日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年5月24日
「聖霊の働きと教会」使徒言行録2章1~13節
 本日は教会の誕生を記念する特別な日です。先程読んでいただいた聖書は、教会に長く通っている方にとって、非常になじみの深いものでしょう。一方、初めて読む人にとっては何とも良くわからない、奇妙な話、信じがたいものと映るでしょう。
 そうです。これはルカ特有のファンタジーであり、かなりの部分が創作です。そしてこれは或ることを非常に強く印象付けています。答えは簡単で、教会は世界各地にあるべきこと、そして語る言語の違いを越えて、福音が普遍化する、あまねく世界各地に広がっていくということです。加えて、イエスがいなくなっても、彼の力を引き継ぐ力が継続して人々を満たすはずであるということです。その力を「聖霊」と呼んでいます。ひとまず、このようにまとめておきましょう。
 ところで、この聖霊降臨の出来事は、ユダヤ教の巡礼祭である五旬祭の時に生じたとされています。エルサレムには諸国に住んでいるユダヤ教徒が四方から集まっていました。いかにもルカらしく、細かく地域の名を挙げています。9―11節には地中海沿岸からシリア、小アジアといった当時のローマ支配の地域だけでなく、その東側、パルティアやメソポタミアの名も挙げられています。非常に広い世界が念頭に置かれています。さらに、「ユダヤ教への改宗者」(プロセリティス)にも言及しています。実は、ユダヤ人という言い方はユダヤ教徒と重なるのではなく、単に行政区域としてのユダヤに住む者を指すのであり、ユダヤ教徒は当然世界に散らばっているし、その中には改宗してユダヤ教徒になった者もあるということです。
 さて、このような諸国から巡礼に来たユダヤ教徒が都エルサレムで奇妙な集団の異常な現象に出くわしたのでした。それは実に印象的です。突然の雷鳴と稲光。この光はあたかも「炎の舌」のようであったと言います。これは私たちもよく見るあの稲光を指しているのでしょう。その現象の後、この集団のうえに「聖霊」が降り、「霊」が語らせるままに、「他の国の言葉で話しだした」というのです。これを異言と解釈する可能性もありますが、これを聞いている巡礼者は、その言葉をそれぞれ自分たちの国の言葉であると理解しているので、異言(わけのわからない発言現象で、解釈者を要するとされる)ではなく、聴いて意味のわかる言葉、あるいは預言的なものとみられます。しかし、ルカはこの言葉の具体的内容には言及しおりませんが、ひとこと「私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)とあるので、恐らく旧約聖書の救済史の伝承を語っていたと想像できます。例えば申命記26章の信仰告白、あるいは詩編78編のような救済史の回顧のようなものかもしれません。これについて、一部の人は驚き、一部は酔っ払っていると批評していたとされています。
 今日の聖書はここまでですが、この先にペトロの説教が続いています。これについては昨年、ペンテコステ礼拝の直後の主日で取り上げました。本日は特に聖霊の意味ついて少し考えておこうと思います。2週前の礼拝で、聖霊とはイエスの痕跡のようなものであると言いました。さらに先週は、聖霊は目には見えないが、実体をもつものであると言いました。つまり、何らかの明瞭な現象を伴うのです。ここではその現象が非常にデフォルメされて描かれている。つまりガリラヤ出身の人々が世界中の言葉で語るというように。これはもちろんファンタジーであるとしても、一方で、イエスの痕跡としての聖霊に満たされれば、自由に福音を、すなわちイエスの出来事を語り、かつ喜ぶことができるということです。さらに、誇張して書かれているとはいえ、あるいは超常現象として提示されているとは言え、このように聖霊に満たされることを通して、新しい人間へと変貌することを示しているとも言えるでしょう。
 ところで、聖霊あるいは霊とはなにか?旧約聖書でもいろいろと霊の働きが描かれていますが、印象的なものは、たとえばエジプトを出て荒れ野をさまよう人々がエジプトに帰りたいとモーセに反抗する場面で、モーセは神に自分の負担を軽くするよう神に訴えます。すると70人の長老にモーセの霊の一部がとられて、その70人の長老に分け与えられたとあります(民数記11章)。モーセの霊が長老に共有されることによって、モーセの権力を代行する権威が与えられたということです。その際、70人の長老たちは「預言状態になったが、長く続くことはなかった」(民11章25節)とあり、本日の個所と同様、言葉の自由な語り、あるいは異言を語る状態に言及しています。これは一種の通過儀礼、イニシエーションと見ることができます。こうした通過儀礼を経て、権威を承認され、役割を果たすことができるのです。わたしがこれから受験する教師試験に合格すれば、按手礼がありますが、これもその伝統に連なるものであることは言うまでもありません。
 あるいは、サウルが王として選び出される過程でも、いったんサウルが預言者団の一団に入り、サウル自身が主の霊に満たされ、預言状態になったとされていますが、これも通過儀礼であり、認証を受けるために必要な宗教現象なのでしょう。他方、こうした真っ当なカリスマとして承認されるための霊の取り憑きとは別に、たとえば悪い霊が取り憑いて悩ます場合もあります。サウルの場合、神の信頼がダビデに移るとともに、悪霊がサウルを悩まし始めたといわれます。これをなだめるのはダビデの琴の音です。こうした現象は象徴的なので、この現象そのものの実態の解明より、これが象徴する意味の解明が重要です。それは簡単なことで、サウルからダビデへと権力が交代するということです。
