日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年1月25日
「あなたにとっての隣人とは誰か」ルカによる福音書第10章25~37節
 「善いサマリア人」の話として知られるこの例え話は、必ずしも意味が明瞭というわけではない。
もちろん、ここでイエスが伝えようとする中身は明瞭である。追剥にあって半殺しにされた旅人を、自分の痛みのように感じて助けた人のように、あなたも自分とは直接関係ないように見える赤の他人でも、その人が苦難にあっていたのなら、自分の苦しみに置き換えて、その苦難を取り除く努力をせよということ。それ以外にはありません。
 しかし、この話には前段がある。それは律法の専門家(以下では「律法学者」とする)がイエスを試そうとして問答する場面である。律法学者は「永遠の命を受け継ぐ」ために何をすべきかを尋ねる。これに対してイエスは逆に問うている。すなわち「律法に何と書いてあるか」と。これに対して彼は律法学者らしく申命記6章5節やレビ記19章18節を引用しながら「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた。イエスはそれを正しいと認め、その命令を実行するように言う。すると、この律法学者は「自分を正当化しようとして」逆にイエスに問う。「では、わたしの隣人とはだれですか」と。
 「正当化しようとする」とは、何か。おそらくこの律法学者はこうした生き方を当然してきたのであり、かれにとって隣人は明らかである。つまり、自分の仲間のユダヤ人、律法に忠実な人々のことである。だからイエスにもそれを確認するように問うたのだろう。この律法学者はイエスもそれを承認するはずだ、と考えたのである。
 しかし、イエスは逆に問い始める。旅の途中で追剥に会った旅人を、通りがかりの人がどう扱ったかという場面を想起させ、誰が隣人となったかと問うのである。
 ここでひとつ気になる点は、隣人という言葉である。まず、この律法学者の言葉の後半、レビ記19章18節後半では「自分自身を愛するように隣人(レアカ〔カは2人章接尾辞〕)を愛しなさい」とあるが、この「隣人」と訳されるレアというヘブライ語は、第一義は「友、仲間、同胞」の意味であり、「隣人」という言葉が喚起する意味とは、ズレている。しかし、ギリシア語もそれに基づくその他の訳もたいていこの「隣人」という言葉に訳す(plesion〔ギ〕、nachster〔独〕、neighbor〔英〕)。ただし、2011年に合本となったフランシスコ会聖書研究所の訳を見ると、この個所に先立つ13節の「あなたは隣人を虐げてはならない」(新共同訳)のところを、「お前の友を虐げてはならない」と訳し、18節は「隣人」と訳す。これは意図があるに違いないが、友と隣人ではニュアンスは大きく異なる。同じ章(しかも、まとまった法律集)で同じ単語を別に訳すには相当な理由があるはずだが説明は無い。岩波版の山我哲雄訳は両個所とも「隣人」であるが、19節の「愛しなさい」の訳語を「友愛をもって接しなさい」と訳し、こちらに「友」の感覚を加えている。皆、苦労しながら訳していることがわかる。
 隣人というやや価値中立的な言葉に対して、「友」を充てるのはずいぶんと違うが、おそらくこのルカの話にでる律法学者の言う「レア」は、明らかにユダヤ同胞、特に律法を毅然と守る仲間たちであり、彼らにとって愛の対象は、はっきりとした輪郭があるのだ。それをわきまえている者として、イエスに問うのである。君もユダヤの同胞なら、当然同意するだろうね、と。
 これに対してイエスは例え話で応える。ところでこの話の論点は何だろうか。第一に、冒頭で述べたように、困っている人を助けることが大切ということにまとめるだけで、十分であるとも言える。しかし、問いは「わたしの隣人とは誰ですか」(29節)への問いへの答えとはなっていない。イエスは婉曲的に応えるが、要するに隣人とは困っている人を助ける人のことである。ということだ。
 つまり、イエスにとって、隣人とは初めから明らかなのではない。はっきりとした輪郭があるのでもない。単に隣りにいる人でもない。ましてや友や同胞でもない。隣人とはそこにあるものではなく、時と場合において「なる」ものであるということだ。つまり隣人は常に同じ間柄であるというものではない。イエスは隣人となることを勧めているのであって、同胞、友、隣近所という前提を取り払うことを求めているとも言える。それゆえ、イエスは最後にこう問うている。「さて、あなたはこの3人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか」。すると、律法学者は「その人を助けた人です」と真っ当な答えを出す。当然と言えば当然だが、最初この律法学者は自分を正当化しようとしたのだった。しかし今や、自分の考える限定された意味での隣人とは別の答えにたどり着いたのである。
