砧教会説教2015年2月8日
「楽園追放―絆としての罪」
創世記第3章1~24節
本日は旧約聖書の失楽園の物語をもとに一言お話ししたい。
キリスト教徒だけでなく、誰でもどこかで聞いたことのある話であり、また多くの人々がこの物語に込められた意味を考えたことがあるだろう。この物語が言わば「効果」を発するためには、前提を要する。第一に、神ヤハウェがアダムを粘土で形作り、そこに命の息を吹き入れてアダムを生きるものにしたという、本日の話に先立つ物語に込められた事情である。ヤハウェは命の源であり、その力を受けてアダムは生きるものとなった。つまり神ヤハウェには「親」に重なる面がある。だからアダムは常に彼に先だつヤハウェに負い目を、あるいは「恩」を感じ続けるほかはない。もちろん、命を与えられた事に予め理由があるわけではない。ただ、ヤハウェはアダムに先だって存在する楽園に彼を住まわせることだけは事前に考えているようにみえる。つまり、アダムはただ生きるものとなったことで完結したのではなく、その先も生き続けるものとされたのである。なぜなら、生き続けるための糧として楽園の食物が与えられたからである。ここには私たちが見逃すことができない観点が含まれると思う。私たちは単にこの世界に「有る、生きている」というだけなく、「有る、生きている」ということに気づく前にすでに「生き続けてきた」という事実があるということだ。言い換えると、私が気が付く前に、私は有ったのである。これを敷衍して一人称複数にかえて「私たち」に代えても同じことが言えるだろう。自分たちの存在に改めて気付いた時には、すでにそれ以前の人々の営み(これを普通は「歴史」と呼ぶ)があったのだ。
さて、アダムは楽園に住まわされ、人としての歩みを開始するが、すべては神ヤハウェの手の内にあるように見える。しかし、ただ一つ、神は禁止命令を与える。すなわち、楽園の中央にある木の実だけは食べてはならないというものである。この命令を告げたことは何を意味するか?それはアダムに神の支配の外への道を開いたことを意味する。なぜなら、命令はそれに従うか従わないかの判断を相手に委ねているからである。つまり、命令を告げた瞬間に、告げられた相手は自由な主体として存在し始めると言えるのだ。後にパウロは、律法が存在するから罪の自覚が生じると言ったが、これはこのアダムへの命令を念頭に置いているのだろう。この禁止命令はこの後の話を照らし出す働きを担っている。つまり、この禁令を告げられた時、アダムは自分が神に対して存在していることに気がついたのである。ただ、それはまだ不明瞭である。
その後、人が一人でいるのは良くないとされ、男の一部から女が造られ、男の補助者として位置づけられた。こうした神話はこれが造られた時代の女性理解を反映するが、この位置づけは強固に人類の文化を規定し続けたことは言うまでもない。本格的に女性が主体化するのは20世紀前半まで待たなければならない。さて、この、男の一部から造られた女は、蛇にそそのかされて、禁断の木の実を男と共に食べ、つい神ヤハウェの禁令を破ってしまった。蛇によれば、この木は善悪の知識の木であり、「神のようになる」木の実である。彼らがこれを食べると目が開け、自分が裸であることを知り、相互に恥じらいを知ることになる。これに対する罰として、女は男に支配され、男は労苦して地を耕すことになる。「お前のゆえに土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。……お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3章17―19節)この禁令を破ったことが、キリスト教では原罪とみなされ、この出来事は全人類に影響を及ぼすことになった。それはキリスト教においては「死」という言葉で代表される、人間の限界を意味する。もちろんこの「死」は比喩的な側面もあり、単に肉体の死ということより、はるかに積極的な契機をもつものとしても理解されていく。この点についてはあらためて別の機会に考えたい。
14―19節までの神の審判の言葉を経て、20節ではアダムによるエバの名付けがあるが、ここにもアダムとエバの以降の人類の歩みが前提されている。エバは後の世代の母になるとされている。つまり彼らは未来を与えられていると言えよう。
