日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年6月14日
「人間の欲望と霊における自由」ペトロの手紙Ⅰ 4章1~6節
 取り上げました聖句の解き明かしに入る前に、ひとことこの書簡について触れておきたいと思います。
使徒ペトロの名による手紙の真の筆者ははっきりとはわかりません。伝統的にペトロが書いたとされてきましたが、新約学の知見からは疑われています。しかし、そこに最初期の弟子であるペトロの思いが全く無いとまでは言いきれないでしょう。また、この手紙に繰り返し言及されている苦難は、単にキリストの苦難のみならず、紀元64年にローマで殉教したとされるペトロの苦難を重ねて想起することは十分認められて良いと思います。この書は単にペトロの権威を借りた偽書というのではなく、むしろ彼の思いと行いを受け継ぐ覚悟を持った一人の初代教会指導者によって書かれたものとみなすべきでしょう。
 さて、この手紙は小アジアの、おそらくは非ユダヤ人キリスト者に向けられたものと見られます。1章1節には「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニスの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と記されています。つまり、その地にあってキリスト者となったため、さまざまな困難を経験する中で、あたかもバビロン捕囚となったかつてのユダの人々のように、言わば離散して仮住まいしているという認識に立っているのでしょう。
 そのような人々に対し1―3章においてさまざまな勧告がなされていますが、現在の世界の在り方に対する決別と、キリストの苦難を通して与えられた新しい霊的な生き方が、具体的な状況を想起しつつ、勧められています。さらに、洗礼式文のような、初代教会の典礼に関わる表現が用いられることから、当時の教会の姿を垣間見ることができます。そのような文脈をひとまず心の隅に置きまして、本日の聖書を読み解いて参りましょう。
 1節の初めに「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」とあります。ここにはイエス・キリストの十字架の苦難が想起されています。ただし、それは「肉に苦しみをお受けになった」とありますから、霊においてはそうではなかったという背景的意味も同時に語っています。つまり、キリストは肉においては苦しんだが、その霊においては苦しまなかった、つまり、自らの信仰、神への誠実さを揺るがすことなくしっかり持ち続けたことを暗に語っています。それを受けて著者は「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と勧告するのです。「武装」するとはずいぶんと過激な感じがいたしますが、詰まるところ、この世の支配に対して、いや、すでに始まっていると見える迫害に対して、しっかりと耐え抜くことを求めているのです。もちろん、この「武装」は比喩であって、実際の戦争を思い描いているのではありません。なぜなら、「肉に苦しみをお受けなった」キリストと同じように、その迫害を甘受することをあらかじめ求めているのですから。あるいは、こうも言えるかもしれません。ここには無抵抗の抵抗という究極的な信仰的態度が表明されていると。
 1節後半には「肉に苦しみを受けた者は、罪との関わりを断った者なのです」とあり、先の勧告を補っています。つまり、迫害を含め、この世の非難や中傷を受けた者は、かえってこの世にはびこる悪に翻弄される在り方を捨て去ったとみなされるのです。
 2節は罪との関わりを断つことがどんなことなのかを告げています。すなわち「もはや人間の欲望ではなく神の御心に従って、肉におけるのこりの生涯を生きるためです」。ここには一つの逆説が示されているように思います。本来自分の欲望に従って生きることは、自分に与えられている自由を行使しているように考えられます。しかし「わたしはわたしの望むところを行っているのだ。だから自由である」というごく当たり前の主張は、むしろ欲望に囚われて、翻弄されているのであり、さらに言えば、自分でなくて、他者によって掻き立てられた欲望に支配されているとさえ言えるかもしれません。ですから、一見自由な選びに見えながら、実のところ自分自身を縛ってしまう、つまり自縄自縛のごとき、究極の不自由であると見ることができるのではないでしょうか。
 これに対して、神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるというのは、確かに一見神に向かって自分自身を捧げることですから、自分の自由を棄てることのように見えます。しかし、よくよく考えてみると、やや神学的に言えば、神自身は完全な善であり、自由であるのですから、それに向かって自らを捧げることは、かえって自由や善を神と共に生きることになるのです。つまり、自己や他者の欲望に基づく自由に見える行為は、相対的・この世的・部分的・一時的なものにすぎず、絶えず欠乏感、渇きや飢えをもたらしてしまうのに対して、神へと自身を奉献することは、そうした絶えざる欠乏感、渇きや飢えをもはや覚えることが無いのです。
 したがって3節にあるように、さまざまな享楽や偶像崇拝のような行為は、乗り越えられていくのです。つまり「もうそれで十分」と言うわけです。ここにはややユーモアないしイロニーがありますが、それだけではありません。ここには、こうした行為を何か意識的に、あるいは無理やりに禁じるという姿勢がありません。なぜなら、そのような禁止は、かえって神の自由や善に自分を結びつけるのを妨げるからです。神のもとにある自由とは、もはや今までのようなこの世的束縛が「何と愚かなことだったのか」と、より高い次元から呆れて見せること、あるいは「大人になること」、どうして今までこんなことに縛られていたのだろうとハタと気づくこと、そのような感覚で理解できるかもしれません。
 ただし、そうした新たな気づきに至った人、「大人に」なった人、本来的な自由の境地に至った人は、これまで自分たちが属していた共同体や社会から、恐らく変わった人とみなされるだろう。どうしてこの人は、付き合いが悪いのだろう、と訝しく思われ、やがてそしられるようになるだろう(4節)。しかしこのような人々は「生きた者と死んだ者とを裁こうとしておられる方」、つまりキリスト自身によって最後には尋問されることになります。
 続く6節では「死んだ者にも福音が告げ知らされた」ことへの疑問に対して答えています。おそらく来るべき世界の訪れの前に死んだ人は結局、新しい世界に到達できいなだろう。それではその福音の意味はあるのか、というわけです。しかし、著者の言う福音とは、もちろん目に見えたり数えられたりしないものである。ここで死んだ者とは、終末が来る前に死んだ者たちであるが、彼らはすでにキリスト者としての誓いを確認されているのであり、つまりは、霊において生きるようになっているのでした。ですから、人間の目には肉において裁かれているかのように見えるだけあって、神の視点からは霊において生きるようになると言われているのです。
 さて、私たちはこの聖句の読み解きを通じて、何を学ぶことができるでしょうか?
