日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年5月17日
「復活と昇天のあいだ」使徒言行録1章2~11節
 復活節を通して私たちは復活の意味や自分たちの心構えについていろいろと考えてきた。今週は昇天、来週はペンテコステ、それぞれ教会の暦では重要な意味を持っている。ところで、昇天についていえば、実は福音書にはルカを除いて書かれていない。ヨハネには「挙げられる」と言う表現でそれらしいことが書かれているが、これはヨハネ独特の考え方が込められており、昇天とはややずれていると思われる。マルコには二次的な結びとして加えられているが、本来はなかったものだろう。ということは、昇天とはルカにとってある必然があって構想されたと思われる。
 昇天については、第1巻、つまりルカ福音書の最後に出るが、これはやや付録的に見える。本来は第2巻、つまり使徒言行録の、本日のテキストが本質的なものであろう。
 さて、前半部3―5節には十字架上の死という苦難の後、復活し、40日にわたって使徒たちに示したという。その際、イエスは神の国の到来について語り、エルサレムで約束の実現を守るよう諭された。それも食事をしながらである(焼き魚をおかずに?)。そして、聖霊による洗礼を受けることになることも告げている。ルカは復活したという出来事の意味にはほとんど関心が無いようにもみえる。復活は彼にとって残されたイエス自身の課題を使徒たちに知らせることだけである。先般、わたしは「体の復活」の本質的意味をルカの物語から考察し、その重要性を読みとったばかりだが、復活から昇天までの語りを改めて読むと、弟子たちの活動がイエスからの命令であることを正当化するためにこのファンタジーが書かれているとも読めるのである。そして、恐らくそうなのだろうと思う。
 それにしても、なぜ復活し、かつ昇天するのか、そしてなぜその間、40日も歩きまわるのか?おそらく、このような象徴的期間の示すのは、イエスの死後、これからの方針が定まらなかった弟子たちや教会の混乱の存在ではあるまいか。イエスの周りに集まった人々は深刻な危機に陥ったとみてよいのではないか?あるいは、弟子たちはこの困難の時をやがて最後の苦しみ、生みの苦しみの時として解釈し、神の天上からの介入をほんとうに望んだのかもしれない。そこで彼らは「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と問うのである。彼らはもうすぐ言わば革命が始まると考えている。もちろんこれは天的な神の介入ということでもある。
 しかし、イエスはこう答える。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない」(7節)と冷たくあしらう。この言葉は何を意味するのだろうか?使徒たちにとって、終末の到来、あるいはこの世の秩序の逆転を信じて、イエスに従ったのではないか。それなのに、そんなものは文字どおり、神のみぞ知るのであって、時期などわかるはずはない。この話はもちろんフィクション、それもファンタジーであって、それ自体のやり取りを見ても、要するに何だかわからないのである。
 この革命的運動、ないし神の介入と言うことに対して、多くの人々が熱狂した。しかし、イエスは死んだ。しかし、肉体をもって復活した。とすれば、そのイエス自身がもう一度弟子や民衆を引き連れて、再度神の国運動を行えばよいのである。しかし、ルカはそうしない。いや、ルカの描くイエスはそうしなかったとされる。それどころか、結局はいなくなる。つまり昇天する。この一連の経過は、結局のところ何を伝えようとしているのだろうか。あらためて思うに、復活から昇天の間の持つ意味はなんだろうか。
 私たちはイエスの活動の表面的な意味は社会福祉事業、あるいは慈善活動であると捉える。病者をいやし、悪霊を退治する。これは医者(であり宗教者)の仕事である。しかし、イエスの活動の意味は別の面がある。それはイスラエルの伝統の中で彼の出現を捕らえることによって浮かび上がる。つまり、彼の様々な活動は、待望されていたイスラエルの救い主であるとみなす理解である。そしてその救済の範囲ないし射程というのは、イスラエルだけではなく、全人類に及ぶものとされる。しかし、彼は死んだ。そして弟子たちは、いったんは逃げた。しかしもう一度イエスの行為や言葉を想起し、あらためてこれまでの活動を、イエス無き後も続ける決断をして行くのである。そのきっかけが空の箱と復活信仰である。しかし、これはあくまで信仰上の出来事であり、実際に彼らが何をどうすべきかの戦略を欠いている。それどころか彼らは本当に神の介入があると信じている。あるいは革命がおこると。
 しかし、その時を知ることがないとイエスは言う。ここで少し横道にそれると、そうした終末論的な神の介入による世界の破壊や滅亡といったことを信じる者たちが現代でも多くいるが、それが遅延したり、実現しなかったりすると、そのことの「しるし」となる出来事を自分たちで起こしたりし、予言や占いをあたかも実現したかのように思わせ、その集団の教義を信じさせたりした。言うまでもなく、オウム真理教による大規模な事件である。かれらは終末論的観点から世界の終りが近いと考え、それを待つようなふりをして、むしろ神によってなされるはずの審判の行為、つまりキリスト教でいうハルマゲンドンを自ら企画し、地下鉄サリン事件のような一方的なテロによって、終末が来たかのように装うのであった。つまり完全にペテンである。神の支配を偽装し、自分たちの権力的支配を拡大しようとするのである。
