砧教会説教2015年3月15日
「嘆きと問いが未来を開く」
ハバクク書1章12節~2章4節
本日はまず、4年前の3月11日の東日本大震災と福島原発の爆発による深刻な放射能汚染について想起すべきだと考えます。
あの4年前の大地震と津波による被害は、それに先立つスマトラ沖の大地震と津波による被害と並んで、人類が体験した自然災害でも最も激しいものだったと言えます。さらそれらは多くの映像によって記録され、それらがネットを含むメディアを通じて世界中に知られたことで、関心も高まり、援助も素早くなされ、人類社会の基本的な助け合いの意識を共有できたという点で、科学技術の恩恵も素朴に感じることができました。
しかし、4年前の災害は自然災害だけでなく、人的災害というべき原発事故を誘発しました。自然災害は起こったときが最悪で、その後は次第に復興へと進めるのですが、深刻な原発事故は、起こったら元には戻れないのであり、起こったら最後というべき、終末論的出来事である。つまり、その施設や周辺地域は捨てるほかないことになる。しかし、そう簡単に捨て去ることができない。なぜなら事故そのものが終息せず、その後始末に膨大な時間と労力を要するからです。
わたしたちのこの東京の生活は元のとおりの日常が回復されたかのように見えますが、実際はそうではなく、単に報道が少ないだけで、避難者、離散者の生活、原発の事故収拾に当たる人々の困難は今も続いています。ですから、私たちはこの国に住む者として、また一人の人間として、そしてとりわけひとりのキリスト者として、このことに無関心になってしまうことはあってはならないと改めて思う次第です。内堀さんが陣頭指揮をとっている震災への募金もあらためて宜しくお願いする次第です。
さて、今日の説教の題は「嘆きと問いが未来を開く」というものですが、これは4年前の震災と事故に関わる嘆きや問いとも深くかかわるものです。テキストはハバクク書の1章後半から2章の始めまでで、これはハバククの嘆きと問い、そしてこれに対する神の応答から成っています。
ハバクク書の背景は、おそらくアッシリア支配の時代が終わりに近づき、新バビロン帝国の支配が始まる前夜であろうと言われます。1章6節には「カルデア人を起こす」とあり、その後に、彼らがいかに強力な軍事力を持つかが、豊かな比喩をもって語られています。ハバクク書の構造は、1章から2章4節までが預言者の嘆きと主の応えからなり、2章5節―20節がおそらくバビロンに向けられた非難と審判、そして3章は後から加えられた賛美である。全体として、儀式で読まれたと思われる簡潔さと単純な構造を持っています。
本日は二つの「嘆きと応答」のうち、第二のものを選びました。ここではまず、神の支配の永遠を預言者自身が確認しています。ただ、単なる確認ではなく、「わが神、わが聖なる方ではありませんか」と語り、あたかも神に向かってそのことを再確認せよと求めているかのようである。12節の三つ目の句「我々は死ぬことはありません」は、やや唐突で文脈上おかしいが、これはフランシスコ会訳ではいわゆるユーフェミズム(婉曲表現)として理解し、元来は「あなたは死なない」であったと見て、そう修正訳している。つまり、現在のテキストはラビたち伝承者が死という表現を神にあてはめるのをためらって、人称を変更したものとみるのである。ともあれ、これは瑣末なことで、問題は神への問いである。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い」から、「人の労苦に目を留めながらすておかれることはない」はずだ。それなのに、なぜ悪がはびこるのか、「神に逆らう者が自分より正しいものを呑み込んでいるのに」とハバククは問い続ける。人間はばらばらとなり、ばらばらとなった人々を今度はバビロンの投網が掬い取っていく。つまり、多くの民は彼らに隷属していくことになる。こんなことが許されてよいのか、とハバククは問う。つまり、神は本当に正しいのか、あるいは本当にわたしたちの神であるのか、と。
もちろん、ハバククは自分を棚に上げているわけではなく、12節には「主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らをたてられた」と自分たちの責任を認めているのである。
しかし、預言者は自分たちの責任を認めつつも、これで終わってはたまらない、わたしたちの可能性がこれで終わってしまうことに甘んじるわけにはいかないと叫ぶのである。つまり、ハバククは謙虚に見えて謙虚ではない。謙虚というのは、一つ間違うと、自分を滅ぼし、未来を封じてしまう可能性がある。謙虚の徳は、それと同じくらいの疑問や問いかけが背後にないと、実は危険である。あるいは信仰を伴わない謙虚さは単に自己の放棄となる可能性があるということだ。
