砧教会説教2015年5月3日
「恵みと信仰による救い」
エフェソの信徒への手紙2章1~10節
先週に続いて本日も「エフェソの信徒への手紙」に基づいてお話ししたい。この手紙はパウロの名による手紙であって、パウロ的ではあるが、パウロのようなきわどさを欠いている。この手紙には、ファリサイ派のパウロが全霊で取り組んだ律法への対応に関わる深刻さがほとんどない。この著者にとって、この問題はもはや自分の問題ではないのかもしれない。それより、自分たちの救いの位置づけの方が問題であったのだろう。
さて、この断章はいきなり「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と語り、聴く者にある種の戸惑いを与える。死んでいるとはどういうことか?私たちは現に生きているではないか?
ここで、すでに著者は「死」という言葉を比喩的に使っている。彼にとって「死んでいる」とは、次の節で言われるように「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んで」いたこれまでの生活そのものが、すでに死んでいる状態だったと説明する。ここで「この世を支配する者」と訳されている言葉はアイオーンで、普通は「世」とか「永遠」とか訳されてよい言葉だが、ここではその宇宙を支配する者とし、人格的に考えているようだ。その後の「かの空中に勢力を持つ者」というのはやや分かりにくい。天と地の間の領域を支配する霊的な者を指しているとされるが(フランシスコ会訳)、あいまいである。続く内容を読むと、「不従順な者」とあるので、簡単に言えば、キリスト者の外側にいる世俗的世界の人々を指している。とすると、前半のやや分かりにくい表現は、自分たちの外側を誇張して貶めている表現となろう。このように、著者はある種の分断というか、偏見というか、独善的な見方を披歴しているように思える。
もちろん、これは自己卑下でもあり、自分たちもそうであったことを3節で反省する。「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、他の人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき者でした」。「生まれながら神の怒りを受けるべき者」とは、具体的にはどんな者か?肉の欲望、肉や心の欲するままとあるが、これは要するに普通の人間としての在り方に過ぎない。
では、なぜこうした普通の人間としての在り方に見えるものを否定的に見るのだろうか。肉や心の欲望を否定することは、人生そのものの否定になり、ひいては創造の業そのものを否定することになりかねない気がする。しかし、この著者が批判的に見ているのは、単なる普通の人間の在り方などではない。それは先に挙げた「空中に勢力を持つ者」に隠されているように思われる。これは目に見えない霊的な何かではなく、その霊的な何かに支配されて、実際にこの世を支配している具体的な力のことであろう。より具体的に言えば、ローマ帝国支配下のこの世の秩序、つまりユダヤやシリア、小アジアの僻地から見たら、それこそ空中にあるかのような巨大なこの世の力である(これは旧約で繰り返し言及されている、むなしい偶像にひれ伏す世界。エジプトやバビロンに象徴されてきた)。これが覆っている世界に自分たちもいたので、いかなる立場であれ、その悪や穢れに染められていた、ということだろう。もちろんその多くは被害者ではあるが。
その中にあって、わたしたちは全く別の生き方を与えられている。それが4節以下で示される。私たちはこの世界にあって、実は生きていなかった、真の命を全うしていなかったと著者は言う、つまり「死んでいた」のである。しかし「憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリスト共に生かし」(4―5節)とあるとおり、これまでの罪に沈んでいた、あるいは死んでいた自分たちを「愛によって」、キリストと共に生かした(蘇られせた)とするのである。その後に一文が挿入される、「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」と。(この言葉は8節でも出る)。そして、6節では「(神は)キリスト・イエスによってともに復活させ」とより正確に表現する。これは神がキリストを通して、キリストが復活したように、我々を立ち上がらせるということだが、これは未来の復活ではなく、今ここでの復活であり、生き方の転換である。これをある種の霊的な復活ととるのが普通らしい。というのも、2節のやや神話論的表象を前提に、復活も神話論的な「霊的な復活」つまり、この世の世界から離れ、キリストがすでにいる天上世界で復活するという二元論的・神話論的な了解があると見られるからである。つまり、具体的な、あるいは現実的な、肉体的な死から復活するということではないのである。この点で、以前見たルカ伝の「魚を食べるイエス」に象徴される、この世での復権ないし復活とも理解が異なる。エフェソ書の著者は、あくまで今死んだ状態にあるかのような人々への慰めであり、呼びかけであるように見えるが、実際のところ、すでに自分たちは「復活している」とみなされている。ただし、これが霊的意味であるとしても、この共同体の姿勢は、当然、現実の世界に対するインパクトは明瞭である。なぜなら、禁欲的で世の中の常識を逸脱する信仰は、常識的世界に警戒を呼び起こす、つまりは常識を打ち破る可能性を秘めるから。
