砧教会説教2015年2月1日
「対立は避けられないのか」
ルカによる福音書第11章27節~12章3節
前回は「あなたにとって隣人とは誰か」という問いを掲げつつ、隣人とは隣りにいるとか、友人、同胞といった枠を越えて出会う、あるいは「隣人となる」という出来事を通して見いだせるものであり、しかもそれは痛みや苦難に共感することを通じてのものであることを再確認した。
今日はこれとは反対に、隣人でなくなってしまうことについて考えて見たい。
さて、ルカ福音書の本日の個所は、構成がわかりにくい。これと並行しているマタイの個所(23章1―36節)では、ルカとは構成が全く違っている。マタイの方は、山上の説教の冒頭の八福(……は幸いである)と対照的に、敵対する律法学者やファリサイ派に対する7つの不幸を宣言する。いわば呪いの言葉である。これらの言葉は、マタイでは箇条書き風に並べられ、彼の教会で儀式的に読まれたかのように見える。つまりマタイの「七不幸」は特に目の前に相手がいるのではなく、ただ自分たちを迫害するユダヤ教正統派や権力者たちに対する、どちらかと言えば、内向的で、秘儀的な感じの呪いである。要するに自分たちの内輪で、敵対する者たちに呪いをかけている感じの言葉である。
これに対し、ルカ伝の方は、これらの不幸をファリサイ派用と律法学者用に分け、それらを場面設定の中で、物語の要素(対話の文の一部)として用いている。ここでもルカは、ある種の物語化、ファンタジー化を行う。しかも、ルカは例の「罪深い女」の話と同様に、「ファリサイ派の人から食事の招待を受けた」とされながら、せっかく招かれたのに、非難と呪いを告げているのである。これはなんともはや、度し難いことである。ひどい話である。呼ばれた相手を徹底的に貶めるのだ。
これは先に述べたようにルカのファンタジーであり、実際イエスがこのような暴言を偉そうに語ったとは思われない。それどころか、そうしたあからさまな批判は、自分の立場をいっそう悪くするはずなので、対決はするとしても、ユーモアを入れたり、シニカルに語ったりという具合に、敵対するより、むしろそうした位置から「降りる」と言う感じで、新しい共同体の在り方を主張するといった趣である。
実際、この断章はマルコには無く(並行個所として挙げられているマコ12章38―40節は、律法学者に気をつけよという、これまた内輪での注意書き風な言葉にすぎない)、マタイの並行個所とも大きく異なっている。
それゆえ、なぜルカはこうした物語を書いたのか、ここにはイエスの真意のようなものを本当に反映しているのだろうか、といった疑問が浮かんでくる。
まず、その主人は食事に招かれたイエスが身を清めないこと、つまりイエスが儀式的な手洗いをしなかったことを訝る。するとイエスはすかさず、延々と彼を罵倒する。まず前段、「実にあなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。……」(39―41節)。これはファリサイ派への暴言である。ファリサイ派がこうした一方的な非難をされる言われはないと言ってよい。なにしろ、かれらは律法に忠実であるのだから。ルカが強調するのは、実は律法に忠実であるから悪いということではない。彼らが外面は立派だが、腹では人を馬鹿にして、差別しているという点だ。つまり、ルカは差別者、見せびらかしの人間をファリサイ派に代表させている。しかし、そう好意的に見ることも難しいかもしれない。なにしろ、その後に続くのが「不幸の呪い」とも言うべき悪態なのだから。彼らは儀礼的な捧げものには忠実だか、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている。これこそ行うべきことである」とイエスに語らせる。さらに偉そうにしているファリサイ派に不幸を告げる。さらに、最後には彼らを「人目につかない墓のようなもの」と断じ、徹底的に蔑む。
これがキリスト教だろうか?私たちはこれを合理化して、自分たちに都合よく解釈するが、これは根本的に間違いである。このファリサイ派のところに「中国人」「韓国人」「イスラム教徒」「朝日新聞」「日本人」あるいは「キリスト教」と入れて見れば、それがどんな暴言かはよくわかる。私たちはこれをイエスに好意的に読むから、この危うさに疎くなってしまうと言えるだろう。
しかし、ルカは手を緩めない。次には律法の専門家(律法学者)が登場し、「そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と話しだす。いきなり出てくるが、そもそもマタイ23章では「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と繰り返され、律法学者とファリサイ派はまとめて非難されているが、ルカではそれを二つに分けてそれぞれ別個に非難し、やや戯画化しているようだ。
