砧教会説教2015年3月29日
「捕らえられたメシア」
ルカによる福音書22章39~62節
今週は受難週ということで、イエス逮捕の記事を取り上げました。今日の個所は「オリーブ山で祈る」「裏切られる」「イエス、逮捕される。ペトロ、イエスを知らないと言う」という三つの単元から成っています。最初の単元は、平行するマルコ、マタイの福音書ではゲツセマネの祈りとなっており、しかも両福音書では、イエスが受難への恐れから深刻な祈りを捧げている時、弟子たちは寝てしまっているという、非常に対照的な描写をしています。ここにはいわゆる「弟子の無理解」とういモチーフが出ているのですが、明らかに意図的な描写と見えます。これに対し、本日のルカの個所では、イエスの最後の祈りと見られるこの祈りの場面は、それほど劇的に描かれてはおりません。場所はゲツセマネではなく、オリーブ山とされていますが、これはマルコとマタイではこの記事に先立つ個所で言及されている場所です。ただし、オリーブ山のふもとがゲツセマネなので、必ずしも大きな差があるわけでもありません。ルカはゲツセマネという「低い場所」でなくオリーブ山という「高い場所」を意図的に選んでいるのでしょう。そして、「いつものように」とか「いつもの場所に」などと、日常の祈りをするかのように淡々と描いている。しかし、イエスは「誘惑に陥らないよう祈りなさい」との一言を残して、かなり離れた場所に移動する。そして深い思いに満ちた祈りをささげたと言う。すなわち「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈る。この祈りはマルコもマタイも同様な祈りを伝えている。ただし、この祈りを聞いた人はいないはずであるから(弟子たちは寝ていた、あるいは遠く離れていた)、これは別の場面でのイエスの祈りをここにあてはめたものだろう。とは言え、この祈りはイエスの最後の祈りとして、ある真実味を帯びている。それは毒杯を飲まざるを得ない、つまりは死刑となるという極めて深刻な事態を前にしたメシア的人物の偽らざる境地を表しているように思われる。
私たちは素直にこの言葉に感動し、最期の時、極限の場面でこの言葉を祈れたら良いと思ったりします。しかし、続く43―44節を見ると、「天使が現れてイエスを力づけた」とあり、また「イエスは苦しみにもだえ、……汗が血の滴るように地面に落ちた」とあり、ある種の激情のほとばしりが表現されている。もちろんこれはルカの表現だが、やはりここにはメシアの苦しみの深刻さが伝えられているように思われる。私たちはこの祈りをイエスの受難の歩みから切り離し、文脈を変えて読む時、恐らく誤読や誤解をしてしまう。何か信仰的に深く、かつ崇高な祈りとして受け取りたいと思ってしまう。しかし、この43―44節を含めて、受難の文脈のなかでこのイエスの祈りに触れたとき、わたしたちはメシアとしてのイエスの恐れや不安、そして孤独が、思いのほか強烈であったことを知る。同時に、この祈りは一連のイエスの活動の終りではなく、むしろその後に始まる新しい世界に向けての備えの一部であることも暗示されている。それは「御心のままに行ってください」と言うイエスの言葉にこめられている。神の意志として行われるはずのイエスの受難を経て、世界は変わる。つまり、この祈りはイエス自身の終りの言葉であるように見えながら、逆に始まりを指し示すのである。「御心のままに」ということばは自分の生涯を閉じる際の最後のあきらめ(付記:これは仏教の用語では断念ではなく、顕らかになる、つまり悟ったことの意味)なのではなく、この後に続く将来の世界をあなた(神)の良いとするよう作り上げてくださいという願いである。だから、イエスの祈りは終りやあきらめなのではなく、新しい世界の始まりを呼び起こすものでさえあるのです。
さて、このあとイエスは弟子たちのところに戻ると、他の福音書の平行記事とは違って、弟子たちはイエスの深刻さを理解せずに寝ているのではなく、彼ら自身もイエスと同じ悲しみを抱き、その「悲しみの果て」に疲れて寝込んだとされている。最後のイエスの言葉は再び「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」である。これは事実上イエスの遺言と言ってよい。これはやや漠然とした言葉であり、どんな誘惑かはわからない。そのため非常に恣意的に利用できる言葉である。ニコス・カザンザキス原作の映画『最後の誘惑』ではイエスが普通の男としての生涯を十字架上で望んだという筋書きだった。凡庸な生涯を望むイエス。こうした解釈も可能だ。しかし、ここでの誘惑はもっと具体的かもしれない。それはイエスと共に作ってきた小さくとも慈愛にあふれ、ともに分かち合う共同体を、この世の権力や伝統の力の前で、放棄していくこと、長いもの力ある者、暴力やしきたりの名による差別や抑圧に屈服すること、そして与えられている命を活かすことを放棄すること、であると思われる。だから「起きて祈っていなさい」というのです。
祈ることを忘れたとき、わたしたちキリスト教徒は事実上死ぬのである。なぜなら祈ることはいかなる状況であれ、まだ神とつながっていることの確認そのものだからである。それを忘れたとき、断念した時、私たちは終わる。未来も閉じられる。そのような事態を19世紀末デンマークの思想家キルケゴールは「絶望」と呼び、それを「死に至る病」と名付けたのでした。要するに、祈りとはキリスト教の運動としての側面を示すものです。キリスト教の理念は信仰・希望・愛ですが、これを受け継いでいる団体として教会の動力の源は「祈り」なのです。そこには言葉だけでなく、いわゆる捧げもの(献金や奉仕)という行為も含まれていることは言うまでもありません。これらなくしては、キリスト教の理念を実現することはできないと言ってよいでしょう。だからイエスは最後にこの言葉を残したのだと思います。
