砧教会説教2015年7月5日
「私たちはキリストと共に成長する」
エフェソの信徒への手紙4章1~16節
前回お話ししたように、著者は異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の「隔ての壁」を取り除くとことに腐心している。異邦人は、もちろんユダヤ教のことはあまり知らない。一方、ユダヤ人は、自分たちを神に選ばれた民と考え、優れた律法を持っており、そこから生み出された様々な儀礼を実践することによって、世の倫理とは別の次元の神聖な生き方を営むことを自らに課していた。
これに対して、新たに生まれたユダヤ教の一派であるキリスト教は、ユダヤ教のよい部分を普遍化し、民族的で偏狭な儀礼や慣習を捨てて、誰にでも開かれた新しい宗教的実践を世に送り出したのであった。その核心にあるのが、あのイエス・キリストの十字架の出来事であった。それは異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても、人間の罪を帳消しにする決定的な贖罪の出来事とみなされ、すべての人々は彼の死によって、和解へと至るという、極めて重大な出来事であるとされた。これを当時の人々のように我々が感じとるのは難しいが、当時のユダヤ人だけでなく、生きる意味を見失い、かつその意味をとり返したいという人々によって、ある意味で、絶対他力的な、あるいは非常に依存的な、しかし同時に主体的であるような仕方で、真剣に担われたのである。そしてこのエフェソの教会は異邦人とユダヤ人とがキリスト十字架を媒介にして、「隔ての壁」を次第に乗り越えていくのである。
その後3章にはパウロの異邦人伝道が神の新たな意思であることが表明され、最終的にキリストの愛に根差した教会共同体の完成に向けた祈りで、いったん閉じられる。本日の個所は、それに続く単元であるが、ここから新しい手紙が始まっている可能性もある。
1節は「主に結ばれて囚人となっている」というやや過激な自己理解が提示されている。伝統的にキリスト者は神の奴隷である、という考え方が受容されているが、この理解は、危険な側面を持つことが指摘されねばならない。この「囚人」とか「奴隷」という表現は、常に不自由、拘束、偏狭さ、あるいは怨恨のような、負の価値と結びつく。そして、やがて教会共同体の指導者や権威に対する盲目的な従属に墜することになる。もちろん、この言葉は比喩であるが、このような比喩を用いるメンタリティには注意が必要である。この「囚人」の比喩は、常にこの世の価値や権威、権力に囚われるのではなく、この世の権威を越えた、創造者なる神とその独り子であるキリスト・イエスの救いの業にわたしは従うという、この世の権威や権力を相対化する決意と表裏をなしているのである。それが無ければ、単なる一方的な宗教的隷属に過ぎず、現代よくある単なるカルトと何ら変わるところはない。
さて、この「主に結ばれて囚人となっている」人々への勧告が2,3節にある。これは事実上コリントの信徒への手紙Ⅰの12―13章の要約である。この個所を読む限り、この書はパウロが書いたというより、彼に触発された人によるパウロの言葉を簡略化した勧告に見える。さて、中身は要するに謙虚であれ、ということである。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように務めなさい」とあるが、この手紙の前半をすでに読んだ者からすると、初期の教会共同体は、さまざまな人々が集まる自由な集会である故、やはり内部的な抗争や反目、身分や出自による慣習的な差別は相当あったと想像しうる。だからこそ、このような勧告が繰り返される必要があった。翻って、今の教会はどうだろうか。残念ながら、わたしたちの教団でも、この勧告は欠くことのできないものである。今や、さまざまな点で、日本キリスト教団はほころびが露呈しているが、それゆえに、寛容さと、柔和さが求められているはずだが、むしろ反対である。それはなぜか?
実は簡単なことである。それは本日の単元にも良く現れている。先程読んだ3節後半は「霊による一致」とあり、さらに4節に「体は一つ、霊は一つです。それは一つの希望にあずかるように招かれているのと同じです」とあるが、この「一致」とか「一つ」という言葉に誘惑されていくからである。一致する、一つになる、これはこの言葉だけとると何と言うこともないが、これを誰が誰に向けて語るかという「状況」を念頭に置くとよくわかる。つまり、それを権威ある者・権力ある者が言う時、この言葉は「わたしの言うことに従え。でなければ、排除する」ということになりがちである。前半の「寛容」「柔和」「愛をもって互いに忍耐し」という中心的な勧告が無視されていく。
このような歴史はキリスト教史において枚挙の暇がないほどだが、それはなにもキリスト教だけの話ではない。天皇制ファシズムを経験した我が国をはじめ、国家においては常にそうした一致や一つになることが強要されるのは言うまでもない。「一丸となる」とか「心を一つに」などの、の何気ない言葉さえ、だれがどの立場で言うかで、恐るべき力を持つのである。
他方で、あまりの寛容さを前提にするとどうなるか?あらゆる立場が許されてしまうのか。あらゆる反目はひたすら反目のままか。何でもありの世界を認めるのか?
