砧教会説教2015年5月10日
「信頼に値する都」
ゼカリヤ書8章1~12節
紀元前586年のエルサレムの陥落、ユダ王国の滅亡、第二回バビロン捕囚によってイスラエルの民は滅んでしまったかに見えた。新バビロン帝国に先立つアッシリア帝国による破壊や占領、捕囚に、オリエント世界各地のアイデンティティは次第に、あるいは劇的に解体されていった。これを継いだ新バビロン帝国は、辛うじて残っていたユダ王国を滅ぼし、その国の指導者層を捕囚としてバビロンに住まわせた。これはバビロン捕囚として知られる、古代イスラエル史上でもっとも屈辱的な出来事である。しかしその際、彼らは自分たちに起きた出来事を、自分たちの背信の結果として、すなわち主なるヤハウェの罰であると受け止め、自分たちの神に対する信頼を棄てることはしなかった。神ヤハウェへの信頼を捨てず、自分たちの罪を自覚することを通して、彼らは自分たちの生きる意味を探り続けることになる。やがて、こうした罪や責任の自覚は、自分の、あるいは共同体のアイデンティティをかえって強めることになっていく。仮に、神への信頼を棄て、同時に自分たちの責任や罪に向き合うことが無ければ、自己自身、あるいは共同体としての自覚も弱まり、やがては捕囚となった土地の様々な慣習や宗教に同化し、その中での自己形成をすることになっただろう。
ユダの指導者層は、この民族的な危機にあって、たとえばエゼキエルの預言や申命記の律法といった伝統を軸に、おそらくかなり厳格に自分たちの同一性を保持したと見られる。この捕囚はおおよそ50年続いたので、世代の交代はあるものの、一部の者たちは、記憶は鮮明なまま、新しい局面、すなわちペルシア帝国の支配を迎えることができた。こうして彼らはペルシア王キュロスの解放令(前538年)によって、バビロンから帰還することになる。しかし、さすがに50年の歳月を経て、一部は定着し、帰還を望まない人もいた。そうした中で、帰還と神殿再建を後押しする預言者が現れた。それがハガイとゼカリヤである。彼らの言葉の一部が、それぞれハガイ書、ゼカリヤ書に残された。彼らは、バビロンからの帰還の指導者である総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを新しいユダ王国の王と祭司に据えるべく、エルサレムの復興と神殿再建を神の意志として呼びかけたのであった(歴史書であるエズラ記5章1節、6章14節も見よ)。
今日はゼカリヤ書8章の預言の一部を見ていくが、まずゼカリヤ書について簡潔に見ておきたい。この書は1―8章までがゼカリヤの幻と預言、9―14章はヘレニズム時代の預言とされ、ゼカリヤのものではないと見られている。象徴的・黙示的なゼカリヤ自身の幻に触発された後の時代の預言者が、後半部を付け加えたのだろう。確かに、前半の幻には象徴的な馬、天使、サタン、器、女神像、戦車、青銅の山など実に印象深いイメージが頻出する。これらの一連の幻、そしてその間の預言を通じて全体として表明されるのは、神ヤハウェの民への熱意である。そしてそれを通して、エルサレムが再建され、新しい王国が建てられるべきだということである。
本日はキリストの昇天とペンテコステを前に、捕囚からの帰還と新しい都の再建の喜びを告げるこの預言から一言お話ししたい。
読んでいただいて気づくのは、「万軍の主はこう言われる」「主は言われる」といったヤハウェの使者の定式で短い神の約束の言葉が導かれている点である。この定式(決まった言い方)は実に預言者的である。1節は「主の言葉が臨んだ」とあり、2節の「万軍の主はこう言われる」という定式と重複する感じがするが、1節の文言は8章全体を支配する表題的なもので、2節からの定式は直後の約束の言葉だけを支配する。
「私はシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ」(2節後半)とあるが、このようなヤハウェの熱情への言及はすでに1章14節に現れる。旧約全体で考えると、こうしたヤハウェの熱情はたびたび言及される。最も根本的なのはやはり十戒にでる「熱情の神」であろう。この熱情の性格はイスラエルにとっては二重である。それはイスラエルへの排他的な愛情であるが、またそれゆえに怒りに転化しうる。つまりイスラエルの背信に対してはその熱情は嫉妬となる。非常に人間的な感情である。このような感情をヤハウェの根本的な性格として据え置くことは理にかなうのだろうか。旧約の伝統では、感情の優位がはっきりしているように見える。イスラエルの神ヤハウェはそうした激情に身を任せることをためらわない面がある。もちろん、前提にはヤハウェとイスラエルとの契約がある。これは遡れば、アブラハムとの約束(創12章、15章)であり、その後の十戒(シナイ契約)であるが、これらの結びつきは良く見ると実は一方的である。変な話だが、アブラハムも、後のモーセも、そしてイスラエルの民は自ら望んではいない。これは見方を変えれば、神の約束、選びといったものは、全くの恵みであるということだ。だからこそ、その働きには本来、犠牲のような取引は無用なのである。しかし、これとは別に、古代の宗教制度一般として、こうした一方的な約束に基づく契約さえ、やはり儀礼の支配を免れないという面がある。つまり、ヤハウェとの関係も相互的な人間関係のモデルを基に位置づけられる。
しかし、こうした常識はイスラエルの実態に応じて、つまり犠牲は行うものの、しかしその共同体がおよそ十戒の原則から逸脱し、混乱している時には、そんなモデルは消し飛び、露骨にヤハウェの熱情が現れるのだ。それが、例えば飢饉や疫病、戦争、そして捕囚といった民族的な危機である。つまり、旧約における様々な災難は、すべて神の怒りの感情に基づくといってよい。
