砧教会説教2015年5月31日
「これが助け合いの共同体?」
使徒言行録4章32節~5章11節
聖霊降臨の後、教会は動き出した。そして弟子たちも活動し始めた。本日の個所の前にはペトロ説教と議会による彼の取り調べについて報告されている。イエスの亡き後、彼らはイエスの顕現に接し、新たに召命を受けたとみなすことができる。「復活」というと信じがたいが、これを神の顕現に準じるものと考えれば、イスラエルの伝統に沿ったものである。もっとも、復活信仰はすでにダニエル書にも出ていることはすでに述べた。どちらにせよ、弟子たちはある種の転換を経験し、イエスの活動を真似すると同時に、その出来事の意味を証言し続けるのである。つまり、メシアは出現し、新しい世界は始まり、したがってこの世は間もなく終わる。だから、それに備えよと。では、この証言と預言を信じて生きる人々の共同体はどのような姿であるべきか。その問いに対する答えが今日の個所である。
この個所に先立って、2章44節に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」と記されている。そして46節には「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」とあり、日に一度は神殿で一同が会して、共同の食事を行っていたとされる。彼らにとってともに食事をとることが非常に大切なこととされている。つまり、そこには通常の家族を越えた、より拡大された家族のかたちが表現されているように見えるのである。本日の個所はこのことをより詳しく記述し、さらにそうした生活に反した者たちへの脅しともいうべき、一つの夫婦の話を加えている。
4章32節では「信じた人の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とあり、先程の2章44節と同じ趣旨を語る。要するに、信徒の群れは私的所有を放棄していると言うのである。これは非常にラディカルな仕組みである。もちろん、これは原始共産制と見ることはできない。なぜなら、そこには生産はないからだ。この信徒たちは、恐らく農民ではない。彼らはエルサレムの、あるいはガリラヤの、あるいは他の地域の様々な人々で、彼らの多くはおそらく生産手段としての土地は持っていないと思われる。34節にある「土地や家をもっている人」とは都市住民を指しているだろう。彼らは持ち物を共有するだけでなく、「土地や家を持っている人が皆、それを売って代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」それゆえ、「信者の中には一人も貧しい者はいなかった」(34節)のである。
これは不思議な話である。彼らは生産手段をもたないか、持っていたとしても、それらを売って金に変え、それを使徒たちに預け、彼らが分配していると言うが、これでは早晩、財は底を突く。しかし、より深読みすれば、土地や家を売った人とは、ものすごく富んだ者たちかもしれない。だからその財は切り売りしても相当な期間耐えられるものなのかもしれない。一方、その富を預かるのは使徒であり、彼らが合理的に分配するというのである。
できすぎた話である。このような、一見すると消費しかないような共同体が、存続するとは到底思われない。なぜ限界の見える共同体をつくるのだろうか?もちろん、キリスト教の普通の考えからすれば、答えは簡単である。つまり、終末が迫っているのだから、地上の財産なぞ、いまさら大事に持っていても仕方が無い。この世の終わりに備え、そして、新しい世界に備えて、すべてを棄てる、しかし、しばらくの間持ちこたえられる程度の富を蓄積すればよい、と言うことなのだろう。もちろん、富は動産、すなわち貨幣でなくてはならない。なぜなら現物や不動産ではすぐに交換できないから、最も抽象的なもの、つまりお金が良い。それは簡単に数えられ、分けるのも容易い。こうして、ある程度の期間、生産とは無縁の共同体の存続が可能となる。
それでも、それはやはり或る程度なのではないか。そうした共同体が長く続けられるとは思えない。しかし、それは実は今日まで続いている。なぜなら、常にその共同体の外側に生産する世界が続いているからである。生産する世界が続く限り、それを土台とした都市的世界、商業的世界は存続する。そしてその中から寄進されたものを教会が集約し、それをまた分配・還元することで、その教会の管轄する領域の不均衡は緩和されるだろう。そうしたシステムがこのルカのテキストから敷衍されるのではないか。もちろん、これは今の私たちがルカの物語に投影しているだけかもしれないが、教会共同体の原理・原則はここに現れている気がする。