さて、本題は次であるが、7節には「神は、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」とある。この個所も含め、この前後の言説は一種の信条のような感じで、形式的には整っているように見えるが、内容はあいまいである。まず、イエスキリストにおいてわたしたちにお示しになった慈しみとは何を言い換えているのか?これは1章で語っていた「御子において、その血によって」贖おうとする神の決意のことであろう。そして「恵み」とはその十字架上の死によって罪を滅ぼし、かつ人間を救ったという一連のプロセス全体を指すのだろう。このプロセス全体が、来るべき世に対してすでに示されたと言うことだ。すでに示されたということは、すでに実現し始めているということだ。その実現こそ、私たちが証明しているということである。
その実現について確認するのが次の8節。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とある。ここはどう考えたらよいのだろうか。というのも、「恵みにより」と「信仰によって」という二つの句が、並行しているように見えるからである。この文は受動態であるが、神を真の行為者とするのが妥当とは言えるが(つまり「神はその恵みにより、信仰によってあなた方を救った」とする)、他方、恵みを主語とすることもあり得る。つまり「恵みがあなた方を信仰によって救った」。さらに「信仰が恵みによってあなた方を救った」という可能性も無くはない。
ギリシア語の文法ではどうなのかはわからないが、テキストには受動分詞に与格の「恵み」と前置詞ディアつきの「信仰」がある。おそらく素朴な理解が一番良い。つまり、神の恵みが信仰を通してあなた方を救った、ということである。実際、岩波版(保坂高殿訳)は「信仰を通して、この恵みによって救われている」と訳し、恵みが主体である感じを出している。要するに、神の恵みが初めにある。そして人間の側の「信仰」が次に来る。
私たちはとかく、信仰によって救われたと言う言い方をしがちである。信仰こそ、自分たち救う、律法を守ることではなく、信仰が大事だと。あるいはイエスも「あなたの信仰があなたを救った」と折に触れて言っている。しかし、本当はそうではない。信仰さえ手段、あるいは契機に過ぎない。それが「信仰を通して」の意味である。何が最も重要か?それが「恵み」である。つまり神の側の働きかけである。それは繰り返し言われるように、そして表現を変えながら言われるように、「憐れみ」「慈しみ」「恵み」「愛」が、わたしたちの態度に関わらず注がれていると言うことだ。人間の側はそのことに気がつくかどうか、あるいは促されてそちらへと向きを変えるかどうか、だけである。イエスが「あなたの信仰があなたを救った」という場合、実は前提がある、それはイエス自身の出現、言いかえれば恵みが先にある。イエスは自分のことだから言わないだけである。自分こそが恵みそのものだなどと言ったらそれこそ、嘘臭いだろう。残念ながら、後のキリスト教は、そうした厚かましさが際立つようになる。イエスこそ、あらかじめ決まっていたキリストである、歴史に先だって決まっていた、あるいは神と共にいたなどと、やたらに誇張し、恵み自体を肥大化させていく。本日はこの点についてはこれ以上触れない。話を戻すと、やはり恵みが先だということだ。信仰を偏重すると、やがて人を裁くようになる。信仰は人間の側の事柄に過ぎないのに、その強弱やその内容で争い、どっちが正しい、正しくないと険悪になり、やがては殺し合いにさえなってしまう。
このような事態を未然に防ぐために、信仰より恵みが優先であると言い続けることが肝要である。それはこの節の後半で言われている。すなわち「このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です」。この文には(人間の側の)信仰を通してという際の、人間の思惑に対する警告の意味がある。つまり、自分の信仰を誇るなということだ。信仰さえ人間の業に過ぎないのだから。9節の「行いによるのではありません。それは誰も誇ることがないためです」との言葉は、そのことに注意を促している。さらに私たちはすべて、創造された者である。つまり根源的な受動性、あるいは負い目を持っているということが、確認されると同時に、わたしたちが創造された目的は神の良き意思を実現することであることも確認される(10節)。
こうして、この断章は、わたしたち、つまりエフェソの信徒たち、さらに現在これを読む人々にむけて、キリストの出来事という恵みに接し、かつそれに向かって方向転換を決意した人々は、すでに復活しているという、「復活」に関するもう一つの見方を提示している。私たちはすでに「体のよみがえり」という非常に分かりにくい、一見愚かな復活の理解の重要さを見たが、ここでは新たな理解に出会う。しかし、ここにおいても、根本的なことはやはり、恵みの優先という主張にあると思う。しかも同時に人間の側の方向転換、すなわち信仰ということも重要な契機であることも語る。キリスト教者の救いはやはりこの二つの事柄の結びつきこそが、最も大切であることを教えている。
復活節のおり、復活のもう一つの視点についてともに学べたとしたら幸いです。