砧教会説教2015年4月12日
「喜びを増やす生き方」
箴言15章13~33節
伝統的にソロモン王の作とされる「箴言」ですが、もちろん一部はソロモンの作とみてよいとしても(10章―22章16節、25―29章27節など)、それらも含めてイスラエルを含む古代近東の様々な「知恵」を集めた書物である。なかでも22章17節―24章22節、24章23―34節はエジプトの知恵文学のひとつ『アメン・エム・オペトの教訓』と並行している。これはソロモン王の時代より少し遡るか、同時代のものとされる、ソロモン王とエジプトとの深い関係を示唆するものです。
さて、本日はソロモン自身が著したとみられ集成の一部です。本当は15章全部を読みたかったのですが、礼拝ではやや長いので、後半を読んでいただきました。全体として、この章は社会や共同体のなかでの生活についての心構えのようなものをまとめています。15章の1節には「やわらかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる」とあります。実は今日この章を取り上げたのは、自分自身を反省するためでもあります。私自身非常に短気で、売られたケンカは必ず買うという性格でした。もちろん暴力的なことは避けますが、それでもいざとなったら体を張るという決意のようなものをいつも持っていた気がします。しかし、確かに不当なことに対する怒りと反発は自然であるし、むしろそれをごまかしてしまえば、自分がその不当さによって損をするので、然るべき対抗をしなくてはなりません。しかし、その際の対応の方法、というか心構えというか、あるいは技術というか、これが適切なものかどうかもまた大きな問題です。不当なことに申し立てする場面だけでなく、自分とは意見が違うといったような、損得とは別の場面での対決においても、そうした方法、心構え、技術は、非常に重要であると思います。
それは今風の言葉でいえばコミュニケーションの熟練、あるいはリテラシーといったものも加えています。私たちはそれをしっかり身につけることがないと、普段の生活から国家同士の関係に至るまでの対立や抗争を解きほぐすことができない。むしろ、それらを増幅する可能性すらあると言ってよい。
これに対して、ソロモンは「やわらかな応答は憤りを静め……」という。この「憤り」という語は「毒」の意味もあり、感覚的には、憤りは体をむしばむものとしてイメージされます。これに対して柔らかな応答が大事である。これは今はやりのカウンセリングや、たとえば企業のお客様相談室などの担当者の基本的な姿勢であるが、こうしたことは昔からの教訓でした。これに先立つ14章30節には「穏やかな心は肉体を生かし、激情は骨を腐らせる」という言葉は、より刺激的です。
さて、今日の題は「喜びを増やす生き方」としました。今私たちの身の回りも、あるいは広く日本や世界を見渡しても、何だか物騒なことが多いし、いやな感じのニュースが多い気がします。しかし、それはやや一方的な見方や一部を切り取った情報によって翻弄されているという面も強い。一方で、本当に危険なことや不当なことが、一部の大げさなニュースによって隠されていることもあります。私たちは今、情報の過多によって疲れ始め、手触りのある、あるいは目に見える、あるいは耳に聞こえる相手、そして自分自身の体をいつも何らかの情報を仲立ちにしながら、見たり感じたりするようになってしまった。その中で、多くの実感とかまっすぐな喜びといったものを感じとれなくなってきています。
私たちはそういう時代だからこそ、聖書を読みたいと思うのです。なぜなら、古代イスラエルの人々の日々の生活や歴史の歩みの中から残された、優れて肌触りのある言葉が、そこには記録されているからです。
その中心には、いかなる困難にあっても、喜びを見出すことを忘れないということに有る気がします。それは時にユーモアとも言うべきものです。
さて、13節に「心に喜びを抱けば、顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈み込む」とあります。全くその通りです。その喜びの元が何であるかは、ここには有りませんが、言外に有るのは「命の神」への信仰であるのは間違いありません。以下、ほとんどすべて対句の形で様々なことが対照されて行きます。14節では聡明な心と愚かさが対照されていますが、この聡明とは、思慮深さのことです。向かってくる諸問題に単純に応答するのではなく、あらゆるファクターを念頭に置いて適切な対応を図ることを求めている。15節では、たとえ貧しいとしても、心の朗らかさが日々を宴会に変えるという。貧しいという言葉は相対的な言葉で、それ自体で意味を持つわけではなく、「貧しい」とは常にだれかとの比較するなかで劣位である状態を意味します。「貧しさ」は飢えている、とか渇いているという生きる困難を直接表す言葉ではなく、比較的な主観的判断です。これに奔走され、かえって苦しくなることは私たちの日常でもよくあることでしょう。相対的な貧しさにつぶされていく、つまり、貧しさの自己意識は相対的な豊かさを羨み、嫉妬し、やがて自分を見失うのです。しかし、心朗らかである者、つまり相対的なものに惑わされない人、何かとくらべて一喜一憂しない人は、かえって豊かであるということです。
