砧教会説教2015年3月1日
「私たちの真の土台」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章1~17節
この断章はコリントの教会が内紛を抱えていることを前提に読まれるべきものです。しかし、そのような当時の教会の状況と関わることなく、教会という団体一般に向けられたものと読むこともできます。さらに、教会を形成する一人ひとりの信徒への指針としても読めます。さらに、必ずしもキリスト教の教会という団体だけでなく、それを越えて広く共同体一般に適用できる一種の心構えの文章としても使えそうなものでさえあります。
しかし、やはりこれは具体的な危機にあるコリント教会にあてられた手紙です。まずこれを前提に読んで行きます。当時のコリントはヘレニズム都市として非常に有力かつ大きな町であり、そこにローマ風の競技場や諸宗教の神殿があり、さまざまな人々が交流する高度に発達した都市の一つだったと言われます。その中で、新興宗教として登場したキリスト教の集団においてどのようなことが問題となっていたのかをこの手紙は多少とも伝えています。3章に先立つ1―2章をざっと見てみますと、教会の要というか指導者、あるいは中心は何か、つまり何に、あるいは誰に従うかが問題となっています。1章10節以下を見ますと、「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言いあっているとのことです」とあります。つまり、教会の指導性がはっきりしない、ないしはそもそも教会という共同体の存在の意味がわかっていないという感じです。パウロはここで、洗礼をコリントでは二人程度しか授けていなかったようですが、それで良かったと言っています。なぜなら、下手に洗礼を行うことで、洗礼をパウロから受けたことがステータスになり、権威となり、正統とされるようなことが起こらずにすんだから、というのです。彼はさらに「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだったのからです」(1章17節)と決定的なことを言っています。つまり、洗礼が目的ではなく、福音を告げることであり、しかもその方法は言葉の知恵(つまり人間の、ないし「この世の知恵」)によってではなく告げるということです。後段はやや分かりにくいのですが、先を読むとこれは「霊による知恵」であることがわかります。
さて、パウロは3章のはじめで「霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」と言っています。これはいわばキリスト教の初心者であるか、もしくは宗教的な常識や知恵に疎い人たちのことでしょう。コリントの人々は未だにそういう人たちである。パウロは繰り返し「肉の人」をあげつらい、さらに「パウロにつく」「アポロにつく」と党派性というか趣味というか嗜好というか、いや正確には利害と言うべきでしょうが、こうした反目を批判しています。この批判の眼目は何かと言うと、誰がいちばん偉いか、誰が正統か、誰が中心かという議論が無意味であることをわからせることにあるようです。要するに、「誰が」問題に囚われ、「何が」問題を忘れて行くことの危険、あるいは手段と目的を取り違える危険と言ってよいでしょう。つまりパウロにせよケファにせよ、またアポロにせよ、彼らは福音の伝達の伝令に過ぎないと言うことです。つまり彼らはあくまで手段、道具にすぎません。パウロはそのことに非常に謙遜に見えます。(しかし、パウロは別な所ではそのような謙遜を逆手に取って語る場面もある。つまり私が語っているのではなく、キリストが語っている、というような発言です。これはおそらく戦略であり、キリストを笠に着て、自分を語る狙いがあると思われる)。
では手段や道具を用いる主体は誰か?もちろんそれは神です(「成長させてくださったのは神です」6節)。神は彼らの働きを道具として、自分の土台を据えた。その土台が、イエス・キリストである(11節)。そしてこの土台の上に立つのが一人一人の信徒の人たちなのだと言う。ですからその土台に代って、パウロやアポロ、ケファなどを据えることは根本的に誤りだということです。
これは実にその通りである。しかし、私たちはこのパウロによるコリント教会への批判がいまだ有効な時代を生きているのではないか。ここでコリントの教会から離れて、キリスト教の教会の歴史を見ていきたい。
そもそも、パウロの批判とは裏腹に、私は誰につくという争いをパウロの死後に、本格的に始めたのではなかったか。むしろ、こうした争いの歴史がキリスト教史の多くの部分を占める気さえする。他方、こうした歴史を経て、キリスト教の強さも鍛えられたという面もある。しかし、誰につくという、手段を目的と取り違えた態度は誰しも抜きがたく持っている。
