日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年2月22日
「本当にかけがえないものとは何か」ルカによる福音書12章13~34節
 本日の聖句は先週取り上げた個所と内容的にはつながっている。前回の「本当に恐るべきものは何か」という題は、本日の題にある「本当にかけがえないもの」と対をなしているからである。イエスは「「体を〕殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」が一番恐ろしいと言った。とすると、体を殺してなお残る「魂」が地獄に投げ込まれないことが、一番大事なことだということだ。
 イエスは体を滅ぼされることより、魂が滅ぼされることの危うさを常に真剣に考えていた。もちろんこれは私たちの時代では簡単に受け入れられることではない。そもそも体と魂を分けて、魂は体から独立しているなどと考えるのは、非常に危険でさえある。なぜなら、たいていは体を低いものとみなし、それに囚われることは劣ったことだ、となるのが普通で、そこから実際の人間的な生活、つまり衣食住などに囚われることがつまらないことにされてしまう。その結果、こうした二元的な宗教性は、リアルな世への関心を失っていく。そして、現実の人間の苦しみや困難への共感さえ、失われていくだろう。要するに、肉や体や物質に囚われることは次元の低いことであり、そうした次元を越えて行くことが真の生き方なのだから、というわけだ。
 こうした発想を先週と今週の聖句は持っているように見える。しかし、そうではない。本日の聖句の前半は新共同訳では「愚かな金持ちのたとえ」という見出しだが、フランシスコ会訳ではこの部分を二つに分け、「貪欲への用心」「愚かな金持ち」という見出しを付けている。つまり、この世、現生、さらには肉体を持った人間という有り方自体を問題にしているのではなく、この世の価値の基準に、つまりは富に、囚われていることが問題なのであり、結局のところ魂の向きというか、心の在り方を変えることが目標とされている。つまりこの世の問題というより、自分自身、あなた自身の問題だと言うことになる。ともあれ、結論を急がず、テキストを読んで行く。
 さて、聖句を見てみたい。まず、いきなり群衆の一人が「私にも遺産を分けてくれるよう兄弟に行ってください」とイエスに求める。すると、イエスはひとこと棄て台詞を言った後、「どんな貪欲にも注意しなさい。有り余るほど持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と告げる。それからいわゆる「愚かな金持ち」のたとえに移る。彼は畑の膨大な実りを貯め込んだが、それでも足らず、もっと大きな倉も作り、最後に自分への褒美としてしばらくの優雅な時を過ごそうと思う。これは実によくある姿だ。むしろ誰しもそう考えるだろう。一生懸命働いた、蓄財もした、さあ、これからしばらく豊かに暮らそう。しかし、イエスは次のように言う「……しかし神は『愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは一体だれのものになるのか。』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。
 これは誰しも考える蟻のような慎重な生き方、後のことを考えて今を生きる生き方、けなげな普通の人々の生き方を否定するように見える。しかし、それは違う。この断章で注意すべきことは、やはり話の前提にある「ある金持ち」という立場である。つまり、当時の大土地所有者のことである。彼のような身分の者の貪欲の根本的な危うさ、空しさを批判しているのであり、普通の人びとのことではない。ルカのイエスは、こうした貪欲に対する厳しい批判が多い(例えば16章「金持ちとラザロ」など)。このあたりを取り違えると、普通の人々のささやかな願望さえ、すべて否定すべきものとされ、結局は修道院的禁欲が理想化されるようになる。もちろん、好きでそうするのは良い。しかし、貧乏であるべきだ、とか、物欲は一切だめ、清貧、あるいは「断捨離」のようなはやりの思想は、それを促す相手を取り違えている。問題は、物欲をひたすらあおりながら、清貧だ断捨離だなどと一方で禁欲を促し、普通の人々をダブルバインド(背反する要求に拘束される)状態に置いている現代の風潮である。
 さて、ルカはこのたとえの後に「思い悩むな」の断章を置いている。これはマタイでは山上の説教の一部、むしろその核心に置かれている。しかし、よく見るとやはり「神と富との両方に仕えることはできない」という富を否定するかのような言葉の後に置かれる。つまり、二つの福音書は、「思い悩むな」の断章をこの世の富へ執着との関連で捕らえようとしていると言ってよい。
