砧教会説教2015年6月21日
「神は思い直し、我らを見捨てない」
ホセア書11章1~9節
ホセアの預言はどこか私たちの心のひだを逆なでするような「苦さ」があります。これでもか、という感じで、私たちの内面に問いかけて来るからです。特にこの書の冒頭の部分などは、ヤハウェの命令とは言え、「淫行の女を娶」ることを求められ、それに従うという、実に危うく険しい事情が報告されています。
なぜこのような預言が残ったのかと言えば、それはホセア自身が残したというより、それを聞いた人々が、彼の預言の真実性を、時を経た後に確信したからです。その確信はもちろん、北イスラエル王国の滅びという、民族的な危機を経験したからでありますが、それだけなく、彼らもまた当時の婚姻をめぐる諸事情、そして売春の実態を含む都市(おそらくサマリア)の現実の悲惨な姿を裏も表も含めよく知っており、そしてその社会的な現実の罪深さを深く憂いていたからです。
彼の預言は、彼自身の深刻な実存的危機も同時に投影しているように見えます。つまり、彼自身の罪の自覚といってよいかもしれません。彼の預言は正直に言って礼拝で読むのは苦しい程です。そこには姦淫、流血、淫行といったむごい言葉が飛び交い、彼自身を含む当時の北イスラエル社会の堕落が口を極めて攻撃されているのです。
ところで、このような社会の堕落は、ホセアに先立つアモスによってまず、指摘されました。彼もまた、ヤハウェに捕らえられ、農民から預言者へと召されたのでした。そして、当時のサマリアの支配者たちに厳しい審判を告げたのです。他方ホセアは、アモスのような、どちらかと言えばまだ素朴に見える批判や非難、そして裁きの言葉とは違い、先に述べましたように、非常に辛辣です。それはおそらく、彼を取り巻く社会の現実が色濃く反映されているのでしょう。
さて、本日取り上げましたのは、ホセアの預言のうち、遅い時期に属すると思われます。北イスラエル社会の混乱は、それ自身の堕落が元ですが、他方には当時の世界史的な変動、すなわち、アッシリア帝国の台頭というより深刻な歴史的転換があったためでもあります。それはもちろん、私たちが過去を振り返ってみた理解の仕方です。当時の人々にとって、それが歴史的転換などとは感じられはしなかったでしょう。ただひたすら恐怖に震えたに違いありません。しかし、そうした危機は、ホセアにとって、ヤハウェの裁きと映ったのです。なぜ裁かれるのか?私は社会の混乱などと、やや漠然とした言い方を先にしましたが、より具体的に言えば、イスラエルの伝統的な信仰を棄て、さまざま異教の神々に自らを捧げたことです。例えば4章12節以下にはこう有ります。「わが民は木に託宣を求め、その枝に指示を受ける。淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり、山々の頂きでいけにえをささげ、丘の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ」。こうした宗教的堕落を、ホセアは「淫行」「姦淫」などと呼ぶのです。
こうした堕落の中にありながら、はたして、私たちの未来はどうなるのだろう。ただひたすら滅びに向かうだけだろうか。ホセアはこれまでの自分の預言を顧みて、過激で厳しい預言を告げてきた自分の限界のようなものに気がついたのではないでしょうか。預言は批判や審判だけで終わるのではない。むしろ、それを越えた展望をもたらさなくてはならない。そうしなければ、未来は閉ざされてしまうだろう、そんな風に思ったのかもしれません。それゆえ、預言者ホセアは救いの預言を語り始めたのでしょう。その預言の一部が本日の断章です。
1節には、「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とあります。これは出エジプト記4章22節に伝えられているモーセに向けてのヤハウェの言葉を思い起こさせます。「主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。……』」というヤハウェの言葉は、イスラエルはヤハウェに特別に選ばれたことを意味します。しかし、これは偶然でもないし彼らが偉かったからでもない、それどころか彼らが弱く虐げられていたゆえに、憐れみをもって「子」とされたのです。ホセアは神ヤハウェのそうした選び、あるいは恵みを神の「愛」と呼んでおります。そしてその愛ゆえに、彼らをエジプトから呼び出したのでした。ホセアにとって出エジプト伝承はヤハウェの愛の行為として想起されているのです。ところでこの愛はどのような愛でしょうか?普通にみれば、それは親の愛、とりわけ父の愛と比べられるでしょう。しかし、よく見ますと、ヤハウェはイスラエルを「わが子とした」とありますから、これはいわば養子としたということです。つまり、これは単なる自然な親子関係ではありません。これはヤハウェとイスラエルとの契約に基づく親子関係であります。これはもちろんあのシナイ山での契約をホセアは考えているに違いありませんが、要するに、両者の関係は二次的・作為的なものです。それがたとえ、神の自然な憐れみから始まったとしても、神が彼らを愛するのは、無制約的なものではないのです。つまり、愛するのには限界があるということです。それは、民がヤハウェだけを愛する、という一途な思いを持つ限りにおいてということです。その限りにおいて、ヤハウェはイスラエルを子として育み、また守るであろうということです。
しかしながら、イスラエルはエジプトを出て早々に、カナンのバアル宗教に染まり、堕落しました(2節)。それはイスラエルの神ヤハウェを棄てることにほかなりませんが、それは単に選ぶ神を間違えたということではありません。もちろん民にとって実のところ利益があるなら神は何でもよかったという可能性もあります。しかし、ホセアを始め預言者たちは、ヤハウェを捨てることと別な神を選ぶことは相対的なことでなく、絶対的な差があることを見抜いていたのです。つまり、エジプトから解放してくださった神ヤハウェを捨てることは、自ら進んで自由を捨て、再び自分を奴隷の地位に戻すことに他ならないのです。