 実はこの断章に先立つ、3章8節に次のように書かれています。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪に悪をもって、侮辱に侮辱をもって報いてはなりません」との勧告です。ここにはマタイの山上の説教の要約とも思われる事柄が記されています。さらに、17節には「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです。」と書かれています。それはつまり、キリストの苦難に類する苦難は、耐える意味があるということです。さらに、その苦難を20節以下ではノアの時代の洪水に譬えて説明しています。つまり、あのような洪水の苦難を経て、新しい時代を生きることが許されたのです。だから洗礼はそのことと対応していると言えるのです。パウロによれば洗礼はキリストの死にあずかるためであり、あの苦難を経ることでしたが(ローマ書6章3節)、この手紙の著者もおそらくこのような考えを前提に、苦しみや迫害を積極的に耐えていくことを求めていると言えるでしょう。
 さらに、もう一つ確認しておくべきこととして、この著者にとって、この断章には直接言及されていませんが、終末の到来の切迫が強く意識されていることが挙げられます。4章7節には端的に「万物の終りが迫っています」とあります。本日の断章は、これら二つの事柄に挟まれた、勧告と励ましであると言えます。そうしますと、この勧告と励ましは、今の時代を生きる私たちにも、非常に強い力を持つものとなるのではないでしょうか。
 私たちの時代において、人間の欲望は劇的に広がり、技術の発展に伴って、それがさらに加速されています。その中に生きる多くの人は、垂れ流されてくる「情報」とやらの過剰な差異に翻弄され、いわゆる善も悪も、正義も不義も、価値の不明な差異として相対化され、その洪水のなかをたゆたっている、それどころか完全に束縛されているかのように生きております。特に、情報技術の発展はほとんど中毒のように、若い世代をむしばんでいるように見えます。極めて安易な快楽が、あの小さな端末の窓を通して押し寄せてくるのです。昔、テレビが若者を白痴化すると言われた時代がありましたが、たぶん今はその比ではないでしょう。
 あるいは、すでに起こってしまいましたが、福島第一原子力発電所の炉心溶融と爆発事故という、極めて甚大な災害を前に、手の施しようがない事態に陥っています。わたしたちキリスト者は、ローマ支配の世界の大きな矛盾、この世の悪や欲望にまみれた人々の生にたいしてペトロ書の著者が立ち向かった姿を思い起こさなくてはなりません。そして、その励ましと勧告に耳を傾けていた小アジアの新しいキリスト者に思いを馳せなくてはなりません。たぶん彼らは、当時の世界の矛盾の中で大きく傷つきながらも、新しい生き方と、新しい世界を同時に求めていたのでしょう。そして、やがてそのような二つの願いを同時かなえてくれた出来事に出会ったのです。それがペトロ書を通して、そしてその背後にあると見られるパウロの思想を通して知った、あの十字架のイエスの出来事なのです。それは肉において苦しむことでありました。しかしそれはかえって自分たちの魂を、霊を、生かすことと完全に一体であるということでした。そして、それはたとえ来るべき終末、あるいは裁きの時を見ずに死んだとしても、それは矛盾ではなく、新しい命へとつながっていること、つまり復活の栄光を皆が確信しているがゆえに、恐れることなく、義のために苦しむことを耐えることができたのです。
 今私たちは、そうした矛盾を前に、いまだ右往左往している者でありましょう。しかし、もう一度、このテキストを読み、あのキリストの出来事に出会う必要があります。
 実はよくよく考えてみますと、この手紙の読者や聞き手と私たちにどれほどの違いがあるでしょうか?この手紙の著者が仮にペトロ本人であれ、それ以後の迫害の時代を生きた人であれ、これを聞いている小アジアの人々はイエスの出来事など、実際には知りません。つまり、この地の人々と、今の私たちの間には時の隔たりはありますが、イエスの出来事との出会いが間接的であるという点において変わりはありません。ということは、時代精神や科学の発達、それに伴う表面的な人間の行動パタ-ンは変わったとはいえ、キリストの出来事との出会いの本質は変わっていないのかもしれません。であるなら、私たちも、一部の神話論や誇張を差し引けば、彼らと同じようにキリストと出会えるのではないでしょうか。わたしたちはとかく、歴史的遠近法にとらわれがちですが、むしろ、このテキストを直に自分に向けられたテキストとして味わうこと、そこで自分の生き方を捉えなおすこと、さらに世の矛盾を背負い、かつその先の時代を目指して希望を持つことが、実は全く自然にできるのではないでしょうか。少なくとも私はそうできると信じているし、事実そうであると確信もしています。
 会衆の皆さん、この大きな曲がり角に来ている世界において、今ここで新しい決断のもとに神の愛、すなわちキリストの出来事を自らの命として、改めて受け入れること、そして初めて出会う方におかれましては、改めてご自身の生き方を振り返り、御自身の求めておられるものを見つめ直し、新たな出会いと共に歩み始めていただきたいと願っております。