 ところで、「思い悩むな」の断章は何を伝えているだろうか。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切だ」という言葉に注目すると、ルカにせよマタイにせよ、彼らにとっては、ここで言う命とは私たちが普通に考えるリアルな命、あるいはリアルな体のことではないかもしれない。つまり、これは迫害や抑圧の現実の中で、この世を越えた新しい世界、神の律法を守り通した果てに与えられる新しい天地における命と体として理解している可能性がある。つまり、迫る世界の終り、終末論的歴史観を前提にした、命と体である。ルカの物語においては、最もかけがえのないものとはこのような、別の次元の命と体なのである。
 しかし、さらに解釈を深めると、ここでのイエスの言葉は、命と食べ物を比べたり体と衣服を比べたりしながらも、なにも食べ物や衣服を求めるなと言っているわけでもない。ただ単に、「思い悩むな」というだけである。そんな事をしなくても必要に応じて与えられるはずだ。なぜなら、鳥や野の花はただ自然の営みの中で最も美しく着飾っているではないか、神の与える食べ物と衣服だけでソロモンよりも美しいのだから。こうして、イエスは来るべき世界の命や体を指しているのではないこともわかる。つまり、新しい世界の新しい命と体のことを言っているのではなく、かえってリアルな自分たちの命と体を自然な形で保つことが一番大事だと言っているように見えるのである。そしてこう言う「あなたがたの父はあなたがたに必要なことをご存知である。ただ、神の国を求めなさい」と。求めるのは富ではなく、神である。こうして私たちはかけがえないものの意味を知る。つまりかけがえないものとはそれぞれが持つ命と体を時宜にかなって育み育てる「神自身」である。そして、神の国とは時宜にかなった必要で十分な衣食住が保障された世界のことであり、そうした世界を目標として生きることがキリスト教に連なるものの生き方であるのだ。残念ながら、この断章はこの位置に置かれたことで、元来のイエスの非常に適切な勧告をやや分かりにくいものとしている。つまり、命や体をこの世を越えた世界、審判の後の世界での命や体に変えて行くのである。
 ルカはさらに、マタイによる福音書の6章19―21節の「天に富を積む」の断章を、この「思い悩むな」の断章につなげて理解しようとする。しかも「思い悩むな」の断章の中で最も重要な「だから明日のことまで悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」というイエスの言葉のうちでおそらく最も慰めに満ちた言葉を削除する。そして「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という指示、つまり金持ち向けの勧告を代わりに加えたうえで、「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。……」との勧告で締めくくっている。
 「愚かな金持ちのたとえ」から「思い悩むな」を一連の単元としてみると、マタイとルカの考え方の違いが良くわかると思う。マタイはイエスの言葉をかなり忠実に伝えているように見えるのに対し、ルカは明らかに自分の思いを伝えることを第一に考えている。それはおそらく命や体を終末論的な出来事の後の新しい命や体として受け止めることである。これはリアルな命や体から離れるが、他方、こうした飛躍こそが、歴史を耐える宗教性を生み出すことも確かである(例えばこれが明瞭なのは「ヨハネの黙示録」)。
 ただ、今日の問いに戻ると、かけがえのないものが何なのかはわかりにくくなる。リアルな命と体なのか、別な次元の命と体なのか?しかし、私は、これは両方ともかけがえがないと思う。この二つの命の体が、それぞれかけがえないものとされることによって、わたしたちの世界が真に豊かで平和になるからである。残念ながら今の時代は、これら二つの命と体の両方ともが大切にされていない。このことに関連して、教皇フランシスコは『喜びの福音』のなかで次のように言う。「「殺してはならない」というおきてが人間の生命の価値を保障するための明確な制限を設けるように、今日においては「排他性と格差のある経済を拒否せよ」とも言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で2ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。」(56頁)。教皇はリアルな命と体が片隅追いやられ、富にむしばまれる世界を憂慮する。この批判はもっともである。私はこれに加えて、今や別な次元の命と体も忘れられていることに注意を喚起したい。つまり、私たちは今ある命を支える根源的な命、それは神と共にある命、いや神そのものあるいはキリストと言ってよいかもしれない。すなわち、命の命、あるいは命の源のことである。私たちキリスト者はこの両方の次元の命と体をかけがえのないものと認める群れであるはずだ。
残念ながら、そうした次元の命と体は今の時代にはほとんど理解されないか、あるいは非常に閉鎖的な集団、つまり社会から切り離された集団において観念的に保持されているに過ぎない。私たちは本日の聖句から、改めてかけがえのないものは何かに気づくことができればよいと思う。同時に、これらの命と体を主の目的のためにふさわしく用いることが求められている。