砧教会説教2015年2月15日
「私たちは、本当は何を恐れているのだろうか」
ルカによる福音書第12章4~7節
マタイによる福音書とルカによる福音書は、非常に論争的、あるいは闘争的である。その理由は、この世に力に対する強い拒否感であるように見える。しかし、正確にはこの世ではなく、第一には自分たちの宗教、ユダヤ教の支配する世界に対する拒否感である。その象徴がファリサイ派や律法学者呼ばれる、正統のユダヤ教の人々である。本日のルカの個所は、これに先立つ12章1―3節との関連で、ファリサイ派のことを念頭に、彼らを恐れないよう勧告しているように見える。
ところでこの個所のはじめには「友人であるあなたがたに言っておく」とあり、イエスがやや唐突な「友人」という呼びかけで語り始めている。これは、分脈ではおそらく弟子たちのことだが、やや違和感が残る。もちろんこの「友人」を、ヨハネによる福音書15章13節以下に現れる、イエスの「友」となったとみなされた弟子たちのように、イエスと同じ立場にたって何らかの行為を行うことができる人々と取ることができる。おそらくルカは、弟子たちがすでにイエスの高みに達しつつあることを前提に書いている。つまり、イエスの権威を帯びた、神の支配の伝道者なのである。それゆえ、イエスはここで、自分の死を前提とするかのような勧告を告げるのであろう。それは「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」という言葉である。そして「誰を恐れるべきか教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ」と語る。
イエスはここで何を伝えようとしたのか。当然、ファリサイ派や律法学者の権威や権力を恐れてはならないということがまずある。新しい宗教であるイエスの運動は、自分の由って来る源を担う、いわば仲間のような集団を恐れることを禁じたのだった。しかし、なぜ恐れたのだろうか?イエスの弟子たちを含め、イエスの周りに集まったおびただしい群衆は、そのファリサイ派や律法学者が代表するこの世の権威や権力を実は恐れていた。この権威を恐れているうちは、イエスの語る神の支配のもとにはない。あくまでその時代のユダヤ教の支配の内部におり、イエスの指し示す本当の神の国に気づいてはいないのである。だから、イエスはこうした勧告を繰り返すのである。そして、本当に恐ろしいのは、体を殺すだけでなく、それ以上のことを行う者であり、それは死んだ後に地獄へ送る権威を持つ者である。
しかし、このような脅しのような発言は、どれほど効果を発揮したのだろうか。つまり、死んだ後の世界の人生を想像させ、そこでの苦しみを恐れさせる思想がどれほど意味を持つのだろうか。かりに当時の民衆には意味があったとしても、私たちにとって意味を持つのだろうか。このような問いが浮かぶ。それに、現代の日本の私たちの前に、ファリサイ派や律法学者の権威や権力があるわけではない。この話は、私たちにとって有効であるかどうか疑問である。
ただ、この個所の根本的な問いかけは、生き続けているように思う。それは、これを読む人々に向けて、「あなたは何を本当に恐れているか」という問いを投げかけているためである。イエスが、死後の命が地獄に落ちると脅すのは、逆に見れば、多くの人々がこの世の権力や権威を一番恐れていることを照らし出している。そう、このことは実は歴史や場所を越えて普遍的なことである。私たちはこの世の権力や権威を意識的であれ、そうでなかれ、最も恐れている。なぜなら、それに逆らうことは自分の人生を損なう恐れがあるからだ。
ところで皆さんは今一番何を恐れているだろうか。この世の権威や権力、政治権力、軍事力、警察、といった具体的な機関が持つ力ではないだろう。むしろ自分の命を危機に晒す老い、病、そして来るべき死を恐れているのではないか。だとすると、今朝の聖書の個所の語っていることは理解はできても、実感はないだろう。歴史や社会、政治といったやや自分からは遠い事柄ではなく、実存的な苦しみ、仏教的に言えば生老病死の四苦こそ、一番不安で恐ろしいことである。そしてそれを克服する道こそ、宗教が与えるものである。そしてそれは死後の天国ないし神の国思想である。
しかし、キリスト教では死後の世界は単に天国や地獄ではなく、そこはもう一度裁きが行われる場所でもある。つまり、そこでは人間として生きた時間の中身が問われる。お前はこの世の力に屈服しなかったか。この世でこの世の権威をかさにきて民衆を足蹴にしなかったか。預言者を迫害しなかったか。あるいは生き倒れの人を無視しなかったか。みなしごややもめを不遇なままにしなかったか……。つまりは多くの人々と同じように、世の秩序、差別構造、経済的支配構造を放置しなかったか、と問われている。