私たちプロテスタント教会は500年前にカトリック教会から別れ、その後も諸教派が分立し、さらにはキリスト教系のさまざまなセクトやカルトが特にアメリカで生まれている。そうした教派やセクト、カルトが私たち日本のキリスト教を彩っているのは誰しも知るところである。そして、いまやキリスト教と言えばかつての長老派系やバプテスト、聖公会、カトリック、といった開国以降のキリスト教諸派より、エホバの証人やモルモン教、さまざまな福音系の教会が「キリスト教」のイメージを形成している。もちろん土台はキリストだとしても、わたしたちの教会も含め、ちゃんと繋がれているだろうか。あるいは正しく理解しているだろうか。
最近、必要があってアメリカ・キリスト教史をおさらいしたが、この問題に関して深刻なことが記されていた。そこには、南北戦争の悲惨とは両軍とも同じ神に勝利を祈りつつ、殺し合いを行ったということだ、とあった。カトリックも一部あるとはいえほとんどプロテスタントのキリスト教であり、同じ土台に立つはずだが、その理念は、なんら効力を発しなかった。背景にはもちろん政治的社会的な事情があるが、こと奴隷制に関してどちらも聖書的根拠を主張していた。この際、聖書を何らかの政治的主張に使うことは、必ず木を見て森を見ずとなり、都合のよいところだけ利用し、しかもそれは絶対的な神の言葉であり、無謬とされているから、お互い全く恣意的となるほかない。こうして「土台はキリスト」という漠然とした意識があるとしても、キリストの意味とは別に聖書に書かれた記事自体を絶対の真理や規則としてしまうことによって、結局なんでもこじつけることが可能になる。こうして「神の言葉」を「この世の言葉」の奴隷に貶めていくのである。たぶんこうしたことが長く繰り返されてきた。もちろんこれはキリスト教だけではなく、どの宗教でも言えることだろう。
私たちは今改めて本日のパウロの言葉をかみしめたい。特に今日の最後の言葉である。「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(16―17節)。この言葉は、広くキリスト教世界に呼びかけられていると同時に、今日お集まりの会員一人ひとりに向けて語られていると言ってよい。私たちはキリストを土台として立つ、神殿である。このことの意味は、私たち一人一人が誰とも交換できない、一つ一つ神の宝を宿すということです。しかもそれら一つ一つにイエス・キリストという土台がある。このことの意味は何か?それは私たち一人一人が、イエス・キリストの十字架の死の上に立つということです。ではこのイエスの死とは何か?それはこのキリストの死によって私たち一人一人が必ず持っている弱さや欠け、そして傲慢や尊大といういわゆる「罪」(それらが具体的な悪を生み出す)を全く明らかにしたうえで、同時にその死を通じてすべてそれらも滅ぼした(罪を道連れに死んだ)という二重の働きを持つものです。だからよく言う「私のためにキリストは死んでくださった」という奇妙に謙遜な表現は全く事の次第を理解していない言い方であり、正確には「わたしの代りにキリストは死んだ」あるいは「わたしはキリストを見殺しにしてしまった」さらには「わたしがキリストを殺した」とさえ表現すべき事柄である。こうしてイエスの死はいわゆる贖罪、罪を贖って人をまた買い戻した。すなわち人をもう一度まともな命へと回復した、こちら側から言えば回復された、ということになります。ではこのような一連の出来事の主体は何か。それは「神」だが、しかしこの日本語訳が良くないので正確に表現し、「命の主」あるいは「天地万物の創造者」であります。しかし「命の主」「天地万物の創造者」という名は単に起源を示すだけで、その働きを示していません。その働きに着目した表現、それが後にパウロがはっきり定式化した「神は愛」というものです。では愛となにか?
実は愛もまた二重です。まず、キリストの歩みが人を救うことであり愛の出現ですが、同時に神がキリストをこの世におくったこと自体もまた愛の現れです(これはヨハネ福音書の立場)。つまりこの愛は実は一体であり、すべてはあの命の神の働きそのものと言ってよい。やがてその極北として復活という信仰が生まれますが、これは愛が無限の力を持つことを示しているものです。こうして私たちが土台とするキリストは、その働きに注目すれば「愛」すなわちアガペー、すなわち慈しみと忍耐とその実践です。
こうして、ようやくわたしたちは「真の土台」の意味にたどり着きました。イエス・キリストを土台とするということの意味は、実は愛を土台とするということです。それは、互いを認め、互いに赦し合い、互いに高めあい、そして互いに平和に生きていくことです。そのことを通じてやがて最後にみんなが命の主のもとで永遠の祝福に入るということです。もちろんこれは最後の時のことですが、私たちはそうした展望のもとに、この今を、しかも同時に、永遠へとつながっている今を生きているのです。
今日改めてこのことを確認しておきたいと思う次第です。