日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年7月26日
「ステファノの殉教と教会への迫害」使徒言行録7章44節~8章3節
 先週はペトロの逮捕と律法の教師ガマリエルの度量の大きさについてお話ししました。今日はその続きにあたります、ステファノについての記事です。6章から7章にかけて彼についての記事ですが、やや長いので、その最後の部分だけを読んでいただきました。
 これは最初の殉教の記事です。ただし、その深刻な出来事に至るまでのステファノの行動はやや誇張された「お話し」のようでもあります。著者であるルカはステファノの殉教の出来事を通して新しいユダヤ教であるキリスト教の立場を際立たせようとしていると思われます。それが今日その一部を取り上げた、彼の演説です。
 さて、その前にステファノ登場の経緯についてまとめておきましょう。律法の教師ガマリエルの寛大な発言により、ペトロをはじめとする弟子たちは宣教活動を再開します。6章冒頭の記事を見ますと、弟子たちが増えて来てヘレニスタイ(ギリシア語を話すユダヤ人)とヘブライオイ(ヘブライ語を話すユダヤ人)との対立が表面化していることがわかります。当たり前ですが、初期のキリスト教はユダヤ人が主なメンバーであり、しかも国際的な都市エルサレムで宣教しており、そこにはユダヤ人といっても、もはやヘブライ語を解さないユダヤ人、つまりヘレニスタイもかなりいたのです。その中で「やもめ」の立場について苦情が出ていたというのですが、これは共同体内の援助の在り方についての問題です。こうした問題に関わることで、神の言葉の宣教が滞るのを避けるために、指導者の数を増やすことを決め、新たに7人を任命します。その中にステファノも選ばれたのです。(この個所で「日々の分配」「食事の世話をする」「御言葉の奉仕」とありますが、「分配」(ディアコニア)、「世話をする」(ディアコネイン)、「奉仕」(ディアコニア)はいずれも語源は同じ。「仕えること」を意味する)。この記事からは、これら選ばれた彼ら7人が、言葉の奉仕のために選ばれたのではなく、食事の分配の問題、つまり「共同体内の援助の仕方に関する問題処理のために選ばれた印象を与えるが、ステファノに関する限り、「言葉の奉仕」つまり福音宣教のためであると見えます。8節以下のステファノの雄弁はそれを証明しています。
 ところで、少し話がそれますが、6章7節には「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とさりげなく書いてありますが。これはけっこう重大な言葉です。祭司たちが信仰に入るとは、ユダヤ教に深刻な分裂が起こっていたことを示すからです。おそらくステファノの逮捕と殉教はこうしたユダヤ教内の対立が影響を与えたと思われます。
 ステファノの雄弁は敵対者を苛立たせます。その結果、先導された民衆によって逮捕され、最高法院に連行されます。そして偽証に基づいて告発されました(6章12―13節)。逮捕され尋問されるステファノの顔は「さながら天使の顔のように見えた」とあり、いかにもルカ的な神聖化、ないし崇高化が見られます。
 大祭司が尋問を始めるとステファノは非常に長い弁論を開始します。これは非常に長いので、全部を礼拝のテキストとして読むのははばかられるほどですが、非常に重要な歴史の回顧となっています。彼は創世記11章末にあるアブラハムへの神の約束から始め、ヤコブのエジプト下り、ヨセフ物語、モーセの誕生物語、モーセの殺人と逃亡、そして出3章のモーセの召命物語、出エジプト、さらに荒れ野時代のアロンによる金の子牛の鋳造の話まで詳細に語り、これをアモス書の預言を引用しながら批判します(ただし、これはギリシア語聖書からの引用で、ヘブライ語聖書と異動がある。例えばヘブライ語聖書ではダマスコだが、ギリシア語聖書の個所、つまりここで引用されている聖句ではバビロンとなっている)。つまり、イスラエルは背信の歴史を歩んできたこと、そしてバビロン捕囚に至ってしまったこと、です。しかし、歴史の回顧はやや古い時代に限られており、なぜかそれ以降の、つまりバビロン捕囚以降のペルシア時代、ヘレニズム時代には言及しておりません。そして、その後に、本日お読みいただいた個所に移ります。ここで再び荒れ野時代に戻ります。その時代には「証しの幕屋」があり、それはダビデの時代まで「そこに」あったと言われます。「そこ」がどこを指すかは不明ですが、少なくともこの幕屋に契約の箱が安置されたのであり、これは最終的にダビデによってエルサレムに運ばれたのですから、「そこ」とはもしかしたら彼が連行された場所のすぐ近くの神殿を指しているのかもしれません。これは出エジプト記では会見の幕屋と呼ばれますが、ここで神からモーセが啓示をうけたのです。しかしこの幕屋としての神の住まいは、ソロモンによって壮麗な神殿に置き換えられました。しかしステファノの理解では「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住まいになりません」。そのことを、イザヤ書66章1―2節を引用しながら論証します(49―50節)。
