砧教会説教2015年3月22日
「神の国は、見える形では来ない」
ルカによる福音書17章20~37節
今日も比較的大きな単元を取り上げました。新共同訳の見出し沿って取り出してみましたが、この単元は20―21節とその後とを分けて考えることもできます。現に、フランシスコ会訳は、これらを別な単元として見出しをつけています。新共同訳はネストレ版のテキストに倣って同じ見出し(「神の国が来る」)ですが、そのネストレも一応20―21節と22―37節に区切りを入れています。この単元の理解は、一定の慎重さを要すると言えそうです。
一般に、このルカのテキストは、一応マタイ24章と並行しているとされ、さらに背景にマルコ13章14―23節があるが、これらの個所とは相当隔たりがあるように見えるのである。ルカは例によって、マルコをもとにし、さらにマタイも参照しながら、非常にルカらしく編集しているように見える。しかも単に編集しているのではなく、然るべき主張を入れているのである。それが本日のタイトルの句である。これは他の平行個所にはなく、ルカ伝承に残るイエスの言葉と見られる。この個所の主張と、22節以下の「人の子」(メシア)の到来に先立つ世の終わりの描写とがどんなかかわりがあるのかが、まず問題となる。
この「神の国は、見える形では来ない」という発言は何を言おうとしているか。まず、ファリサイ派の人々が神の国はいつ来るのかと尋ねたので」(20節)とあるように、当時の流行していた終末論的観念に基づいて、来るべき時がいつ来るのかが問題とされている。こうした問いがファリサイ派にどれだけ真剣に問われていたか疑問もあるが、ダニエル書12章に見られる通り、時を数えるという強い意識を一部の人々が持っていたのは確かである。時を数えるという意識は、現在の苦難と抑圧が新たな局面を迎えることを固く信じている人々、神の支配の到来をありありとイメージしている人々に生じるものであろう。彼らにとって、こうした神話論的とさえ見える終末像は、客観的に起こることであり、経験できることと信じられているが、イエスはこうした彼らの意識からでた「いつ」という問いに対して、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(21節)と非常に決定的な言葉を告げたのである。この言葉の趣旨はすでに11章20節に見られるともされる。「神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたの間にすでに来ている」という言葉は、神の国はすでに実現がしつつあることを意味する。しかし、これはどちらかと言えば客観的な出来事を通じての神の国到来の証拠であり、17章21節の言葉とはニュアンスを異にする。17章21節は、悪霊退治のような奇蹟的治癒とは関係なく言われているように見える。むしろ客観的な出来事とは別の、一つの共同主観的な事態、つまりイエスの周りに集まっている、ファリサイ派の人々も含むイスラエルの共同体において実現している事態である。それは信仰共同体と言ってよいものだ。信仰とは言わば共同主観的な事態であり、一つの神をみんなで共有した瞬間に生じる新しい世界である。それは言葉の真の意味で「カルト」と呼ぶべきものであり、あらゆる宗教に共通する。「イワシの頭も信心から」と言われるように、節分の日に飾るイワシの頭も、それを信じた共同体にとって一つの呪物というか魔よけの力を有するように、その中心となる事物はおそらく恣意的かまったく偶然的なものであろう。
しかしながら、イエスの言う神の国とはもちろん呪物崇拝のような原始的な、あるいは偶然的なものではない。これはすでにモーセに始まる、古代イスラエルの超越神信仰を前提にした、洗練された「信仰」であり、そこには超越神と創造された世界や人間とのかかわりという非常に高度で抽象的な神学が前提されている。もちろんそうした抽象性をイエスに従った民衆たちが理屈で理解していたなどとは想像できないが、それでも彼らの生きていた生活世界の中にはそのエートスが生きていたのは間違いないだろう。とするなら、ルカの伝えるこのイエスの言葉は、「あなたがたの間」すなわちファリサイ派の人々に代表されるユダヤ教の伝統を守っている人々にとってすでに実現していることを確認することばであると見てよい。つまり、イエスは敵対すると見られるファリサイ派の人々に、あなたたちの共同体は神の国であることを告げている。ということは、「いつ」という問いはもはや無効であることも同時に告げている。
ただし、この重要な言葉がファリサイ派に向けられた確認の言葉だとするだけで満足することもできない。聴衆はファリサイ派だけではなく、弟子もおれば、イエスに従う民衆もいる。彼らも「あなたたち」の一部という感覚を持ったとすれば、この言葉の射程はより広くなる。つまり、論争をしかけるファリサイ派にとっても、民衆にとっても、これまでのイスラエルの伝統を振り返り、そこに流れる信仰の伝統に気づくという条件付きではあるが、神の国はすでにその間にあるのである。