「人は我々の一人のように、善悪を知るものとなった。今は、手を伸ばして命の木からもとって食べ、永遠に生きるものとなる恐れがある」(22節)と神はモノローグのような発言をするが、よくみると神の周りには天使のような者たちがいるかのように、複数形(「我々の一人のように」)で語る。ここにはまだ洗練された一神教以前の素朴な多神教的感覚の名残のようなものが見える。さらに、エデンの真中には彼ら2人が食べた木の他にも命の木がある。これは永遠の命をもたらすとされている。旧約では永遠の命を人間が持つことについては、予め可能性をほぼ封じているが、たとえば『ギルガメシュ叙事詩』ではギルガメシュは永遠の命をもたらす草を求めて旅に出るという話であり、もちろん不首尾に終わるとは言え、可能性を留保する。やがてキリスト教では、永遠の命という神に比すべき地位を、人間的努力とは違う、全く転倒した仕方で、もう一度取り出してくるのであるが、今日はこれ以上触れない。
さて、アダムとエバは禁断の木の実である善悪の知識の木の実を食べたがゆえに、楽園から追い出され、一方のアダムは土を耕す者となったという。その前に、21節ではなぜか神は罪を犯したアダムとエバに皮の衣を作って着せたとある。人間は裸のままでは簡単には生きてゆけない。罪を犯した二人を、神は生かすのだ。そこには神の命令を破ってもなお、彼ら2人を生かす神の愛がある。もちろん彼らは楽園からは追放される。そして皮の衣を来て、自ら土を耕し、自分の手で生きて行かざるを得ないが、これは逆に、創造の神から(あるいは「親」として父から)人間が自由となったことも意味する。もちろん、この自由は先に食べた善悪の知識の実の持つ力と関わることになるだろう。そして人間はより強く、豊かになるだろう。この物語はそうしたことを予想させる。
しかし、この物語から読み取れるのはそれだけではない。彼らが犯した罪は、それ自体が絆としての働きを持つのではないだろうか。すなわち、この罪を通して、人間は逆説的に神と結ばれることで、彼らの自由の限界と責任を自覚し、神は常に人間に罪を想起させることによって、人間を神へと繋ぎとめる。そしてその罪を通じて神はいっそう人間を高めようとし、人間もその責任を全うしようするだろう。これは抽象的な言い回しなので、具体的に話したい。
このところ改めて大きな話題となっている従軍慰安婦とされた女性の問題を、朝日新聞の誤報を誇張することを通じて、問題がなかったかの如くに宣伝し、日本人が不当に貶められたと騒ぐ人がいる。朝日の誤報は問題だが、逆に旧日本軍の犯した罪をなかったかのように思うのは、恐ろしいことだ。罪の記憶や自覚を欠いた国民はおそらく未来もおぼつかないだろう。なにしろ責任を自覚出来ないのだから(ぼくは悪くないとか、誰かのせいにするとか、あるいは他の人もやっているとかいう。これは幼児的退行と同じ)。しかし、罪は償われなければならいが、それは消えることがない、そして最終的に赦されることがあっても、やはり消えることはない。それはひとりの人間においてであれ、一つの国家においてであれ、同じことである。そしてそれは世代を超えてなお、消えることがない。しかし、それこそが人間としての証でもある。なぜなら、そのことゆえに人間は自らの生きていくことの責任をより深め、さらに自らの生きていくことの意味を新たに発見していくであろうから。
私たちはこれに類した出来事に数多く出合う。ナチスドイツによるユダヤ人の殺戮、日本軍の侵略による略奪と犠牲、そしてイスラム原理主義の報復行為、ボゴハラムの略奪や略取誘拐といったものだ。私たちはそれに対して憤りはするが、なすすべがない。しかし、私たちはキリスト教としてことの本質を見極めなくてはならない。そしてそれが誰かの意思なのか、誰に責任があるのかを問いたださなければならない。そして私たちはそれについて自分自身も問われる存在であることに気づかなければならない。そしてその問いを引き受け続けることで、鞭打たれた側の苦難を絶えず想起することが肝要である。つまりは罪の自覚である。
あらゆる人は罪を担う。それは単に目に見える犯罪と言うのではなく、その元、その源にあるものだ。それは実は神との絆である。もちろん逆説的に。聖書の著者はこの主題を創世記のはじめに置くことで、これを読む人間、とりわけイスラエルの民に罪としての絆を失楽園の物語を通して伝えた。神とのかかわりは罪とともに本格的に始まる。それを根本的に自覚する時、逆に、人間はより気高いなるものになるだろう。