さて、この後、ついに裏切り者であるユダが群衆と共に現れると、イエスは一時始まった乱闘を一喝して止めさせ、ついに来るべき時となったことを宣言している。それが53節「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」という言葉です。時代の潮目は変わり、それを容易く変えることはできず、またそれを読むことさえ簡単ではないが、イエスはそれを見極めているかのようである。しかしそれは自分にはまったく不利な潮目だった。彼は逮捕され大祭司の家に連行されたという。ペトロも遠く離れて従って行き、大祭司の中庭にいる。そしておそらくイエスの成り行きを、知らぬふりをしつつ、見守っている。すると、自分がイエスの弟子だったことを言いふらす者が現れ、危険を感じた彼は、ついにイエスを否認する、それも三度にわたって。そして鶏が鳴いた。
その時である。「主は振り向いてペトロを見つめられた」(61節)のであった。これはルカの脚色に違いないが、いかにもルカらしい、劇的な場面である。他の福音書には無い。だれしもが想像するだろう。イエスがどんな目をしてペトロを見たのだろうか、と。憐れみか、怒りか、悲しみか、それとも成るようになったことの確認の目か。いずれにせよ、ルカは改めて読者に、イエスの受難に対してあなたはどうするのですか、と問うのである。あるいは、あなたはペトロなのではないかと問うのである。さらに、その弱いあなたを、やはりイエスは見ているのだ、ということを想起させるのである。
実にルカらしい物語である。創作であるとは言え、そこには創作を越えるリアリティが感じられる。ルカの文学的想像力のすごさについては再三教会でも話してきたが、本日のこの個所もやはり衝撃的である。
ここで一言だけ、このイエスの眼差しに触発されて思うことを述べておきたい。それは今般の沖縄の辺野古の基地建設にかかる沖縄県民の動きについてです。去年の選挙で自民党の候補者が国の政策としての辺野建設に真っ向から反対して勝利したのでしたが、つい先日工事の差し止めを命じました。しかし、これが効力を持つわけでもありません。第二、第三の矢を放つのでしょう。しかしことは深刻であり、戦後の沖縄の困難がさらに増幅していく(たとえ普天間の危険は緩和されるにしても、結局沖縄内部での基地のたらいまわしは変わらない)。比喩的に言えば、沖縄県民は逮捕されたイエスであり、あるいは現在の知事もそうかもしれません。私は今、改めて「振り向いたイエス」の視線を、沖縄の状況を通して感じています。そして今恥ずかしながら、ペトロの位置にいることを告白せざるを得ない。
この「振り返るイエス」の視線を、皆さんそれぞれ、より個人的な場面で、あるいは教会生活において、感じとることがあると思います。そして自分がペトロの立場にいることに非常に暗澹たる思いをする瞬間があるのではないでしょうか。私は、しかし、それを責めたり、それこそ罪だとかいって糾弾したり、だから悔い改めるべきだ、など言うつもりはありません。なにしろ自分もその立場なのですから。
だとすると、どうしたらよいのでしょうか。簡単なことです。今度は自分たちがその苦しみの原因をなくすために立ちあがるということしかありません。あのメシアの苦しみによって救われたなどと軽々に言ってはなりません。自らを救うのは、じつはメシアの苦しみに自分も参与することによって、なのです。メシアの苦しみを背負うことが逆説的に自分を救うのです。これの逆説を理解しないキリスト教は全くの偽物です。自分の十字架を背負うことが自分を救うこと、なのです。ただし、注意が必要です。メシアの苦しみに参与することと、殉教することとは違います。それでは単なる反復です。キリストの苦しみに参与するとは、あの受難を繰り返すことではありません。むしろそれを繰り返さない仕方で担うことが必要なのです。このことについてはまた別の機会にお話しするつもりです。
私たちは「振り返るイエス」の視線がルカの創作だと感じますが、そのリアリティは全く本物です。ルカは、イエスの伝記を書いているふりをして、イエスの真意、あるいはキリスト教のリアリティを伝えているのです。だからこそ、この振り返るイエスは私たちに時を越えて問い続ける。あなたたちはわたしを本当に見捨てるのですか、と。同時にまた、あなたたちよ、わたしのために立ちあがってほしいとも願っている。それは前半でお話ししたことです。つまり「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」ということです。
おそらく振り返るイエスは問いと求めの二つを訴えているのである。そしてペトロは嘆きの後、そして十字架の出来事の後、ついに彼は立ち上がるのです。ただ、その前にもう一つの信仰上の出来事が起こる。それが次週のイースターに伝えられている出来事であることは言うまでもありません。
この受難週の時、あのイエスの最後の勧告と、大祭司の家に連行された時にふと「振り返るイエス」の視線を、わたし自身も含め、皆さんそれぞれが置かれた場所で、思い起こし、かつその言葉と視線に応答することが求められていると言ってよいでしょう。