他方、その災難が実現した後に、民がその意味を自覚的に受け止めた時、ヤハウェの熱情は一転して愛に転化する。このような単純な図式でよいのかと戸惑う向きもあるかもしれない。しかし、旧約聖書は、それこそ、原則的にはそうなのである。そして、その図式はキリスト教全体に行きわたる。つまり罪の自覚と告白、そして赦しという構図である。これは単純に見えるが、実際にはそう簡単に自覚や告白に至らず、ましてや赦しには至らない。なぜなら、なされた罪と罪の自覚や告白の間が途方もなく隔たってしまうからだ。それはたとえば、現在の日本を見てもすぐにわかる。安倍首相は決して自分のことばで先の侵略に対して言葉を発しない。以前の首相の言葉を踏襲すると言うだけ。これは国家の継続性を念頭に、個人の言葉を呑み込んでいるのであり、私は保留するという意思表示である。
さて、2節の後半には「激しい憤りをもって」とあり、これはやや理解に苦しむが、先程述べたように、愛情と怒りは表裏なので、このような対の表現を使うのであろう。
そして3節。ヤハウェは再びシオン、エルサレムに住まうという。神ヤハウェは自らをもう一度エルサレムに戻す。つまり、エルサレムを回復するということ。もちろんこれは帰還民への激励であり、促しであり、鼓舞である。4―5節では、回復されたエルサレムの姿が生き生きと描かれている。6節では「残りの者」に言及されている。やや唐突だが、この残りの者はもしかすると、捕囚として連行されなかった残留民を指すかもしれない。彼らは当然このような再建など予想もしていなかっただろう。だから、ひたすら驚きである。7節では、散らされていた民が、救い出されるという。しかもそれは単にバビロン(日が昇る国)だけでなく日が沈む国(エジプトその他)からとされる。ユダ王国の滅亡に際して、民は様々な地域に移住したのである。これら離散している民を「わたしは我が民を救いだし、彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる」と語る。つまり、あくまで故郷への帰還は神の働きかけによる、すなわち恵みである、とする理解がある。さらに、この帰還を通して、改めて「彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義に基づいて彼らの神となる」と言う。この文言は決定的なものである。つまり、捕囚とされたイスラエルの民は、赦されて再びヤハウェの民となったのだ。
もちろんこの言葉は預言者ゼカリヤを通じた預言である。これはあくまで彼自身の確信である。それが民に伝わるのかはまだわからない。そこで、9節以下の、やや長い励ましの言葉が続く。
9節では非常に具体的な当時の空気が伝わる。「あなたたちは、近頃これらの言葉を預言者の口から度々聞いているではないか」。これはゼカリヤ自身の預言ではなく、おそらく相前後して活動していた預言者ハガイの活動を指すのかもしれない。彼もまた、神殿再建とエルサレム復興に向けて預言活動をしたのであった。10節はやや分かりにくいが、これはやや幻的である。つまり神との関わりを失っている人間の姿を、何ら目的も報酬もない、かつ非常に無防備なものとして表現する。この姿は、実は古代の人々にのみ当てはまる言葉でなく、普遍的なものだ。今の時代も全く同じである。日常の安全を確保できない人々は、この日本にも数え切れないほどいる。その度合いが日々高くなっており、最近の社会学的な調査でもそれは深刻である。もちろん原発事故の被害者のことではなく、普通の地域においてである。今日はこれ以上立ち入らないが、事は非常に深刻である(たとえば荻上チキや鈴木大介の著書を参照)。
ヤハウェはこのような無防備で、みじめな人々を自分の民として憐れむ。11―12節では「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしはこの民の残りの者にこれらすべてのものを受け継がせる」と告げる。ここでの「残りの者」は先に言及したこの地の残留民なのか、捕囚民の一部を指すのかはっきりしないが、これはあのバビロンの攻撃を経験し、それをかいくぐってきた人々を丸ごと指すのかもしれない。
13節以下も続くが本日はここまでとした。この預言はゼカリヤ本人に遡る部分の最後の章であるが、これに先立つ6章ではすでに大祭司ヨシュアの戴冠式の預言が、あたかも王の即位の如くに預言されている。したがって、今日の個所は、あるいはそうした儀式が現実となった後かもしれないが、この預言には反映されていない。ただ言えるのは、この都は「信頼に値する都」となるということだけである。テキストはイール・エメトであり、「真理ないし真実の都」と訳しても良い。実は8節の「わたしは真実と正義に基づいて」の真実はエメトであり、本日の個所に先立つ7章9節の「正義と真理に基づいて」の真理はエメトである。翻訳は難しいが、この3か所は統一すべきかもしれない。それはともかく、イスラエルの民にとって、この町の復活は単なる町の復興ではなく、そこにおいて神の真理が実現される場所でなければならい。もちろんそれを具体的に担うのはそこに住まう人々である。
今私たちはイエスの復活を迎え、さらに昇天、そして聖霊の降臨の時を待つ時期にあるが、そうした復興や復権の実現にふさわしい都であるかをもう一度問うべきである。その都とはエルサレムと言うわけではなく、もちろん、教会のことである。そこにキリストの真理が実現されているかどうか、それはわたしたち一人一人の思いにかかっている。
教会の歩みをもう一度思い返しながら、この時期を過ごしたいと思う。