日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2015年7月19日
「その由来は人間か、それとも神か?」使徒言行録5章27~42節
 紀元1世紀前半、ユダヤ教の一派として産声を上げた、後に「キリスト教」と呼ばれることになる新たな信仰集団は、神殿祭儀を中心とする支配的ユダヤ教から迫害される。これは起こるべくして起こった。なぜなら、イエスの死後、潰えたかに見えたこの信仰集団は、イエスが復活したことを信じて、メシアの出現、すなわちユダヤ世界の救済の完成が間近に迫っていることを再び宣伝し始めたからである。ただし、今度はイエスが指し示した神の国の到来だけではなく、メシアがすでに出現し、その死と復活を通して聖書の預言が実現したことも加わっていたのである。つまり、弟子たちはイエスの出来事を旧約聖書の預言の実現として、はっきりとユダヤ教の伝統につなげたのであった。そのことはすでに3章11節以下のペトロの神殿説教のなかで示されている。例えば3章18―19節「しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」。
 その後、ペトロは捕らえられ、大祭司や律法学者から取り調べを受けた。これはイエスに関する流言飛語がこれ以上影響を及ぼすことが自分たちの権威と支配に大きな不都合をもたらすからだ。ただし彼を過剰に弾圧することもできない。なぜなら、すでに彼に救われて、従う者たちがたくさんいたからである(4章21節)。その後もこの新興のユダヤ教は民衆に広がり、共同体らしきものを作り始める。そうした動きに対して、再度大祭司とその仲間たちであるサドカイ派の人々は使徒たちを捕らえて公の牢に入れたという(5章18節)。しかし、その後に奇蹟的な脱獄が行われ、再び彼らは民衆に語り出した。それでもやがて、彼らは再び引き立てられていく。本日の個所はそこからである。
 彼らは最高法院で尋問を受けることになる。大祭司は彼らに対し、イエスを殺したことの責任を大祭司側になすりつけようとしていることを非難している(28節)。これに対してペトロと使徒たちはこう反論する。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししています」(29―32節)。つまり、ペトロ以下使徒たちは、イエスの復活の証人である。それだけでなく、聖霊も証しするという。つまり、聖霊に満たされた人々が様々な言葉で語り出したこともまた一つの証言であるという。
 ところで、このペトロの言葉は注意が必要である。まず、「人間に従うより、神に従わなければなりません」という発言であるが、これは一連の出来事は神に由来すると確信している点である。使徒たちは、したがって、大祭司であろうと律法学者であろうと、人間の思惑に指図されるわけにはゆかない。彼らは自らが信じた道を進む決意である。続く「私たちの先祖の神は……」において、十字架と復活の実現について言及した後、「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために」イエスを救いの導き手として、神自身の右に上げられたと述べる。使徒たちにとって、イエスの出来事は、イスラエルのために起こった出来事であり、その目的はイスラエルの悔い改めと救いである。つまり、イスラエルの歴史的、宗教的な文脈の外にいる人々には、ひとまず無縁な事柄である。
 要するに、始まったばかりのキリスト教は、あくまで、ユダヤ教の内部の新興の宗教運動であって、この時点ではこれがどうしてユダヤ教を越えて行くのかはわからない。さらに、もう一つこの言葉の中で重要なのは、「罪を赦すために」という言葉である。この前にある「イスラエルを悔い改めさせ」と言う言葉は、伝統的には預言者たちが民に勧告してきた内容である。しかし、罪の赦しというのは、伝統的には祭儀を執行する祭司の職務である。それは然るべき犠牲を捧げ、然るべき儀式を執り行うことによって、獲得されたのである。つまり、罪の赦しとは祭司権のもとで執行されるべき客観的な事柄であり、勝手に誰かがやったとしてもそれには効力がない。つまり、罪人のままなのである。しかしペトロは、イエスは救い主、つまり罪の赦しを執行する新たな権威であることをここで宣言するのである。そして自分はそのイエスの出来事の証人であるし、また、イエス亡き後の集団に付与された聖霊の存在、ないしその力に基づく教団(教会)の存在もそれを証明するという。つまり、ペトロにとって、イエスを信じる集団の創立そのものが聖霊の働きであり(ペンテコステの出来事)、イエスのメシア性を証言しているのである。
 これを聴いた人々は、当然怒り心頭、即刻殺そうとする(33節)。するとその時「律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」が語り始める。彼は以前にもあったテウダという人物による改革運動ないし革命運動を引き合いに出し、それが「人間から出た者なら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」(38節)と述べる。だから、ガマリエルは彼らを放っておくべきだと提言する(38節前半)。テウダの反乱は48年との報告があり、イエスの死後しばらくしてからであるから、このルカの記事は時代錯誤かもしれない。ただし、こうした革命や反乱めいたことは頻繁に起こっていたらしいので、ガマリエルの発言はひとまずそうした革命運動一般に対する見解であるとしておこう。この見解は、要するに時が経てばその運動が本物かどうかわかる、というものである。こうした、時の経過において淘汰される中で生き残ればそれは真実なものであり、そうでなければ偽物だという考えは、たとえば預言書がどう残ったかを考えるとよい。預言書の編集者は歴史のなかで預言が実現されていくのを見て、保存された預言書の取捨選択を行ったに違いない。ガマリエルは律法学者として実に冷静な発言をしているのである。
