砧教会説教2015年7月12日
「浮足立たず、真実を見きわめる」
イザヤ書30章8~17章
聖書を読む会(聖研)ではイザヤ書を読んでいます。この個所もすでに読みました。これは紀元前8世紀末(703―701年)のイザヤの預言と見られています。本来、6節から読むべきでしたが、この題を決めた時、8節からで良かろうと考え、そうしたのですが、今となってはやはり6節からでないと文脈がはっきりしないので、そこも含めてお聴きください。
さて、その6節ではネゲブの獣についての託宣とあり、イスラエルから見て南に位置するエジプトをイメージしています。ただし普通はユダの南の荒れ野を指すので、この個所の場合、「ネゲブ」を固有名とみなさず、単に「荒れ野」として、むしろ「獣」をエジプトと考えるのが良いでしょう。7節にははっきりとエジプトと名を挙げています。
エルサレムの宮廷はアッシリアの軛(くびき)をはねのけるために、エジプトと同盟を結ぶことにしました。この経緯については列王記下18章21―25節(=イザヤ書36章6―10節)に、なんとアッシリアの高官(ラブ・シャケ)の言葉の中で言及されているのです。アッシリアはエルサレムの策略に通じており、その策が無謀なことであることも、よくわかっているのです。しかもこの高官はヘブライ語で語っており、ユダの宮廷の無謀さを一般民衆も理解できてしまうのでした。それゆえ、ユダの高官はアラム語で話すよう願っています。
ヒゼキヤ王の策略は、結果として失敗していくのですが、それに先立ってこの王自身に直接預言したのがイザヤです。本日の個所に先立つ30章1―5節、そして後に続く31章1―3節にエジプトとの同盟がいかに無益であるかをイザヤは語っています。
今日の個所は、そうした預言と関わって、当時の王権からの圧力があったことの証言です。イザヤは言います。「今、行って、このことを彼らの前で書き記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ」。ここで、「このこと」が指しているのは、前の託宣ではなく、この後のことだろう。つまり、「反逆の民」であるエルサレムの指導者がイザヤに向かって「真実を預言するな。なめらかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。……」(10―11節)という圧力の事実と、もう一つは12―14節の破滅の預言です。イザヤは、この同盟の行く末を見通しています。エジプトに頼ることは、かえってアッシリアを奮い立たせる。エジプトはイスラエルを見捨てる。結果、イスラエルは滅ぼされる。どうしてエジプトが頼りにならないと言えるのか?これは聖書には特にその理由は書いてありませんが、先に触れたように、イザヤは再三、その頼りなさについて発言している。手元にあるマネト(彼は前4世紀から3世紀のヘレニズム支配の初期に全エジプト史を書いた、太陽神ラーの高位の神官といわれる)の年表に付された対照年表を見ると、前745年―655年まではクシュないしヌビア、つまりエチオピアないしスーダン人の第25王朝であるとともに、前727―年715年の間は第24王朝、さらに前720―715年は第23王朝の王(ショシェンク王)が並立しているのです。つまりイザヤがエジプトへの不信を強く持つのは、イザヤが召命を受けた前736年から、エジプトの統治が不安定であったからだと言えるでしょう。
イザヤは預言者として、真実を語らねばなりません。しかしその真実とは、単にどこからともなく降って来る神の言葉を独りよがりに語っているのではありません。真実とは、この世の動きを正確に知ることによって見いだされるものです。わたしたちは預言者をなにか上からの託宣を一方的に語るカリスマ的人物と思いがちですが、それは全くの偏見です。預言者とはたしかに神に憑かれた、あるいは啓示を受けたと称していますが、それはもちろん古代も現代も同じく、正統性の主張にすぎません。むしろその真骨頂は、歴史を導く神を前提としながら、その導きの詳細、あるいは個々の出来事の意味を正しく見いだし、かつそのことを民衆に説得的に言葉で伝えることができることにあります。重要なことは、その判断の際に、王権だとか、一部の権力だとか、もちろん自分自身の利益の擁護といった観点を度外視しなければ、真実を見きわめることができません。それゆえ、預言者は孤独である。あるいは単独性を維持する。もちろん、その態度に感銘を受けた一部の人々が彼を真の預言者と認め、その周りに集まってくる。イザヤはそうした弟子集団とともに、自分の発言を記録に残したのです。さらにそれに加えて弟子たちが注釈を加え、後には改ざんも含めた編集が行われていきます。しかし、核心にあるのはイザヤ本人の言葉です。本日の個所はおそらくすべてイザヤの発言そのものだと感じますが、その理由は神の称号に「イスラエルの聖なる方」という独特の表現を用いていることもありますが、やはり毅然と時の支配勢力を批判しているところでしょう。
イザヤは厳しい審判の言葉を告げた後、再び語り始めます。「イスラエルの聖なる方、わが主なる神はこう言われた」と紹介し始めます。その次の言葉(15節後半)はいかにもイザヤらしい言葉です。「お前たちは立ち返って静かにしているなら救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。これは28章16節の「信ずる者は慌てることがない」という言葉と呼応しています。イザヤの主張は、根本的には、「イスラエルの聖なる方」に信頼するということです。しかし、これはこれだけ取ると単なる独りよがりな信念を主張しているにすぎません。問題はこの発言がどのような状況の中で言われているか、です。その状況を抜きに、この言葉はたいした意味は有りません。ではその状況とは何か。アッシリアによる危機です。しかし、イザヤはそれを危機としているのは間違いないとしても、この場合はアッシリアによる危機に対して、エジプトの援助を頼りにして戦争を始めることがよりいっそうの危機であるということです。ただでさえ危ういのに、外国にたよって戦争をすることは、全くの暴挙であるのは火を見るより明らかですが、しかし、当事者はそうは思わない。むしろアッシリアという軍事大国には、別な軍事大国とともに対抗すべきである、という考えの方が理にかなっているように見えるのでしょう。