この点について、昨今の日本の事情は非常に厳しくなっている。この度の後藤健二さんの殺害について、政治家も放送も後藤さんに非があり、あれは蛮勇に過ぎないとも言われる。そして政府の言うことに従わないなら、仕方ない、お前が悪いという。つまり政府の言うことを聞かなければ守らないというわけだ。これはひどい。後藤さんは、平和や子どもたちの未来のための行動をしたのであり、たとえ蛮勇に見えようとも、その事柄自体を評価し、こうした動機で危険な場所に行ったとしても、それを援護し、尊重することが政府の仕事である。かつて高遠さんと言う女性がイラクで捕まった時、彼らが解放されるやバッシングの嵐だった。要するに勇気も志もない人々が彼らの無謀さに怒り、勝手なことをして無駄なお金を使わせたなどと、極めてさもしい意見を述べていたが、今回も同様である。日本国家においては政府の意見に従わなければもはや国民でさえないかのようである。これを翼賛体制とよぶ。実は、こうした世界への挑戦がイエスの仕事であったといってよい。もちろん表向きにはそれとはわからないが、後でふと気が付くこともある。私は高遠さんが捕虜となりやがて解放された時、おそらく多くの人々と同じような感覚を覚えたような気がする。なんでまたあんな場所にわざわざ行ってボランティアなどするのかと。しかし当時の米国のパウエル国務長官は彼女のような立派な援助者が日本にいることをまず称賛していた。つまり彼女の自由な自己犠牲的行為は何よりまず称賛されるべきことなのだ。立派な行為を行う人々のことが気に食わない、無駄だ、自己満足だ、カッコつけだ、といった発言は、自分ができないことをやった人たちへのヒガミにすぎない。こうした内向きな感情をすくいとる安倍さんは巧妙な政治家である。そして排除型国家をつくり、集団主義に回帰している。要するに今、何かを自由に言うことが次第に難しくなっているのである。
こうした時代において、再び問われるのは、一体何を一番恐れるかということである。生老病死といった、人間あまねく感じる不安や恐れは実は二次的である。旧約の昔には最も恐ろしいのは飢饉・疫病・剣であった。つまり食料の欠乏、病気の蔓延、そして戦争であった。しかし、やがてそうしたものは実は人間の罪が引き起こしたものだ、それに気がついた古代イスラエルの人々はその罪を引き受け、自らを厳しく律して、世界の重荷を引き受けていくというある種の自己犠牲的英雄主義も生まれてきた。そしてそれは一方で軍事的メシアニズムとなり、他方極めて厳格な律法主義となった。その中にあって、人間の生きる道に新たな光を当てたのがキリスト・イエスだった。彼は本当に恐るべきものは、この世の権威や権力、などではなく、神ヤハウェであるという。ヤハウェこそ、すべてをご存知である。すべて世界は数えられている。「5羽の雀が2アサリオンで売られている。だが、その一羽さえ神がお忘れになるようなことはない。……」私たちが恐れるのはこの神だけである。それ以外はない。そしてかれこそ、恐れるべきだということだ。
今私たちは、何を恐れているか。それはテロでもなく、原発事故でもなく、シリアの危機でもなければ、アベノミクスの失敗でもない。今この世にあって一番恐れられているのは、孤独である。繋がる技術は大幅に拡大した、その他の技術も進化した。しかし、それには比例するかのように、孤独や孤立、コミュニケーションの不全が広がる。そしてこれを掬い取るのが、戦争、危機、強い国家、非国民などの扇動的言葉によって緊急事態における生きる実存の確かさや、他方連帯の暖かさみたいなものを予め用意する、たとえば軍隊の機能である。そして多くの若い人々はそうした幻に酔い、われを忘れ、真に恐るべきものを見失い、ただ命令と強迫に依存していくのである。
私たちは真に恐れるべきものを知っている。それは本日の比喩で呼ばれている、「地獄に投げこむ権威を持っている方」である。これは私たちを恐れさせるもの、脅しのように見えるが、実はそうではない。これこそが幸福の源であり、救いの源である。そしてそのことに気が付いている人々が集まる場所こそ、神の国の地上での写しである。すなわち教会である。私たちは本当の恐ろしいものを知ることが、この世の様々な苦難を乗り越えさせるのである。だから今の時代こそ、聖書が読まれなくてはならない。それも誤った読みではなく、その可能性を引き出すような読みを必要とする。そのための場所がこの教会であることは言うまでもない。
くりかえしになるが、今こそ、本当に恐るべきものに気がつかなければ、とつくづく感じている。