 しかしこの話でもう一つ注意しなくてはならい点がある。それはこの物語が「善いサマリア人」と題されて、多くに人々の知られているように、この善行を行ったのが立派なユダヤ人ではなく、サマリア人であったとされている点だ。聖書に初めて触れた人は、このサマリア人という言葉の持つ差別性がわかりにくい。新約聖書の背景に親しんだ方は、当時のユダヤではサマリア人はユダヤ人とは区別された、別な慣習と宗教をもった集団であり、それだけでなく、ユダヤ教徒が偉く、サマリア人は劣っていると考えられていたと学んだであろう。それなのに、わざわざサマリア人を出すことの意味は何か?私はこれが良くわからなかった。要するに困った人を助けた人が真の意味で「隣人となった」ということだけなら、この例え話は必要ない。しかしながら、ここでは要するにサマリア人の方が偉いと言っている感じもある。つまり比較されている通りすがりの二人は「祭司」と「レビ人」であるが、これら律法に忠実であるはずの二人が、隣人となることの意味を知らず、サマリア人の男がそれを知っているという対比である。これを読む私たち自身も、祭司やレビ人はダメな人々で、サマリア人が立派な人だと勘違いする恐れがある。現に、祭司やレビ人といったユダヤの律法に忠実な人々が、半死半生のけが人を見て見ぬふりをして通り過ぎていると語られているのだから。
 しかし、もちろんこれはサマリア人が立派であるということを言っているのではない。助けた人が立派なだけである。そしてだれであれ、通り過ぎてしまった人は愛の無い人であるというだけだ。とすると、ここにはあえて祭司やレビ人を悪者にする意図があると思われる。それは隣人(レア)を同胞や友、ユダヤ教徒に限定するかに見える彼らに対する批判であろう。ただし、このテキストではこの追剥に会った人がどんな出自であるかは語られない。したがって、祭司やレビ人がこの人を助けなかったのは、この人が同胞であるなしとは関係ない。単に関わるのがいやだったからにすぎない。それでも、ここにわざわざ祭司とレビ人を比較に出すのはなぜか。よくわからない。
 これに対し、答えの糸口になるのは、ルカ福音書単独でなく、使徒言行録と一体として読むことである。実のところ、原始キリスト教は、エルサレム中心のユダヤ教からは排斥されたのである。もちろんイエスが十字架に架けられたのだから当然と言えばその通りだが、実際にはエルサレムにはイエスの共同体(教会)があった。しかしそれはステファノの殉教(使徒7章54節―8章1節)後、エルサレムからは追われて、サマリアやその他のユダヤ地域に散ったとされている。しかも、その後の記事では、サマリアで福音が受容されたとされるのである(使徒8章4―25節)。つまり、原始教団はエルサレムのユダヤ教の体制からは迫害され、かえってそれとは対立関係にあるサマリアで受け入れられたのである。このことを念頭に置くと、このルカ福音書の物語で、どうしてわざわざサマリア人が助け、ユダヤの祭司たちが見て見ぬふりをして通り過ぎたのかの理由がはっきりとわかる気がするのだ。
 もちろんこの物語がイエス自身の言葉を伝えている可能性は高いと思う。律法学者のもっともらしい発言に対し、隣人の枠を決めつけるなという意味で、この追剥を助けた男の話をしたのは確かだろう。そして、その律法学者も、正しい答えを告げ、彼自身も隣人となることの意味を了解し、枠づけられてしまったレア(隣人、友、仲間)という言葉を、広く助けを求めている人と理解したのは新たな成果であり、宗教やそれに基づく慣習や枠を突破していくイエスの姿を実に生き生きと伝えている。
 しかし、サマリア人が真っ当で祭司やレビ人が真っ当ではないとする強調は、やはり、後の時代の思惑が働いている気がする。それは、エルサレムの祭司、レビ人といった体制が決してサマリア人を受容せず、他方、新しく産まれたキリスト教は、もちろん全部ではないにせよ、サマリア人に受容されたことを念頭に、助けたこと自体の大切さよりも、サマリア人が助けたことに力点を移しているように見え、同時に祭司やレビ人を情けない人間として描くことに腐心しているように見えるのである。
 要するに、ルカ福音書を読むだけでは、この物語の真意は伝わらないのである。この点で、総説新約聖書でルカ福音書を担当した加藤隆氏は、使徒言行録とルカ伝の担当を分けたことをわざわざ本文で批判しているが、(やり過ぎの感もあるが)もっともなことだ。また、最近の田川建三氏の『新約聖書 訳と註2上 ルカ福音書』でもこれを福音書として理解するべきではなく、使徒言行録と合わせて最初の『キリスト教史』と見るべきと言っている。
 私たちは知らず知らずにある特定の見方や考え方に囚われてしまう。そしてそこに潜む様々な問題点や危険性に気がつかないことがある。それは新約聖書を読むことにおいても当然、当てはまる。もし、本日のテキストでも、祭司やレビ人が一方的に情けない連中で、サマリア人が立派であると読むなら、それはやはり危ういことである。そして、その物語の真意がそこにないことはたしかに明らかである。
 にもかかわらず、単純な対比はやがてユダヤ教正統派への敵意や差別へと繋がっていくであろう。そして歴史も文化も違う世界でこれが読まれる時、そうした誤読はさらに厄介なこと生むであろう。
 私たちは、こうしたルカ文書に含まれるある種の意図的なものを丁寧に捕らえていく必要があると思う。聖書は「聖」とされているがゆえに、明らかにおかしい所さえ適当に合理化されて読まれたりするが、私たちは、たとえば今日のエピソードも、イエスが本来意図したであろうことに耳を澄ますことを心掛けていかなければならい。
 そうしなければ、わたし体自身が今度は祭司やレビ人を逆に差別し、見殺しにしてしまうかもしれないのだから。
 このエピソードは、結局自分自身にとって隣人になることの意味をものすごく深く問うている気がしている。