砧教会説教2015年6月7日
「目を覚ましていなさい」
マルコによる福音書13章32~37節
今日の聖書は今年度の砧教会の基本聖句を含んでいる断章です。この話は、ここだけで見ると実はよくわかりません。なぜなら、「その日、その時」と呼ばれている日や時が一体何の「日」なのか、何の「時」なのか、ここには書かれていないからです。また、「天使」とか「子」とか、「父」とか出てきますが、はて、これらは誰のことを指すのでしょうか。これらも良くわかりません。
しかし、このイエスの話を聞いている当時の人々にはだいたい見当はついていたと思われます。ただ、それでも34節―36節には念のため例え話が語られています。要するに御主人さまが僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて、門番には目を覚ましているよう注意して旅に出た。しかし、この主人がいつ帰ってくるかは下々の者たちには知らされていない。なので、僕や門番たちはいつ帰ってきても良いように、準備しておきなさい、つまり目を覚ましていなさいと言うわけです。つまり、これは僕や門番への脅しのような意味で語られています。サボっていてはご主人さまに叱られ、あるいは仕事を取り上げられてしまうかもしれない。だからきちんとしていなさいと言うことです。自分が僕や門番の位置にいたら、そうせざるを得ません。
しかし、これはあくまで譬えです。が、ひとまず、脅しによって民衆に(あるいは子どもたちに)危機を知らせようとする実にイエスらしいお話だといっておきましょう。さて、初めの問題に戻ります。父とはだれか?子とはだれか?
もうお分かりでしょう。父とはこの世界を造った神ヤハウェのことです。神ヤハウェはもちろん創造するだけではありません。神ヤハウェはイスラエルの人々に律法と呼ばれる法を与え、これを守る契約を結んだのでした。ただし、これらについては今日の個所には出ておりません。それは、はるか遠い昔、モーセが直接神から授かった十戒を基にした、さまざまなユダヤ独特の規則あるいは掟とも言える神の命令を守ることの約束です。そしてこの約束事の一方の当事者として、神ヤハウェは常にイスラエルの人々のことを見ている、いや見守っている、とされていました。
しかし、その律法を守らず、それに反してさまざまな悪いことが行われたらどうなるでしょう。そのときには、この神ヤハウェは人々に罰を与えます。それはイスラエルの歴史が書かれている旧約聖書を読むとわかります。モーセ以後で一番深刻なのは、バビロンによる王国滅亡とエルサレム神殿の破壊、そして民のバビロンへの捕囚です。しかし、これはやがて赦され、バビロンから帰還し、新しい国をつくりました。ではイエスは民が何をしたので、こうした裁き、つまり罰が下されるというのでしょうか?
これは単にイスラエルの民の問題だけではありません。彼らを含めた人類社会全体の罪とも言うべき、非常に大きな矛盾の中にいる、つまり世界に悪いことが溢れているような非常に深刻な事態になっていると、少なくともイエス・キリストは見ていたのです。この深刻な悪い状態とは何でしょうか?それは一つには、貧しい人々があまりにたくさんいること、障害を負った人々が人間扱いされず差別されていること、そして権力ある者たちが暴力や都合のいい法律でそうした仕組みをつくっていること、そしてそうした世界の仕組みを宗教が支えていることです。もう一つは、そうした世界であきらめて生きている、投げやりに生きている人々がたくさんいて、自分たちで立ちあがろうとしない、あるいはできないという現実です。
このような二つの面を持った世界の歪みというか、悪の蔓延というか、こうした姿に対して、ついに神ヤハウェ自身が世界に介入し、今の世界を終わらせる、つまり破滅をもたらすと、イエスは確信していたのです。
「その日、その時」とはそうした破滅の時です。それは来るにきまっているが、果たしていつかはわからない。当時は「天使」が信じられていました(例えばサタンも元は天使の一人)が、彼らも知らない、「子」も知らないとありますが、これはもしかしたらイエス自身のことかもしれませんが、自分で言うのは変ですから、これはメシア、つまり神の油注がれた者、あるいは神の養子となった王のような者、いやもっと神に近いやや神話的救い主かもしれません。いずれにせよ、彼らも知らない。つまり神の決断は誰も知ることができないのです。だから「目を覚ましていなさい」と呼びかけるのです。