 そこで先に見たとおり、弟子たちの問いかけ、すなわち「イスラエルのために国を立て直してくださるの、この時ですか」と問う弟子は、実はそうした決定的な時を自ら知ることができるという予断を持っている。つまり、終末を知るという特権的地位をもちうるという理解がある。もちろんこれはオウム真理教が行った、終末を自分で起こしてみせるという極端な行動ではないとしても、自らを独占的に救いたいという傲慢さが見て取れる。これに対してイエスがそんなものはお前たちの知ったことではないと一蹴し、これから聖霊が降りてあなたたちは力を受けるだろうという。しかも終末の時を知るという特権どころか、なすべきことはイエスの証人となることである。
 ここにおいて、革命幻想は萎む。弟子たちがなしうるのはイエスを伝えることであり、彼ら自体が終末の運動の主体ではない。つまり、自分たちで戦争を引き起こして、たとえばローマと戦って自分たちの主権を取り戻すとかいった野望を棄てたのである。このような考え方、つまり自らが実力をもって今の秩序を転覆する、あるいはそのことについて予め知り、自分たちだけを救うかのような利己的な意識は、イエスの願うものではない。というより、旧約の大きな伝統として、「主自身がたたかう」のであって、イスラエルの民はそれを見るという思想、つまりイスラエルの自己救済、自力で自らを救うという主体的な考えに対し、それを否定する思想である。これが最も明瞭なのは、言うまでもなく「出エジプト」の出来事である。モーセが確かに媒介者としてイスラエルを導いているが、救済の行為としてのエジプト脱出は神による救済の業として徹頭徹尾理解されている。そのことの確認が十戒の前文、「わたしはヤハウェ。あなたを奴隷の国エジプトから導きだした神である」という宣言である。
 この出来事の経過を見ても、ついにいつエジプトを出られるのか、果たして救われるのかは示されなかった。ただ繰り返しエジプトに災いが降るだけ。最終的にはファラオがあきらめることで実現したにすぎない。このような図式は「主のたたかい」として主要なテーマとなっていることから、旧約の伝統では救済や復讐の実現は、つらいことだが、本当に起こるかどうかも含め、知ることはできない。しかし、知ることができないだけであって、それは起こるにきまっている。そのことへの信頼だけは保ち続けること。これがイスラエル本来の在り方、つまり「信仰」である。これは実に危うい立場である。この立場を守ることは難しいのである。なぜなら、救済の実現を経験することはできるかできないかわからないのだから。
 しかしながら、これを自分たちの生き方の根本に置いたのがユダヤ教であり、それを受け継いだキリスト教である。そしてこのルカ文書の著者はそのことを深く理解していたのだろう。それゆえ、あの「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない」(7節)という突き放した言葉をイエスに語らせるのである。そして弟子たちのなすことはイエスを証言することだけが課題とされたのである。
 復活と昇天の間に起こったことの意味は、ルカにおいては、神の国の実現はあなたたち弟子たちの任務や課題ではなく、イエスの出来事の終末的な意味を深く理解し、そのことを証言し、伝えていくこと、つまり、終末の到来、新しい世界の出現に備えて、人々の心をイエスの示した共同体への向けさせ、そこへと参加させることなのだ、ということを示すことにあると言えるだろう。
 そして、その証言していくための力が与えられるだろうという。それが聖霊である。聖霊はイエスの痕跡であると以前述べたが、その痕跡は、ここでは極めて実体的な、つまり霊だから触ることはできないが、あたかもはっきり手に取るようにわかる力である。もちろんこれも長い旧約の伝統を受け継いでいる。すなわち「主の霊」である。こうした力が伝播するという共通理解は、おそらく他の宗教も含め、強力なものである。
 やがてイエスは話し終わると、天に上げられ、雲の覆われて見えなくなったという。これもまた旧約の伝統にそった描写である。あの天上に上って消えたエノク、神の炎の戦車とともに天に巻きあげられていったエリヤ。こうした不思議な人物の伝承を用いたファンタジーである。しかし、くりかえすが、このルカの文学的想像力は、侮ってはならない。最後にはついに天使が現れ、語る。これもまた決定的に重要な思想となった。もちろんこれは昇天の直後のことであり、正確には復活と昇天の間ではないが、誤差としてご了解願いたい。要するに「再臨」の思想である。ルカは復活信仰を非常に重要視し、長い文学をつくったが、復活だけでは結局足りないと考えた。それに復活だけだと、矛盾が生じる。なぜなら復活したイエスが生きているのだから、先にのべたように、イエスがもう一回先頭に立てばよろしいいじゃないか、という反論、いや正論が出るにきまっている。それを未然に回避するのが、昇天だが、それでも足りない。完成のためにはイエスは再度現れ、見届けるはずである。そこまで見通して、歩み続けよ、と言うのである。ルカは実に周到に、弟子たちとそれ以降の信仰者にエネルギーを与えたのである。つまり信仰の具体的な内容、復活、昇天、そして再臨。これらをもってこの世を生きよ、未来を創れ、そして世界を救えと。