イエスは、こうした気づきへの促しをひたすら続けたように見える。つまり、イエスには新しさは無いように見える。しかしそれは誤りである。かつて、モーセは出エジプトという場所的移動を通じて神の支配の実現を宣言した。そしてそれは客観的な土地取得を通して政治的主体としてのイスラエル王国となった。やがて没落するとは言え、自分たちの信仰は実体を持たなければならないとの主張は強固なものとなった(これは時を経てアメリカのキリスト教の本質をなしていく)。イエスの時代にはそうした主張は一部の人々に非常に強烈に影響を与えていた。ファリサイ派はそうした実体としての王国の実現を主体的に担うこと、つまり何らかの武力闘争を通じての実現といったものを主張しはしなかったが、将来的な神の介入による実現を想像していた(だからこそ「いつ」という問いを表明した)。これに対してイエスは、神の国は文字通り、あなたがたの間に実現しているというのである。つまり神の国はファリサイ派も含め、イエスの周りに集まってともに分かち合う共同体を形成する限りにおいて(ここでは必ずしも明確ではないが、これまでのイエスの活動からして)、実現している。つまり、これは政治的主体になる、国家となる、あるいは少なくとも厳しい宗教的戒律を守るといったある種の客観的実体を保持すること以前に、神の支配は実現していると言えるのだ。イエスは、とかく実体としての国家や目に見える形によって確認したいと願う人々に対して、そんなものは無いと言い続けてきた気がする。それどころか、そうしたものにすがること自体に極めて否定的である。だから神殿など本来どうでもいいとさえ考えている。もちろん、こうした態度は、十戒の第二戒に関わる主張と解説することもできるが、そうした、戒律に照らしてという律法主義的な態度に由来するのではなく、むしろその戒律それ自体が由来する真理に基づくと言うべきであろう。それは、われわれなら「自由への意志」とでも呼ぶべきものかもしれない。イエスはそうした真理に触れており、つねにそこから言葉を紡ぐ。このような点で、モーセに比肩する預言者であることは確かである。
しかし、彼はそこにとどまらない。この「神の国はあなたたちの間にある」という発言の舌の根の乾かぬうちに、終末の到来を続けるのである。これはどういうことなのか?結局イエスの神の国は将来の終末的自然災害の後におこる人の子の到来によるのか?この22節以下の断章はノアの物語とロトの物語を組み合わせているが、まず、人の子への言及から始まる。これをイエスとみなすか、それとも将来の姿なのかが疑問である。いずれにせよ、人の子の出現は天変地異を伴う。こうしたイメージは、さきにのべた「神の国」とは大きく異なる。これはルカ特有のファンタジーのにおいもする。ここでの災いは洪水と火山噴火二つであるが、これは旧約の預言者伝承による「主の日」表象の流れの一部である。これはメシアの到来の前に民衆に心構えをさせることを促す、一種の脅し文句である。終末が迫っている。ただし、自分の命を救おうとじたばたするのは無駄である。本題とずれるが、このテキストは、我々の時代のあの震災の惨禍を想起させる。3.11の天災において、何かに囚われることは死を意味した。後ろ髪を引かれるものは死んだのである。現実としてそうだった。だとすると、この個所は主の日のイメージに依存しつつも、何らかの現実を表現しようとしているかもしれない。とすればそれはこれから始まる、あるいはルカにとっては終わっているあの対ローマ戦争(ユダヤ戦争)を重ねていると言えるだろう。
こうした背景とつなげることによって「神の国」があなたたちの間にあるという言説の意味をより深く理解することができる。つまり、このような激動にあっても、神の支配はそれを貫いて存在する。それは客観的な制度や儀式とは別に、聖書に連なるものがすべて主体的に気づく限りにおいて、すなわち回心する限りにおいて、実現するし、している。さらに、この「神の国」は今のわたしたちの時代にとどまらずに、未来においても引き続き実現することを暗示する。
神の国の実現という主題は、新約聖書において極めて重大なものであるが、これは客観的に起こるかのように見えながら、それは結局のところ、各人の気づきに基づく。それを呼び起こすのがメシアの役割である。しかし、ここでも暗示されている通り、メシアの苦難という出来事をついに経ることなしには実現しない。この大きな矛盾を深く心に刻むことがレントを過ごすわたしたちキリスト者の課題であることは確かである。
あらためてこの受難節の意義をともに分かち合えればと願う次第です。