この律法学者への非難はかなり細かく例を挙げる。まず、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」と語り、さまざまな律法で民衆を縛り、自分たちは高い所でふんぞり返る在り方を糾弾する(46節)。その次に、預言者を迫害した過去に言及するが、こちらはマタイの方が入念である(マタ23章29節―36節)。ルカはこのマタイの記事を正確には理解していない。先祖が殺した預言者の墓を建てることと不幸であることが結びつかないからである。マタイは預言者を顕彰する行為を完全に偽善と見ているが、ルカは、単に墓を建てることが「先祖の仕業の証人となり、賛成している」ことの証しだと、やや理解に苦しむ見解を打ち出している(48節)。要するに正しい人々を迫害するのが彼ら律法学者の本分であるというわけだ。そして50―51節で、彼らの責任は「アベルの血〔創4章10節〕から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血〔代下24章21節〕にまで及ぶ」とされ、マタイと同様、旧約聖書のはじめから最後〔ヘブライ語聖書では歴代誌は最後の書〕までの正しい人々の受難を想起させる。つまりルカにとって、ユダヤ教の指導者たちは、聖書に書かれた預言者的伝統に対する反対者であるにもかかわらず、自分を正当な者とみなすという、全く矛盾した態度を示す人々なのである。
最後の不幸の宣言の根拠は「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたから」である。つまり、彼らは本来だれでも学べる知恵や知識を独占するだけして、それを活かすこともしていないというのだ。
これに対して、「律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、……」(53―54節)とあり、ついにイエスに対する敵対感情が高まっていく。当然である。他方、群衆が集まってきて、注意を促す。ファリサイ派の偽善に注意せよと。さらに、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない」と語り、すべてが明らかになることを弟子たちに語ったのである。
こうしてルカの物語では、マタイと違って、おおやけにファリサイ派と律法学者に敵対するイエスを描いた。実際のイエスの行動を反映しているかどうかは不明だが、マタイの伝承を利用しながら、ドラマ化したものであるのは確かだ。
あらため考えてみよう。これがキリスト教を正当化するようなものだろうか。ファリサイ派や律法学者を貶めることが。初めて聖書を読む人々、あるいは子供たちは、この物語を聞き、何を思うだろうか私は今回改めてこの個所を読み、ルカの強力な対決意識を感じる。そしてその意識は非常に危ういものだとも。この断章は、明らかに意図的なプロパガンダであると言ってよい。そして、こうした対決の構図は、やがて、同じユダヤ教の一部でありながら、自らそれと決別するキリスト教自身を鼓舞するだろう。つまり。これはその気構えを激しい熱情で表現しているのである。
ルカの思いは確かにわかる。先週読んだ個所も、かつて取り上げた誕生物語やヌンク・ディミティスもそうだが、ドラマ化され、ファンタジー化され、大きな印象を残すルカ文書だが、同時に危険性をはらむ。なぜなら、そこに自己批判がなくなることで、あるいはここに出る律法学者やファリサイ派が実際の者であるよりは、比喩であること、あるいは象徴的なものであることを度外視することで、強力な敵対感情を生み出していくからである。
敵対は、なにか具体的な事情から始まるのではなく、むしろ外野のヤジやデマ、知ったかぶりの言葉、匿名の暴言によって始まるのではないか。それは現代のジャーナリズム、というより野次馬的新聞や雑誌やネット上の発言によって始まるのではないか。イエス自身の時代から数十年後のルカ文書は、残念ながらそういう危うさをもっているとも言える。具体的な場面設定と対決。決めつけの言葉。なにしろ、福音書は実のところ、ファリサイ派や律法学者の反論は全く載せていないのだ。
だから、現代の聖書読者は、本当に聖書を読みなおさなければならない。いまから500年前、ルターは民衆の言葉に(つまりドイツ語に)聖書を訳した。そして現在、この世界で自由に聖書は読める。そしてそこに書かれている文字を「神の言葉」として受けいれることが、キリスト教だと言われるが、それは全体としてはまあ良いとしても、テキストの持つ一方的な正確、危険性、差別性などはきちんと取り上げなくてはならない。もちろんそれを取り除けばいいなどといったことで済む話ではない。その危険性も含めて、これを聖書として受容することにたいして誠実に向き合うことである。そして「聖書」とされた書物さえ、時代と党派性を持つ有限なテキストであることを認めなくてはならない。その上で、しかもなお、そこに示される真実、真理、救い、信仰の確かさが、深くかつ広く存在することを伝えることが求められている。
こうした手続きは実に面倒臭いものである。しかし、今や世界は分断と敵対の時代であり、個人や家族などの小さな単位でさえ、解体や分断の危機に晒されている中で、聖書にさえ見られる分断や敵対の構造に黙しているわけにはいかない。むしろ積極的にこうした問題を深く捕らえることによって、かえって現在の私たちの時代の分断、差別、あるいは解体と破壊の危機を乗り越える道を見出せるはずである。ルカはおそらくそのことを知っている(と思う)。それでもなお、この個所の危うさはきちんと批判することが必要である。そのことによって、対立は避けることもできるだろう。敵対も避けることができるかもしれない。
(にもかかわらず、安易な予断は許されないとも思う。この不安についてはまたあらためてお話ししたい。)