 これら二つの旧約の先例をルカが知っていたことは明らかですが、さらに加えれば、この劇的な現象はシナイ山のふもとで神の顕現に接する民の状況を彷彿させるものでもあります。出19章では神は雷鳴と稲妻、さらに地震のような現象を伴って顕現しています。顕現の前に、「あなたたちは私にとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19章6節)とあり、イスラエルに特別な任務を付与する選びについて言及されています。すると、この後の顕現は民を承認することと結び付くことになります。ただし、この19章の末尾は、結局、一般の民はヤハウェに直接接すること、つまりモーセと共にシナイ山に登ることは禁じられているのです。ここには祭司的権力と民衆との分断を見ることができます。前段では全員が祭司の王国のメンバーと言いながら、最後には民と祭司階級を分け、後者にだけ神との直接的な接触を認めるというのは、一部の利益を代弁しているにすぎません。
 本来、神との直接的なつながりはすべてに開かれているはずである、とする立場と、いや代理の人間が媒介するべきだという考えが拮抗していますが、こうした流れは先に取り上げた民数記11章にも見られます。長老たちがモーセの霊を分与された時、いろいろな人が預言状態になったことをヨシュアは咎めています。つまりそうした神との直接的なつながりは越権であるというわけです。これに対してモーセは「わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」(民11章29節)と言います。つまり、ここでも民が直接的に神との関係を結ぶべきだという立場とそうした権威は代理者が媒介するべきだという立場が拮抗しつつ、直接的なものがひとまず大切にされるべきことが暗示されています
 この二つの話は、一方は祭司権力への批判、他方は預言者的権威の独占についての批判ですが、両方とも民の一人ひとりが神との直接的なつながりをそれぞれ持つべきであるという立場が本来的であると言っているようです。しかし、こうした立場の相違は、言うまでもなく、後のキリスト教にも鮮明に反映されていきます。つまり教会的権力(祭儀的権力)が媒介を独占し(天国の鍵)、民衆は決して直接的に神とは繋がらないというローマ・カトリック教会の立場と、やがてそれに対して神との直接的な関係を基本に据えて、ローマ教会と根本的な対決を始めたルターをはじめとするプロテスタントの立場の対立です。
 イエスの出来事に先立つ、旧約聖書の時代にあった対立と、後の時代の対立を知っている私たちにとって、この使徒言行録に描かれる聖霊の降臨の出来事はどのように読んだらよいでしょうか。
 今日の個所ではこのような対立について特に意識されていないように見えます。問題意識もないように見えます。しかし、ここに現れるのはガリラヤの民衆の集まりに聖霊が降りたことが強調されているのであり、聖霊が誰にでも降りた、つまり、聖霊は単純に誰にでも与えられたというのではありません。むしろ、「話をしているこの人は、皆ガリラヤの人ではないか」と驚き怪しんでいます(7節)。つまり、これは本来聖霊とは無縁の、しかも諸外国の文化に無知であるはずの人々に、それが降りているという、驚きがある。つまり、聖霊はやはり偏って降りているということです。これは何を意味するのでしょうか。
 おそらくこれは、やはり、エルサレムの正統なユダヤの宗教的権威や、背後にあるたとえばローマの政治的支配に対して、ヤハウェの力はガリラヤの民衆を選んでいるというはっきりとした言挙げ、宣言とも言うべき出来事として描かれているのです。ここがやはりルカの真骨頂と呼ぶべきものでしょう。より正確に言えば、それは二重の意味での言挙げです。第一に、ヤハウェの霊が、ガリラヤの民衆を選んでいて、エルサレムに集まる然るべきユダヤ教徒ではないということ。もう一つは、ローマ帝国の然るべき文化的伝統の外側にいる辺境の世界の人々に真の呼びかけがなされたということです。つまり、ユダヤ世界とローマ世界をともに相対化する、あるいはそういう世界を根本的に乗り越えるヤハウェの自由、神の支配というべき主張を、この聖霊降臨の出来事は暗示しています。ルカの想像力は、イエスの主張を、彼なりにしっかりと受け止めている気がします。つまり、あらゆる人々は命の神ヤハウェの息吹を直接受け取っているのであり、その息吹のもとに、各人が互いに共存し、相互に助け合って生きていく(このことは後に出てきますが)。しかし、残念ながらそのことは、単純なことのように見えて、全く理解されていない。それどころか、ガリラヤの田舎の人間などはこの世界の底辺みたいなものだ、という偏見の方がはるかに強い。しかし、そんな偏見を突破する神の自由がここに働いた。神の自由の表現が聖霊の降臨であり、しかもそれはイエスの痕跡を保持する具体的な力です。そのような主張を、ルカはこのテキストに込めているのです。
 私たちは、このルカの意気込んだテキストのもつ、その奇想天外な表現に気を取られるのではなく、その表現に込められた彼の真意、すなわちヤハウェはキリストを送り、かつ、その昇天後も、その力をはっきりとあのガリラヤの民衆たちに、つまりイエスに連なったものたちに送り続けていること、すなわち、より象徴的に言えば、世の最も困難な人々の上に喜びの力、神の息吹、聖霊を与えてくれていることを信じて進むよう促しているのです。
 本日のペンテコステを2000年前のこの時に戻った気持ちでお祝いしたいと思います。