ただ疑問もあります。目をさましていれば助かるのでしょうか。
結論から言えば、助かるのです。それどころか、その者は幸福にさえなるのです。では、目をさましているということは、どういうことか?それは物事をしっかりと見ることを意味します。これは良いことなのか、そうでないのか、これは有利なことか不利なことか、これは危険なことか、安全なことか、こうした分別のあること、これが覚めた状態です。このような覚めた状態はこの破滅を逃れることができる。どうしてそう言えるか?これは旧約聖書に何度かでてきますが、一つはノアの洪水物語です。ノアはまともであったから、神の裁きとしての洪水を逃れることができたとされます。また悪に満ちた都市ソドムが滅ぼされるとき、ロトの一族は、彼らが正しい者たちだったゆえに、助かります。また出エジプトの時は、エジプトに臨んだ初子の死をイスラエルは逃れました。つまり、神への信頼を取り戻し、自分たちの罪を悔い改めた人々は災いを逃れることができたのです。そして自分たちにとってふさわしい世界をつくることができたのです。イエスはそれらのことを心に思い描きながら、「目を覚ましていなさい」と呼びかけているのです。
さて、私たちにとってこの言葉はどんな意味を持つでしょう。私たちも目を覚ましていなければならないのでしょうか?イエスの時代とはちがうのに?
これも結論から言うと、私たちも、いや私たちこそ、目を覚ましていなければなりません。一番深刻なことは、戦争の危機です。世界では現実に起きていることですが(70年前までは日本も戦争の当事者でした)、今の日本も、平和を語りながら、戦争の準備とも見える法律を、憲法違反と言われながらも、国会を通そうとしている。これはたいへんなことです。もう一つは皆さんも知っているように、原発事故です。これは収束したのではなく、今もこれからも壊れた原子炉との格闘が続くのです。特に狭い日本では、事故が起これば取り返しがつきません。3年前の福島の事故は、それをはっきりと示しました。それなのにまだこのシステムを使おうと言うのです。これは恐ろしいことです。つまり、破滅とは、何か外からの力によって生じる、つまり天災、自然災害によるものだけではなく、人間自身が人間自身によって滅ぼされる、つまり集団的な自殺のような破滅もあるのです。むしろ、現代は後者、つまり人間自身の力によって自分を破壊するということになるのではないでしょうか。
このような事態の中で、わたしたちキリスト教はこのことに一番敏感でなくてはなりません。そして、のような危機から脱出し、生き伸びる道を切り開かなくてはなりません。ではそのためにはどうしたらよいでしょうか。
一つには、私たちのような教会に集まる人々が、互いに信頼し合って助け合う共同体をつくり、そうした共同体を広げていくことです。これは実はイエスが始めたことです。イエスはその際、自分の先生であった洗礼者ヨハネがしたように、「悔い改めること」を重要なこととしています。つまり、その人本人が、生き方を少しでも変えるという決心をする必要があるのです。二つには、やはりイエスがやったように、私たちが警告を発していくことです。教会にはさまざまな背景を持った人々がやってきます。子どもから大人まで、そして男も女も、あるいは外国の人たちも。中には危機を招いている当事者もいる可能性はあります。それでも皆がもう一度これはおかしいと声を上げることが出発点です。同時に自分たちも、こうした時代の申し子であることを逃れることができないとすれば、私たち自身が、ひとりひとり自分の生き方を深く顧みなくてはなりません。
と、なにやら深刻な話になってきましたが、要は、私たち一人が、本当の意味で自分自身や世の中のことに敏感であれば良いのです。そしておかしなことには声を上げる。つらい時には声を上げる。そうすれば、自分の人生も、世の中も、もっともっと楽しく住みやすくなるということです。そのような人たちは、仮にどんな災いが来ようとも、そして世界がどんなに傷つき壊れたとしても、そうした災いを逃れることができるのです。キリスト教はそのことを信じて、つねに世界の光であり続けてきたのです。みなさんもこの光の子として歩み続けてほしいと思います。