を非常に訝る。不遜だ、いや権威ある者だ、などと。最後にイエスは、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言う。
ここであらためて問わなければならない。「救った」とあるが、実際にどうなったか?仮に売春婦だったとして、その救いの具体的姿は何だろうか?病気が治ったような奇蹟ではない。いったいこの女はどうなったのだろう.
おそらく、彼女は売春の仕事から足を洗ったであろう。救ったということの具体的な姿は、これまでの生き方を変えた、あるいは捨てたということであり、一方で、蔑まれ、差別され、自らを恥ずべき者として小さくなっていた在り方から、自ら神に信実となり、神にのみ自らを向け、世間の評判や価値の一切をかなぐり捨てた。これが最後の文句、「あなたの信仰があなたを救った」(50節)ということの具体像である。信仰によって救われるとは、それ以外の価値から自由になることである。はるか後に、マルティン・ルターは『キリスト者の自由』を書くが、その言いたいことは、まさにこのことである。この救われた女こそ、「自由」である。罪の奴隷であった(正確には言えば、人間同士の間でそう決めつけられていた)者が、神の奴隷となることで、この世から自由になる。おそらく、彼女はこれまでの生き方を全部捨てて、やがてイエスに従って、新しい共同体に参加したのではあるまいか。すでに彼女には頼るべき家族はなかったか、崩壊していたであろうから。
もちろんこれは想像に過ぎない。しかし、救いは現実的な形をとらなければ、不十分である。イエスは最後に「安心して行きなさい」という。いったいどこへ行くのか。ルカはこれ以上書いていないかに見えるが、違う。今日の個所に含まれていないが、それが、8章の冒頭の記事である。彼女も含めた複数の女性たちが新しい共同体を形成していたのである。わたしはここに、あの「罪深い女」が、かすかながらも微笑みを取り戻している姿を幻に見る。