つまり、ハバククにとっての神への問いや嘆きは、そのこと自体が、自分の未来を開いていく道なのである。一般に、嘆きということは今の状態がつらく悲しい中で、それに耐えきれないことを示す強力な表現である。この嘆きが安易に扱われるとき、人は自己自身を見失い、世界に対する関心や期待を、ひいては神への信を見失うだろう。あるいはこの嘆きを押し殺したとき、その人はおそらく病むであろう。その病はおそらく絶えざる自己否定へと導く。旧約聖書が、とりわけ詩編が、そうした嘆きに満ちていることは言を俟たないが、預言書の一部やヨブ記も嘆きを中心に据えている。いや、もっと広くい言えば、旧約聖書は嘆きと問いとから始まると言ってよい。これは旧約聖書が「健全な」書物であることを示している。わたしはこれまで詩編その他の嘆きのリアリティに疎かったことを告白しなければならない。つまりなんでこんなにもくどくどと嘆きを語るのかと、訝しく思っていた。しかし、これがなかったなら、どうなったかを考えてみた時、すべてが氷解した。つまり、この嘆きを表現しえたことが、あるいはこうした問いを問い続けたことが、イスラエル民族を、多難な世界史の中にあって、生かし続ける力だったということに思い至ったのである。こんなことは多くの人々にとって初歩的なことかもしれないが、わたしはようやく実感としてわかったのである。
このハバクク書も出だしは嘆きであり、今日の単元はその二つ目である。ここでは要するに神の全能を信じながら、その信じる者を見捨てることなどあるのだろうかと問う。彼はこうして、自分の嘆きをあるいは民族の嘆きを代弁して、語る。すると、神が応答したという(2章2―4節)。ここからはいかにも預言者に与えられた言葉であり、非常に奇想な表現である。すなわち「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ」(2節)というのである。「走りながらでも」とは、おそらく破壊や離散の速さに勝るように、緊急事態にも大丈夫なように、わかりやすくはっきり記せということだろう。時代の流れの速さは言葉の表現をはるかに超えることがある。言葉は歴史に追いつかないのだ。例えば日本の明治維新の時代や敗戦前後の数年を思い浮かべればよい。瞬く間にことは起こり、破壊があり、敗北があり、また刷新があるが、それにただ巻き込まれ、何もなすすべがないというのでは困るのだ。だから、新しい幻(すなわち言葉)を手短に記せという。ただし、その幻の中身ははっきりしない。ただ、「定められた時のためにもう一つの幻があるからだ」という。これはおそらく新しい世界の幻であるが、「それは終りの時に向かって急ぐ」と訳される個所の意味がわかりにくい。おそらく起こるべき未来の出来事は、実は差し迫っていることを意味するだろう(ただし他の訳もありうる)。
少し脇にそれますが、このハバクク書にはすでに死海文書の中に注解が残されている。20年以上も前に読んだことがあるが、現在の旧約聖書の原本は紀元後1000年を経た写本だが、それよりさらに1000年前のハバクク書の一節一節に黙示的解釈がなされ(この本文は皆さんの旧約の原本とは相当異同がある)、カルデアをローマと思われる「キッティーム」(キプロス島)と解釈し、この幻も自分たちの未来を約束するものと解釈している。つまり、ハバクク書(に限らないが)は非常に古くから解釈されてきた。私たちはこれをもちろんかつてのように黙示的に解釈することは、ためらう。それはあまりに恣意的だからだ。では、この書は何を読み取る、あるいはどう解釈すべきだろうか。
それは、おそらく幻という言葉にかかっている。幻とは幻覚、あるいは夢といった非現実的、つまり、今目の前にある現実とは隔たった何かであり、普通は効力のないもの、あるいは現実に対して敵対的なものであり、危険でさえあると見られる。しかし、現実が嘆きに満ち、命が脅かされているなら、この現実に対する幻を見る、あるいは獲得することが、必須である。そして、おそらく嘆きや問いこそが最終的に幻、あるいは新しい世界、幸福の約束を必ず見出させてくれるということだ。これを神学的に表現すれば、本日の個所の最後の言葉になる。すなわち「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」という言葉である。これは一般的な表現に見えるが、そうではない。すでに見たように、これは、幻が与えられたことによって、この現実を耐えて乗り越えて「生きる」ということである。そしてここでの信仰とは神に向かって嘆き、かつ問うことである。つまり嘆きや問いは信仰の大きな一部をなすということである。
信仰の具体的な内実は、実は多岐にわたるのであり、ひとことで何が信仰であるとは言えない。ただ、神に向かって嘆き、問いただすという営みは信仰の一部であるとは言える。そしてそうした嘆きや問いを通して新しい幻を獲得するなら、私たちはそこに神を実感するのである。そしてその嘆きや疑問の中にありつつも、新しい未来にむかって生きていくことができるのである。
最後にもう一度、4年前のことに戻りたい。あの3月11日の悲惨となお続いている原発の危機という大きな課題を前に、私たちは当事者の嘆きと問い、そして私たち自身の嘆きと問いを忘却することはあってはならない。なぜなら、与えられるはずの幻さえ獲得できず、かえって自分たちを停滞の中に、あるいは危機の中に放置させるから。
ハバクク書のテキストは、テキストの保存の良しあしはともかく、わかりやい言葉であるが、そこには信仰の意味について深い示唆があるように思われる。