 さらに彼は、もしこのイエスを奉ずる者たちの運動が神に由来するなら、逆に迫害する側が神に逆らう者となると警告までしている。
 ところで、このガマリエルという人物は当時の偉大なファリサイ派指導者であり、パウロも彼のもとで修行していた(言行22章3―4節)。要するにユダヤ教の学者・教師(タンナイームと呼ぶ)としての代表である。その彼が、しばらく放っておこうという。これはキリスト教にとって朗報であった。ガマリエルが考える時間の感覚はよくわかないが、しばらく放っておこうというのは、単に彼とって一般的な方針というのではなく、彼自身がイエスの使徒たちの運動に可能性を抱いていたことの証拠ではないだろうか。キリスト教は、確かに迫害されてきたし、それにもちろん耐えてきたが、一方で相手から見てもある程度の信頼を勝ち得ていたのである。もっとも、そうでなければこんな広まるはずもない。
 さて、私が今日、このガマリエルの言葉から題を付けたのは、いろいろな事柄について私たち自身がつい性急に判断しがちであることに対する警鐘として意味があると思ったからだ。ことの由来が人間か、神か、という問いは、要するにそれは一部の人間の勝手な思い込みと自己利益の主張なのか、それとも普遍的で、全体の利益になるものかということだ。しかしそれは短期的にはわからない。それは時の経過の中でおのずと決まる。そしてかりにある見解が存在し続けるなら、それは市民権を得たことになる。いやそれだけでなく、その新しい見解が制覇することもある。このような経過は自然科学においては、はるかにドラスティックに生じるが、政治や社会、宗教においては非常に長期にわたることが多いだろう。世代を越えて真実はなにかを問い続け、優勢なるものが、新興のものをひとまず泳がせる。これは大人の態度である。
 その結果、優勢なものが新興の力に敗北することもあろう。しかしそれが神の意志なら仕方がない。ガマリエルは自らユダヤ教の信仰者であるとともに律法学者として、良心に従っている。わたしたちはこの時代において、こうした良心は存在するか?非常に横暴な形で新たな戦争法案が衆議院で可決された(この説教の構想の段階ではまだわからなかったが)が、これに先立って、憲法学者たちが今回の法案に違憲の疑いありと異議申し立てが始まり、さらに反対運動も拍車がかかったのは皆さん知っておられるでしょう。ガマリエルとは方向が逆、つまりガマリエルはユダヤ教の体制の中で、その体制の力を抑制させようとしている。憲法学者たちは、もちろん彼らは広く見れば体制の側なのだが、その体制から距離を置いて、むしろ反対する側に立って政権を批判している。ガマリエルは「まあまあこの辺で」という感じだが、憲法学者は政権に対して厳しい態度である。
 しかし、本質的なことは、今回の議論の場合、立憲主義に反するとか、憲法違反であるとかといった技術的なことが問題ではない。むしろ、アメリカの世界戦略の一端を軍事的に担うのか、そうすべきでないのかということである。もっと言えば、東アジアの国家として自分たちを位置づけるのか、アメリカの従属国家として、あくまで生き伸びるのかという選択の問題である。もはや70年にわたってそうした問いの前に立っているとも言えるが、今回の出来事はもはや憲法が名ばかりとなり、実質的な親米ファシズムの時代になった点で、非常に危ういと思う。それだからこそ、私はその由来は人間か、神か?を問うべきだと思う。憲法学者たちの法学的観点だけではなく、この時代の日本、アジアに生きるものとして、何が神に由来するものなのか、すなわち、本当に普遍的で皆の幸福につながるのかが大切である。わたしたちはいろいろな局面でガマリエルのことばを意識しなければなりません。それは今私が絶対正しいだろうと思うこと(例えば安倍政権に対する批判)さえ、そうです。それを絶対化した途端、たぶん対話も何もなくなり、単なる言いあい、押し付け合い、そして結局多勢に無勢で終わる。
 さて、話を聖書に戻しますが、ガマリエルのことばによってひとまず釈放された使徒たちは、どうしたか?
 最後に注目すべきは41節である。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び、……メシアイエスについて福音を告げ知らせていた」というのである。彼らはガマリエルの配慮とは別の次元、すなわち迫害を受けることが喜びであるという、やや倒錯した感覚で活動続けたのである。後のキリスト教は迫害されるが、しかし迫害されてなおも、次々にやって来る伝道者に東方の諸国はたじろいだといわれるが、それほどに彼らは尋常でない熱意があった。
 ガマリエルはこうした彼らの熱意をどう見たのかはわからない。やがてその弟子筋であるファリサイ派パウロは、迫害者となるが、後に反転する。わたしはこのガマリエルの弟子が、その由来が神であることを確証したようにも思う。
 キリスト教の発展は、もしかしたらこの一人の優れたタンナイームの度量に幾分かは負い目があるのではないか。キリスト教の出発点の機微に触れることができたなら幸いである。