日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年4月19日
「魚を食べるイエス」ルカによる福音書24章36―49節
 今日のこの話の前に、二人の弟子がエマオ村に行く途中で、イエスに出会った話があります。この話は、なかばユーモラスでありながら、やはりどこか大真面目でもある。不思議なことに、この二人はイエスの生前の姿を覚えていないのだ。だから、誰と話しているのか気がつかない。しかし、気がつかなくとも「私たちの心は燃えていたではないか」と振り返っている。そう、誰かと、あるいは何事かと出会って、心燃えるときが誰にもあるが、この時わたしたちは比喩的に言うなら、イエスに出会っているのかもしれない。つまり、イエスとの出会いとは、特に復活のイエスとの出会いとは、誰かの、あるいは何かのおかげで、自分たちが絶望から立ち上がった時、その後に「ああ、あれが復活のイエスとの出会いだった」と気付くようなものかもしれません。
 エマオ途上の物語は、決して面白おかしく書いているだけではなく、自分たちが「心が燃えた」時を振り返った時、事後的にイエスの復活に気づくという根源的な事柄を告げているのでしょう。
 さて、今日の話はこの後に続く、これまた不思議で半分冗談のようなお話しです。なにしろイエスが焼き魚を食べたというのです。もちろんこれは作り話です。ルカお得意のファンタジーです。だからと言って意味が無いと言うのではありません。ここには非常に重大な意味が込められていると思われます。ルカは誕生物語にその筆の力をもっとも注いだと思われますが。この復活と昇天、さらに聖霊降臨の物語にもその文学的想像力を存分に発揮しています。この感想は以前にもお話ししました。
 では彼は何をこの不思議なお話しに込めたのでしょうか。
 結論的に言えば、イエスの復活とは「体の蘇り」でなければならないということです。イエスが幻や夢、あるいは幽霊のようなものとして現れたのではなく、肉体をもって、つまり物質として出現したことを主張している。そのことを信じさせるのが焼き魚を食べて見せるという彼の行動です。弟子たちは手や足をみせて蘇りを主張するイエスにたいして、「喜びのあまり信じられず、不思議がっていたので」焼き魚を食べて見せた。ルカは、イエスが死から蘇ったことを、ひたすら肉体を持った復活であると主張するのです。
 なぜでしょうか。これはおそらくこういうことです。当時のヘレニズム世界において、いわゆる魂の不滅ということはおそらく常識だったと思われます。だからこそ、実は死への恐怖は別の意味で克服されていた。つまり霊魂の永遠を信じることで、肉体の滅びとともにすべてが消えてなくなるというニヒリズムをひとまず乗り越えることができたのです。このような霊魂不滅の考え方は、長く人類を支えている世界観・人生観であるから、一概にどうのこうのとは言えません。例えば、私たちの国では死んだら草葉の陰で見守っている、すなわち非常に近くに死者の霊が存在すると考えていました。死者は実際、古くからの農家では敷地内の一角に土葬しました。沖縄では海辺で鳥やその他によって遺体の始末をすませ、やがてはその骨はきれいに洗われて巨大な洞窟型の祖先の墓に埋葬されますが、然るべき日には、その墓の前で供養しつつ皆で食事をし、騒ぎをする。祭りは死者供養の意味あいが強いのです。
 これに対して、ルカは、当時の世界理解というか、人間理解というかに対し、真っ向から意義を申し立てたのです。私たちの主イエス・キリストは、この世を離れて霊魂として復活し、霊的な、目に見えないものとして夢や幻に現れるだけではない。肉体を持ってこの世に復活することをルカは打ち出したのです。肉体を持つということは何を意味するか。これはこの世を生きるということである。つまり、死んで黄泉の国に生きるのでもなければ、天国で生きるのでもない。あらためてこの世に責任を負うということです。ルカの描くイエスは死んで蘇って、この世に関わりを持っているのです。そのことをわかりやすく描いたのが、この魚を食べるイエスの姿です。