続く16節、「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方が良い」。これは単なる負け惜しみにもとれるが、もちろんそうではありません。富める者はそれを失うまいとして、自らの外部を敵として、恐れることが常である。富は大切だが、それにこだわる時、ひとは他者を敵とみなすのだ。しかし「主を畏れる」者は、富があろうとなかろうと別な豊かさを持つのである。17節も同じ色調である。これはイエスが後に「(心の)貧しい者は幸いである」といったことを深くかかわる。イエスの八福(マタイ伝5章)は、やや唐突な感じがするが、この箴言と併せて考えると、よくわかる。つまり、「主を畏れる」ことを基に置くなら、いかなる状況にあっても、幸いはこちらにあるのです。
18節は1節の変奏で、「激しやすい人」と「忍耐深い人」が対照されている。またまた自分を顧みざるを得ません。ただ、一方で、旧約の神ヤハウェはどちらかと言うと激しやすいような気もします。かつて「ねたむ神」と訳された出エジプト記20章5節は、新共同訳では「熱情の神」と訳されるが、この熱情を人間の激情に重ねる場合もやはり有ると言うべきで、たとえば民数記25章10章のピヌハスへの評価はそれを物語っています。すなわち、バアル崇拝に堕落したイスラエルへの災いを鎮めるため、ミディアン人の女と連れ立ったイスラエルの男を殺した事件です。このような熱情は、非常に危険であるが、一方にはそれもあるということ。もちろんピヌハスの話は神の怒りを鎮めるための犠牲であるが、それでも、この物語は危険な香りをぬぐえない。私たちはこのような断固たる裁きを期待することが多いが、非常に危うい罠であることが多いと感じます。このような危うさは、交読詩編にも出てくるので、深刻です。ただもちろん、神ヤハウェの称号には「怒るに遅い」というのもあり、実は、寛容さが強調されることが多いとも言えます。
19―22節にかけては怠惰、愚か、意志の弱さ、身勝手な判断に言及する。これらはすべて、与えられた、ないし創造された命を無駄にすることであり、かつ命あることの喜びに気がつかない姿である。喜びを増やす生きた方とは、つまり、起き上がり(復活)、知恵を身につけ、前進する意思を持ち、互いに相談しあって決断することによって未来を切り開いていくこと、あるいはいかなる困難にあっても、あきらめることなく耐え抜くということでありましょう。
23節前半の逐語訳は「喜びあり、その口に応答のある人には」だが、意訳だとたぶん新共同訳で良い気がします。フランシスコ会訳は「人は自分の言葉を喜ぶ」。いずれにしてもわかりにくい言葉です。24節も「目覚めている人(マスキール)」がどういった人を指すかやや分かりにくいが、これは14節の「聡明な人」、つまり知恵のある人を言い換えていると見られます。
25―29節は全体として神に忠実である者とそうでない者を対比しています。「傲慢な者」(25節)、「奪い取る者」(27節)は預言者が一番厳しく非難した者たちです。賄賂をとる者も言及されているので、全体として役人への言及かもしれない。
30節の「目に光を与えるものは心を喜ばせ」の「目に光を与えるもの」「良い知らせ」が具体的に何を指すのかわかりにくいが、前者は「神の支配する美しい世界」、良い知らせは、「神の支配、神の国の到来のしらせ」つまり「福音」といってよいのではないか。ただし、やや新約聖書的に過ぎるかもしれない。むしろ、ソロモンの神殿や都エルサレムの美しさとダビデ王朝に示された契約のことかもしれません。
31-32節には「命を与える懲らしめ」と「懲らしめ」とあるが、これは一般的には罪に対する罰です。しかし、個人の罪に対する罰だけでなく、イスラエルの歴史的な審判による苦難も含むと思われます。こうした苦難の意味を知る、ないしこれに聞き従う人は「心を得る」という。つまり、苦難の意味を知ること、いや、少なくともそれを問い続けることがなければ、その人は、あるいはその社会は、本当に生きたことにならないということです。
最後の33節では、知恵の根本に言及する。つまり主を畏れることである。それゆえに、人間の根本的態度は自己の名誉や誇りではなく、謙遜であるという。なぜなら、一人ひとりの人間の名誉や栄光は本来的にはその人のものではなく、神の力によるものであるから。
さて、本日の題「喜びを増やす生き方」についてあらためて考えてみると、やはり、喜びの源は実は主を畏れることに始まるということに気がつく。喜びを、自らの名誉や富、そして権力といった自分自身の拡大、あるいは他者との比較による優越感のようなものに見出すことではなく、むしろ、謙虚であること、忍耐すること、つまりは知恵を持つことによる徳の高まりをもとに、互いに協力し、互いに相談し合うことによって相応しい決断のできる共同体の形成こそが生きる喜びである。喜びとは「何かを持つこと」も含みますが、しかし、それによっては到底太刀打ちできない、本質的に実体あるものです。それは言うまでもなく「教会」です。もちろん建物のことではありません。それは全くの他人同士(必ずしもそうではありません)が、今日も互いにこの場に集い、賛美をして言葉を学び、祈りを捧げること。これらに基づいて礼拝を捧げることが、喜びを増やす生き方の中心にあると言ってよいでしょう。
復活節の折、『箴言』を通して今一度幸福と喜びの源泉を尋ねてみました。