神は結局どれも似たようなものだからとか、どれもそれなりに恐ろしいものだから、などと考え、適当に平等にあしらっておけばよいと、古代のイスラエルの民も考えたのかもしれません。いやもっと言えば、神の力など、もはや信ずるに足らないとさえ考えたかもしれません。まあ、そこまではないとしても、結局は人間の力、軍事力という名の暴力こそが、最後はモノを言うとは考えたでしょう。なぜなら、ホセアの時代のアッシリアの力は、素朴な信仰など圧倒してしまうからです。
3節には「エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのはわたしだ」とあります。ヤハウェは北イスラエルを確かに育んだというのです。しかしさまざまな危機や困難に際して助けてきたのに、彼らはそのようには思わなかったのです。
4節には、非常に重要な言葉がでてきます。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」。ここにはやや解釈の難しい「人間の綱」という言葉が出てきます。これは人間(アダム)ではなく、「真実」などの別な言葉に読み代えるべきだという提案もありますが、やはりこのまま「人間の綱」と読んでおきましょう。するとその後の「愛のきずな」と「人間の綱」は同格ないし、言い換えと見ることができます。つまり、神の導きとは、人間同士の愛を通して知られるのです。隣人を自分のように愛せよというレビ記19章18節の言葉は、人間同士の愛、お互いに慈しみ助け合うことですが、ホセアはそれを神の愛の力の表れとみているのです。もちろん同時に、その愛は神にも感謝として同時に向けられることによって、完成するのです。ホセアは、神が愛のきずなで導いてきたことを確信します。おそらくそれは子であるイスラエルが荒れ野時代というまだ幼かった時代、罪を犯してきたにもかかわらず、その幼さゆえに彼らを養ってきたことを言っているのでしょう。
しかし今や、そうした幼かった時代に戻ることはできません。ましてや、エジプトに難を逃れることもできません。なぜならほどなくして、アッシリアの支配に服すほかないからです。5節にはそうしたもはや留めようのない歴史が預言されています。それは、ホセアに言わせれば、彼の時代の民の堕落と背信の結果なのです。神の審判なのです!
このような事態に及んで、なぜかホセアは急転回します。いや、正確には神ヤハウェ自身が完全に思い直すのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」と。つまり、かつてアドマやツェボイムのようなヨルダンの低地の町がソドムやゴモラともども滅ぼされたように、サマリアが滅ぼされてよいだろうかと、ヤハウェ自身が問い直すのです。自らが子として選んだ町を自ら滅ぼすことは、結局は自分自身の恥になるのではないか。なぜなら、自分の子を滅ぼすという極めて残酷なことは、親として許されないのですから。
ここには、アッシリアによって蹂躙され、陥落したサマリアの風景が前提されるかもしれません。それゆえに「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」とあるのかもしれません。神ヤハウェは、悔いる神です。そしてイスラエルを愛する神です。神ヤハウェはいかにイスラエルが堕落し、さらに滅びに至るとしても、それを捨て去ることはしない。それは神自身が自らを貶めることになる、つまりはあの出エジプトの出来事において指され、実現されたあの「自由」なる共同体を無効にしてしまうから。
そこで9節では、わたしは、もはや怒りに燃えることなく、今後エフライムを滅ぼすことはないと宣言します。そして「わたしは神であり、人間ではない、お前たちの内にあって聖なる者」とありますが、これはあらためてイスラエルの神はヤハウェであることの確認でしょう。神ヤハウェが中心に戻ることによって、ついにあの理想的な神政政治がもう一度完成するというのでしょう。もはや「怒りをもって臨みはしない」のです。
さて、わたしたちはこの断章を多少とも丁寧に読んで参りました。この断章からわたしたちは何を汲みとることができるでしょうか。
ホセアは神の愛について繰り返し語ります。それはもちろんキリスト教の教義だからではありません。当然です。ホセアはキリスト教にはるかに先立つ時代の預言者ですから。そもそもイスラエルが歴史に登場したのは、振り返って考えれば、神の愛の行為によるのでした。その愛は、イスラエルが罰を受け、滅びに直面している時こそ、かえって高まらざるを得ません。つまり、審判を実現してそれで終わりではないのです。むしろここから大事なのですが、神は人間のために改めて憐れむということです。人間はもちろん罪をもともと担っている。そして死という限界を個人において持っています。人間とはそうした欠けの多い者であるが、それを創造したのは神自身である。だからこそ、神は創造者として、つまり親として、父として、大いなる責任があるのです。だから神は怒ると同時に、自身の未熟さを知るのです。「わたしは神であり、人間ではない」という言葉は、単に創造者と被造物の区別を言っているのではなく、私は親であるからこそ、子であるイスラエルを寛容な心をもって赦すのだ、ということを言っているのです。神の愛は、最終的には赦しにおいて完成するのです。その寛容さを、果たして人間の側が知ることができるでしょうか。それはホセアの時代においてはまだわからない。それを本当に知ることができるのは、はるか後の時代の、あのキリストの出来事においてです。わたしたちキリスト者は、あの十字架の出来事と復活の信仰において、確かにその寛容と赦しを知ることができたのです。それでも、ホセアはおそらくそのことをおぼろげながら想像していたに違いありません。なぜなら、イエスの十字架には及ばないにせよ、彼自身の生涯が、苦難そのものだったからです。再びホセア書の冒頭に戻りますが、彼は淫行の女を娶るという明らかな困難、律法にもとる行為をよりによって神自身から命じられているのですから。彼自身、苦難の僕の位置を不完全とは言え、占めているのです。
改めてわたしたちは、赦しの神の愛の深さに、畏れと共に感謝を捧げなくてはなりません。