それがよりいっそう自国を危機に晒すことになる、と思うのはイザヤだけではないでしょう。
しかし、それは支配者には受け入れられなかった。それどころか、事実上エジプトは頼りにならず、ユダ王国は孤立する。その結果敗走することになる。
ここで注意が必要なのは、おそらく本日の個所は二つに区切れるという点です。16節は、14節までの預言が部分的にではあるが、実現したあとの状況と見ると、先の14節まではエジプトに頼って戦争を行った時期、そして15節を挟んで、16節はそれが失敗したあとの一部の状況です。15節の「静かにしているなら……」という預言は、エジプトとの同盟を組んで戦争するという決断と、その後のみじめな状況の両方に対する批判となるのではないでしょうか。
さて、私がなぜ今日この話をしているのか、もうお気づきになった方もおられるでしょう。
イザヤが非常に的確に批判しているように、大国の拡大路線に対し、もう一つの大国との同盟を強化すること、それを集団的自衛権と称していかにも自国の正当な安全保障であるかのごとく言いくるめ、さらにその大国の片棒を担がされることを、安全保障の拡大と喧伝し、新たな法律を憲法違反の嫌疑が濃厚なのに進めているわが国の現状を、私自身、強く憂いているからです。
私は若い頃からイザヤ書を読み始めましたが、どうしてこんな大げさな預言をするのかとか、「信じるものは慌てることがない」とか、本日の「静かにしているなら救われる」などの発言を真剣に理解することができませんでした。なんでこんな漠然としたこと、呑気なことを言っているのか、と訝しく思っていました。つまり、世の中の本当の姿、どれほど愚かしいと思っても、ある瞬間にそれがもっともだと思う集団が優勢になってしまい、それを押しとどめる力がなくなっていく時があること、しかし同時に、そうした力を取り戻すための戦う人々もいること、つまりもう一度頭を冷やして考え直せ、そして無謀な同盟や敵対を煽ることを止めるべきだと語り続ける人々もいるのだ、ということに実感として気づくことができなかったのです。
しかし、今は違います。イザヤの言葉はまさに自分たちの時代と重なり始めていることが実感としてわかる。それまでは、イザヤは遠い時代の、存在も定かでない、古代ユダヤの預言者であって、もちろん学び研究するべき人物とは思っていたとしても、せいぜいそれは聖書にでてくる偉大とされる人物であるからという感じであった。もちろん真剣に彼の預言を理解はした。しかし今では、彼が格闘した現実が確かに存在し、彼も一人の人間として、さらに預言者として、彼自身の時代と向き合っていたという、当たり前の事実に気がついたのです。彼は一人の愛国者として、同時に真のヤハウェ宗教者として、つまり一人の創造者のもとに世界は最終的に支配されているのだということ、しかも、そうした宗教をわがイスラエルは担っていく責任があるということを深く認識していたのです。それゆえに、現実の王国が道をそれて行くのを見逃すことはできない。それは神を裏切り、自分自身を欺き、さらには自分がそこに属しているところのエルサレムの民を見捨てることになるからです。
わが教会は戦後の50数年をこの時代と共に歩んできました。たぶんここにお集まりのみなさんが、自分の国がこれまでの憲法を事実上捨てて、全く恣意的な解釈が可能な法を持つことなど想像しなかったでしょう。遡れば実は元号法制化、国旗国歌法(正確ではありませんが)から始まって、最近の特定秘密保護法、集団的自衛権の閣議決定、そして今日の安全保障関連法案と繋がっています。本当の戦後はまだ始まっていない、それどころか、敗戦さえ認めていないという鋭い主張が出てきています(白井聡、京都精華大教員)が、異様な劣等感と、それと裏腹の自己満足、「おもてなし」が素晴らしいなどと言って悦に入っている無邪気さ、これを嗤うのは容易いが、これを覆すのは難しいのです。
私は最近、イザヤならどうしただろう、エレミヤならどうしただろう、などと聖書の偉い人物を、なにか自分の師や友であるかのように見たてて、いろいろ考えます。彼らも、その時代の限界の中で、とことん考え、かつ行動し、成功もすれば失敗もした、あるいは弾圧され、時には捕らえられた。確かに、多くの人にとって、遠い時代の遠い場所の、偉人伝くらいにしか思えないかもしれません。しかし、本当は全く違うのです。彼らは確かにあの時代に生きていた。そして彼らの時代の課題、危機を真剣に問い、かつその解決を考え、行動し、時に批判や審判の言葉を語ったのです。
イザヤはそうした思考と活動の果てに、「静かにしているなら救われる」と言ったのですが、これは誤解を生む訳でしょう。宗教的な静寂さ、などではありません。これは浮足立つ人々、あるいは好戦的な人々、仕方なくそれを支持する人々に対して、愚かな行動を慎むべきである、集団的自衛を断念し、戦いにつながる決断を回避せよ、と言っているのです。
このような預言が今、わたしたちの前に「後の日のため、永遠の証しとせよ」という言葉と共に残されていることに改めて驚くと同時に、人間の歴史における問いや課題の共通性が、時代を越えて存在することに、感慨を深くするものです。
聖書を本当にしっかり読みたいと、重ねて思う次第です。