ところで、本日の後半の物語は、非常に後味の悪いものである。アナニアとサフィラの夫婦の話である。彼らは土地を売ったが、その代金の一部を使徒に捧げ、一部は自分のものとした。この個所で面白いのはペトロの発言である。彼は「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけばあなたのものだったし、売っても、その代金はあなたのおもいどおりになったのではないか。」(5章4節)と言っている。つまり、共同体に捧げる意思が無いなら自分のものにしておいてかまわないが、捧げるならば全部よこせ。そうでなければ、中途半端なことをするなとペトロは言っている。これは若い金持ちの青年に投げかけたイエスの言葉を想起させる。しかし、イエスと金持ちの青年の問答の結果は、その青年が悲しんで立ち去ったところで終わる。このペトロとアナニアの話では、そうした突き放し、ないし、決裂、あるいはすれ違いのまま終わるのではなく、このけち臭い行為に対し、厳しい審判としての死によって、片を付けている。いったいこれは何なのか。あまりにひどくないか。
思うにこれは、イエスと青年の物語から解釈するより、ヘレムの掟にそむくサウルの軍隊に対するサムエルの厳しい審判とくらべるのがふさわしい(サムエル記上15章)。つまり、本来すべて戦利品は惜しまず滅ぼさねばならないのに、一部を着服し、我がものとしたことである。このヘレムの掟はひどく厳しく恐ろしいが、これは富の蓄積を求める王権をけん制する、やや理想化された掟である。つまり、戦利品の蓄積はやがて、権力の過剰に伴う共同体の不平等と不安定化をもたらすだろう。だから、ヘレム(聖絶)が理想化されるのである。
それとちょうど対になるのがこのペトロの叱責であろう。すなわち、共同体に属し、平等な生活を望むなら、私心を一切捨てること、それは売った代金をごまかさず、全て捧げることに象徴される。つまり自分のエゴイズムを完全に断つ(ヘレム)という決断である。このような決断を回避し、一部をとっておくというのは、結局、共同体を裏切ることと同じである。それゆえ、アナニアは断罪されなければならないのである。さらに、その妻サフィラも口裏合わせて、夫と同じように代金をごまかす計画だったことが暴かれ、結局死ぬことになった。
私はヘレムの考え方を援用してこの記事を読んでみたが、共同体の安定にとって、ゼロか百かの決断を問うことは一定の意味があるとは思う。しかし、このような恫喝によって、共同体の結束を維持しようとする意志は、やはり非常に危険であると思う。ルカのテキストは威力が強い分、危うさも多い。11節には「教会全体とこれを聞いた人々は皆、ひどく恐れた」とあるが、まさにそうだろうと思う。もちろん、これも一種のファンタジーだが、このような恐るべき話は、人の心を縛る。教会共同体は恐怖の権力によって維持されるべきではない。
それでも、ここには一種の理想としての「共有と適正な分配」が謳われていることは認めておく必要がある。このような共同体はもちろん外部の利益社会と身分社会、つまり通常の商売、そして地主と農奴の関係などを前提に維持されるほかはないが、目指すべきもの概要というか見取り図らしきものはあると、ひいき目に言っておこう。
さて、最後に問うべきは現在の時代の教会の在り方だろう。教会はその外の社会(資本主義・市場経済)を前提に、その社会の一部として、その上がりの一部を用いて運営されている。それは古代以来あまり変わらない。もちろん税(教会税)として強制された時代もあるが、本来は自発的なものである。そうした自発的なあるいは相互扶助的な共同体は、それが排除的だったり、独占的であったりするのは芳しくない。むしろ、アナニアとサフィラの物語を反面教師として、極端な決断を問わない、よりふくよかな共同体を目指すべきだと思う。そのためには教会共同体の性格をもう一度考え直すことが必要だろう。
原始教会においてはおそらく終末意識が非常に強く、それゆえ、ある種の極端なあり方が意味をもったかもしれない。現在はどうだろうか。彼らのようなやや幻想的な終末意識はないが、時代の閉塞感は非常に強いし、差別や不平等(格差)は広がっている。それゆえ、初代教会と同じ時代にいるのかもしれない。とするなら、教会はもう一度自分たちの原点に立ち返る必要がある。残念ながら、現在の教会はやや後ろ向きというか、伝統的な教会の枠組みを出ていない。それどころか守りに入っているというか、閉じているというか、そういった状況である。私はそんな時代だからこそ、教会それ自体を開いていく必要があると思う。それは既存の教会の枠組みを変えることも含まれる。その中にあって、やはりイエスを伝えていくことが肝心である。そして各人の人生の困難、さらにこの時代の矛盾の中で苦しむ人にこちらから働き掛けていく必要があると思う。というのも、教会に集う人々はすでに助かった(救われた)人々なのであり、キリストを通じてそれぞれ創造者との和解も終わっているからである。つまりもはや一人ひとり自由になったのである。その自覚を胸に、私たちは再び世界へと歩み出す。そしてもう一度勇気をもって、隣人の人生の困難やこの世の矛盾に立ち向かうのである。そのための方法はいろいろあるが、わが砧教会では、いま高齢の方が多いので、つまり激動の20世紀を生きた方々が多いので、まずはなすべきことは周囲の人々に向けて、そして未来に向けて、やはり文章を残すことだろうと思う。それは長く生きた人の特権であり、また義務である。
そしてそれを読む人々、聴く人々は新たな次の世界を生きることができる。そのような互いのコミュニケーションができる場所、それが助け合い共同体としての教会であると思う。