日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2015年4月26日
「キリストのもとに一つにまとめられて」エフェソの信徒への手紙1章3~14節
 エフェソの信徒への手紙は18世紀までパウロの手紙と考えられてきたが、19世紀以降、聖書学の進展に伴い、著者がパウロであることはほぼ否定されている。この書は、パウロの神学の影響のもとに、しかもコロサイの信徒への手紙を下敷きに、小アジアの信徒への勧告としてパウロの名によって書かれたものと見られる。本日の個所は、典礼的な文章で、著者の考えるキリスト教理解の要約的なものと言えよう。
 ひとまず、節を追って見ていくことにしたい。3節では神がほめたたえられるべきことを願う。この際、神は「わたしたちの主イエス・キリストの父」としてある。言いかえればイエス・キリストは「神」の「子」である。そしてイエス・キリストは私たちの「主」、すなわち私たち信徒が従うべき主人である。3節後半では「わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」とあるが、よくわからない文である。「キリストにおいて」という日本語は未熟である。「~において」という表現をよく用いるが、正直どんな脈絡から出たのかよくわからない。フランシスコ会訳は「イエス・キリストに結ばれ」と関係を明確にして訳しているが、これも相応しいかやや疑問が残る。一般に「~において」という文は脈絡がわかりにくいどころか、誤解さえ生むであろう。後に出る文と同様「キリストを通じて」と訳すくらいが良いのではないか。「天のあらゆる霊的祝福」とは難しい表現。これは神の業を通じて得られる平和の時間、あるいは非常に内面的な静穏な状態、こうした感覚で私たちを満たすということか。
 さて、4節で天地創造以前(正確には「コスモスの創設」)の神の業に言及する。創造以前のすでに誕生していた「キリストにおいて」(この個所も「キリストを通じて」とするのが適切だろう)、神は聖なる者、穢れのない者として選んだという。それも、「神はわたしたちを愛して」いるからだとされている。これは非常に不思議な表現である。パウロ的と言えばそれまでだが、このことは何を意味するのだろうか。すでに非常に二元論的になっているが、それにしても天地創造(コスモスの創設)以前にいる「わたしたち」とは一体何か?これはおそらく魂としての、あるいは形以前の霊的存在と言えるだろう。とすると、ここではすでに具体的な人間のことが言われているのではなく、もっとはるかに抽象的なことが考えられているようである。5節では言い方を変えて説明する。すなわち、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」とある。これは何を意味するか?これは、世界の創設以前にわたしたちが特別な存在として神に選ばれていたということだろう。これはいわゆる予定説的なものであり、しかも天地創造に先駆けている点で、歴史以前にすでに定められていると考えられている。これはカルヴァンの言う2重予定説を先取りするかのようである。
 しかし、ここで出てくる「わたしたち」とは一体誰だろう。自分たちが初めから選ばれていたという見解は、単に身勝手な言い分に過ぎない。自分たちの幸福な状態を説明するために、はじめから選ばれていたと言うのは、深刻な差別を産む。後のキリスト教は、そういう発想(つまり予定説)を長くとってきた。それゆえ社会に生じてくる差別や抑圧を構造的なものに変えたとさえ言える(もちろん、これよりはるかに深刻なのはカースト制を支えるヒンドゥー教の輪廻転生だが)。この個所は内容的に神への感謝と賛歌であるから、自分たちの今の幸福を過去にさかのぼって確認したいのだろうが、やや危ういように思われる。
 6節では「神がその愛する子によって与えてくださった輝かしい恵み」とあるが、実際のところ「輝かしい」がふさわしいかどうか、疑問が残る。なぜなら、7節に出るとおり、「この御子において(この「おいて」もわかりにくい)、その血によって贖われ、罪を赦されました」のだとすると、これは実に深刻な出来事、つまりキリストの刑死という極めて苦痛に満ちた、悲しむべきことが想起されるはずである。ならば、このあとの「神の豊かな恵みによるものです」という、一見呑気な、やや喜ばしい、明るさの漂う言葉は、実際は逆説的なものであるはずだ。神の豊かな恵みとは、神の度量の大きさであり、苦痛を耐え忍ぶ神の忍耐の大きさである。これらを神の豊かさと呼んでいるのではないだろうか。つまり「恵み」とよばれるものは、悲しみや苦しみ、痛みを婉曲的に表現したものであるか、あるいは逆説的に表現したものだろう。すると8節の「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ」とあるのは、十字架の死をもって民(ここでは「わたしたち」)に代って罪を負ったことを指しているに違いない。