 しかし、イエスが体ごと蘇ったことの意味は、それだけではありません。ルカの理解するイエスは自らの生涯が途上で終わったことを意識しています。つまり、彼が肉体をもって蘇ったのは、自らの任務が終わっていないことを示している。十字架の死で中断した、この世の完全な救済への道はこれからも続くということです。はじめに取り上げた、先行するエマオ途上の物語では、「イエスはなおも先に行こうとしている様子だった」(28節)とあり、イエスは常に地理的かつ時間的に先へと行こうとしていたが、これは救済の過程がなおも続くことを暗示しています。つまり、ルカの考えるキリスト教とは、イエスの死と復活が罪の贖いであるとか、救いであるとかいうことと、直接には関係が無い。それどころか、復活のイエスに語らせているのは、あくまで未来の救済のことである。イエスの復活とは44節以下にあるように、「私についてのモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなた方と一緒にいた頃、言っておいたことである」とのべ、単に旧約聖書の預言の成就であるに過ぎない。むしろ弟子たちは、イエスがおこなった罪の赦しと悔い改めの運動、つまり、あたかも死後の安寧を意図しているようでありながら、実際にはこの世の生活を安全で平和に満ちたものに変える教会共同体の形成という活動を、引き続きして行かなければならないのです。
 こうして魚を食べるイエスの姿は、弟子たちに、そして読者に、それぞれが住む世界において、果たすべき役割を想起させるものとなります。もちろん、一般には、キリスト教は死後の安寧、天国への階段を約束する宗教であると思われています。ですから復活信仰は、最後の審判を経て、これを持てば死を乗り越え、その後の世界、死後の世界の安寧を導くのです。確かにそのとおりですが、このような考え方の客観的な目的は何かを問う時、審判と天国と永世の信仰とは、この世界の平和と安定にあるというべきものです。つまり、個々の人間が、審判と死後の永世を受け入れるとき、その代償として、この世の生き方をそれに適ったものにするよう努めるからです。したがって、結果的にこの世が平和で安全になるわけです。
 しかしながら、ルカの考える復活とはそのような水準のものではない。そうした死後の平穏といったものではなく、この世界での一人ひとりの尊厳と自由、そこから始まる人間たちの新しい生き方、新しい社会や共同体を実現するなかで、真にその働きを担う者は、死んでも、蘇るということです(これは以前お話ししたように、ダニエル書やマカバイ記Ⅱにでる義人の復活という信仰に由来するが)。これは明らかに奇想天外です。そして魚を食べるイエスはどうしても変です。しかし、体が蘇らなくて、一体どうして人々はこのような気宇壮大な目標、つまりこの世の平和を作りだすことに命をかけることができるでしょうか。単に死後の世界の平安などと言うだけで、あるいは靖国人神社に祭られるからというだけで、自ら国家のために戦うだろうか。結局それらは、自分をだますためにあるに過ぎない。自分をだましてその当該の国家や社会の奴隷となる。つまりはこの世に負けるのである。単純な霊魂不滅思想や審判と天国の思想では、この世の矛盾を変えていく力には、あまりならないだろう。それどころか、この世の矛盾を覆い隠す非常に危険な思想であることの方が多いのです。
 これに対して、体の蘇りの信仰は、再び「この世」を全うする可能性をもたらす。もちろんこの世は今の世ではない。自分の決断を通して、新たにつくりだされる世界です。残念ながら、それは現在生きているこの体のあるうちに実現するものではない。それどころか、その道のりははるか彼方である。しかし、体の蘇りを信じるものは、そのはるかな完成された新たな世界で再び生きるのである。これを、この世と連続しない、何か別の世界とみなすところから、キリスト教の失敗も始まったのだ。つまり天国思想である。天国を約束する代わりに、この世の苦難や矛盾を耐えなさい、という非常に単純な現状維持を結果としてもたらす思想である。伝統的なキリスト教はこうして「体制的」な、つまり、今ある世界を補完するだけの宗教になる。これに対して、体の復活とはこうした現状維持を突破する信仰である。イエスの十字架の死は、そこにとどまることはない。なぜなら、このような死こそ、あってはならないことなのであって、これは克服されるべきことなのだから。だから、ルカはこの生きているイエスを、つまり魚を食べる人間としての、物質としてイエスを提示したのである。もちろんこの世の完成は、彼方である。それでも、それはこの世を離れてはいない。それどころか、それを先取りする場所がある。それこそが教会である。教会はこの世の完成を先取りする。だからそこにはイエスを筆頭にすべての苦難を経験した、ないし経験している人々が、未来のこの世の完成を待たずに集える場所なのだ。だからこの場所は、重荷ある人は誰でも来なさいと言い続けるべき場所である。なぜなら、彼らこそ、未来が約束されているという逆説、すなわちマタイの八福を真理として受けいれることのできる人々であるから。こう言うとやや唐突かもしれない。しかし、復活のイエスは、ルカにとっては完全に体を持つ者でなくてはならない。体とはこの世を、あるいは完成されたこの世を生きるために当然無くてはならないものであるから。