これは問い自体が間違っていると言える。この著者も(そしてパウロも)寛容であることの限界を常に示そうとしているのである。寛容には限界がある。無限の寛容は、そもそもあらゆる行為に意味がないことを言うに等しい。つまり寛容であるとは、寛容であり得ない限界を常に前提にする言葉である。ではその限界とは何か?それはパウロ的に言えば、「からだ」を壊さない程度ということになる。それはパウロが正確に『コリントの信徒への手紙Ⅰ』で言っている通り。つまり、一つの部分が全体であるかのようになること、これは有ってはならない一方の限界。これに対応するのが、イエスが言う1匹の羊を見捨てないということに象徴される。つまり、全体に対して、一部がまず優先するということです。もちろんこれは実際には不十分な比喩であり、ほころびは有ります。しかし、寛容とは、かりにほぼ一色染まることになっても、他の色の違いを無視しないということ。さらに、その一部なしには、体はそもそもまとまらないということ。加えて、寛容とは普通、そもそも権力ある者、他数なもの、優勢なものに要求される徳目であるということです。ですから、寛容であれという命令は、誰に向けられているかを注意しなくてはならない。ただし、「愛は寛容である」という言葉が示す、神の愛の寛容さをキリスト者自身が身にまとう場合もある。その時は、寛容の極北としての殉教に至ることもある。しかしこれは寛容ではなく、忍耐というべきかもしれない。
さて、5節では非常に簡潔に教会のスローガンとその根拠を語る。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべての者の父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべての物の内におられます」。この前半をめぐって初代教会から様々な議論や闘争があり、現在でももちろんあるが、そこには本日は立ち入らない。ここで注意したいのは、寛容や忍耐の前提について語っている点である。つまり、私たちが寛容で忍耐あるように生きることができるのは、根源的に唯一の神が私たちすべてに働いているという認識である。それはひとまず洗礼を経ての霊の分け与えを経験した者に限るとしても、その限りにおいてはみな平等であるということだ。それゆえに、各人が寛容を保つことができるのである。
教会共同体の一致には、共通理解が必要だが、それは、2―3節にある勧告の通りにせよという要求に従うことの手前で、すべ人間は神の賜物によって生かされているという根源的な共通理解への同意である。キリスト教は、あれこれいろいろな決まりがあるが、その根源的な共通理解を見失う時、すべては空しくなるだろう。
7節以下は多少とも具体的な共同体の仕組みについて語る。8節には詩編68編19節が引用されるが、これは70人訳から。ヘブライ語聖書では「賜物を分けられた」というところは「人々を貢物として取り」となっており、意味が変わる。ただ、この8―10節の詩編の解釈は妥当性が無いように見える。これは非常に恣意的なペシェルである。
11節では使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師など、多彩な教会の役職が挙げられている。これらの職務の協力によって、キリストの体としての教会は作り上げられていく、と言われる。そして「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです」と語られる。非常に重要なことだが、キリストの教会は学びと成長の場所なのである。つい私たちは、聖書を読み、賛美し、祈るというのが教会と思いこむが、そもそも初代の教会には新約聖書はないし、讃美歌もない、あるのは旧約聖書と祈りだが、その聖書も皆が持っているのではなく、当然ながら、ほんの一部の人が巻物で保管し、非常に丁寧かつ厳粛に読み、扱っていたのであり、新しいキリスト教会にどれだけあったかさえ分からない。とするなら、おそらくパウロの手紙やその他使徒の手紙類、イエスの語録のようなものを一部利用しつつ、基本は口伝を基に、さまざま職能をもった人々が、集まった信徒にキリスト教の教えを説いていたのだろう。そして皆で学んでいたのだろう。キリスト教の教会は、多くの人々にとって、おそらく啓蒙の場所となった。キリスト教がなぜ教育に非常に熱心であるかは、こうした初代の教会の学びの姿勢に基づいている。もちろんそれはやがて、民衆は客観的な儀式への参加だけが必要とされ、教育からは切り離された。中世の教会である。そして学びは修道院の修道士たちに任され、閉鎖的となった。しかし、研究と教育はその内部において徹底的になされていた。
14節には「こうして、私たちは、もはや未熟なものではなくなり、人々を誤りに導く悪賢い人間の、風のような教えに、もてあそばれたり、引きまわされたりすることなく」とあり、教育と学びによって、確固とした人格になることが示さる。15節に「むしろ、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」とあるが、これは、私はキリストと共に成長すると考えたい。もちろん、キリストは目標であるが、しかし、同時にキリストはわたしたちの内にすでに働いているからである。最後はパウロ的な体の比喩で教会を語る。わたしたちはそれぞれ自分にふさわしい持ち場で、しかしそれぞれが確かに神の賜物を分け隔てなく頂いていることにおいて、互いに尊重し合いながら、この教会共同体を形作るのである。
わたしたちは、このような共に助け、分かち合い、相互に高めあう共同体を、今もなお営んでいるのである。そしてわが教会こそ、まさにその典型であると思う。