 さらに、9節の「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました」とあるが、このあとの「キリストにおいて」という表現もあいまいである。むしろ「キリストを通して」であり、その正確な意味は「キリストの十字架の死を通して」である。それを通じて神は最終的な計画を、今を生きている人間たち(つまりわたしたち)に知らせるというのである。
 それは世界の完成である。それは旧約聖書の思想家たちが生み出した「救済史的な歴史」、すなわち、歴史とは罪や艱難にみちた混沌とした世界から、やがて最終的な救済に至るとする非常に崇高な歴史観である。それは自動的に、あるいは人間の理性によって実現するのではなく、創造者たる命の神と人間との対話を含んでいる。しかし、最終的には対話ではなく、神からの一方的な恵み、イエスの犠牲である。この最後の犠牲、神の子と位置付けられた一人の男の運命、すなわち十字架と復活とによって、わたしたちの弱さ、未熟さ、暴力や差別、すなわち罪がさらけ出されると同時に、それらを最終的に葬ることができると言うわけである。その元締めこそイエス・キリストであるが、キリストはもはやこの世にいない。しかしキリストを通じて、あらゆる人間は一つにまとめられるのである。
 さて、今私たちは復活節を過ごしている。復活とは比喩的意味も含め、多義的な言葉であるが、ひとまずはイエスが肉体を持って蘇ったことを指す。これは普通のモノの見方からは実に愚かなことであるが、キリスト教はこの愚かな信仰的出来事を本気で信じてきたことについて前回お話ししました。この信仰によって、11節の「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって前もって定められ、約束された者の相続者とされました」という言葉の意味がよりはっきりしてくる。つまり、私たちはこの世界への責任があると言うことです。その責任は多岐に及んでいますが、まずは「神の栄光をたたえること」(12節)。つまり、私たち人間は神によってしか造られえない。それゆえ、私たちは最初に命の神に賛歌を歌うのである。すなわち「それは、以前からキリスト教に希望を置いていたわたしたちが神の栄光をたたえるためである。
 最後に聖霊に言及している。13―14節「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえるものとなるのです」と語るが、聖霊とは神からの直接の働きかけのことである。すでにキリストが去った後であるから、キリストに出会うことはない。しかし、キリスト教は、聖霊という直接的な働きかけを普遍化することによって、福音を非常に頑固に守り抜いたといえる。
 本日の題は「キリストのもとに一つにまとめられて」であるが、本日の断章の最後に言及されるのはキリストではなく、聖霊の働きである。父なる神は遠く、あまりに高いところで見守る。キリストは十分に直接的であるが、十字架につけられ、死んで三日目に復活するものの、最後は昇天してしまうので、やはり遠い。それに対して、聖霊という概念はややあいまいではあるものの、神との直接的なつながりを残す。正確にはキリストとのつながりであり、聖霊は事実上、キリストの痕跡とも言うべきものだろう。だとすると、なにか神秘的で、あるいはやや病的で、謎めいている体験、夢や幻を起こす力のように感じられるが、それは全く違う。キリストの痕跡とは、痛みであり、悲しみであり、あるいは義憤であり、つまりは自己と他者の痛みへの共感である。聖霊の働きとは、そうしたことがらに対する反応が生じたときに働いているものだ。これを何かインスピレーションのような、あるいは直感のような、あるいは神秘体験のようなものと見るのはおそらく根本的に誤っている気がする。聖霊とはもっとわかりやすいものではないだろうか。
 とするなら、「キリストのもとに一つにまとめられて」行くためは、結局はあのイエスの生涯への共感、あるいはイエスが働きかけた人びとの苦しみ、そして今自分たちが生きているこの世界での自分の苦しみや他者の痛みを、まさにそのものとして受け入れるとき、私たちはキリストのもとにまとめられているのではないだろうか。
 キリストのもとに一つにまとめられるのは、十字架の死の悲しみと復活の喜びをともに心の底から感じとる時なのであり、それこそ聖霊に満たされるときなのである。であるなら、今私たちがこの会堂に集いともに過ごしているこの復活節の時の中で、当たり前と言えばそれまでだが、私たちはキリストのもとに一つにまとめられているのである。だからこそ、私たちはこの時を本当に大切しなくてなりません。
 あらためてこの復活節の主日に、この会堂に集まれることの喜びをかみしめたいと思うものです。