 こうしてステファノは、火に油を注ぐ如く、エルサレムの指導者層を怒らせます。挙句に、彼は
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなた方はいつも聖霊に逆らっています。あなた方の先祖が逆らったように、あなた方もそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」(51―53節)
と述べ、長大な弁論を閉じたのです。ここには彼の歴史理解がはっきりと示されています。彼はイスラエルの歴史を基本的に背信の歴史と見ています。これは旧約の預言者の見解を踏襲しています。つまり、ステファノ自身が預言者的であるということです。
しかし、当時のユダヤ教は、預言の時代はすでに終り、律法と祭儀を守ることによって、預言者的批判に十分こたえられると考えていました。祭儀を通して罪の赦しを受け、律法を守ることによって日々神の意思を実現する、つまり神を証言する民でありつづけること、これがすべてである。たとえ、それがローマ支配との妥協であるとしても、あるいは律法の遵守がかえって差別を生み出しているとしても、それは選ばれた民の知ったことではなく、守らない人の問題であると。しかしステファノは、彼らの在り方を批判します。彼らは預言者を迫害し、殺してきたし、今もそうしていると。つまり洗礼者ヨハネ、そしてイエスを殺したのであると。そして彼らは律法すら守っていないと。
このような理解がどれほど当てはまるのでしょうか。ステファノの演説には、すでに触れたように、捕囚からの帰還後の経過は省略されています。実際にはその時代以降、律法主義的ユダヤ教になるとともに、ヘレニズム化が急速に進んでいきます。そしてユダヤ教は、もはやモーセ的な預言者的伝統というより、エズラ、ネヘミヤに代表される非常に固定化された、閉鎖的な宗教集団として生きています。もちろん、その閉鎖的な集団の力によって、預言者的なものも保存されていたことは間違いありません。しかし、その真意はもはや、背景に退いていました。むしろ伝統化された食事の律法(コシェル)と神殿祭儀、巡礼などの行事を通して自分たちのアイデンティティの保持に専念することが最も大切なことでした。
ステファノは、だからこそ、ペルシア時代、ヘレニズム時代の歴史なぞ見向きもせず、アブラハムとモーセの時代へと遡るのです。つまり、自分たちの元来の信仰とは何であったか、神とはそもそもどうしてイスラエルに現れたのか、何を私たちに与えたのか、そして私たちはそうしたものをどう受け止め、どう応えてきたのか、に目を向けるのです。さらに、本来のモーセの律法の精神である、やもめ、みなし子、寄留者をまもること、すなわち自分たちの鏡であるはずの、人間の権力のもとで小さく貧しくされた者の権利を弁護すること、この本来の律法を見失っていることを批判したのです(53節)。
このようなステファノの弁論に対して、敵対者は怒り心頭、「歯ぎしりした」と、やや戯画化して描き、他方ステファノはついに「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」などと、大祭司から見たら全くの冒涜、越権、逸脱した言葉を発したのです。これは明らかに預言者的であり、神とステファノとの絆を宣言するものです。そしてこれは大祭司から見れば完全にユダヤ教に対する反逆である。このような言葉に耐えることはできない敵対者たちは、ついに彼に襲い掛かり、石を投げつけたのです。そして証人たちも上着を脱いでなぜかサウロ、すなわちパウロの足もとに置いた。つまり、パウロは偽証する者の支持者であったのです。サウロは8章1節に記されるように、ステファノ殺害に賛成していたのです。だから偽証者は彼との関わりを強調するのです。そしてルカ自身もこれを強調しています(ただし、ここでのサウロの登場はルカの文学的な編集によるという見方があり、ステファノ殺害とパウロの関係は否定される。ただ、この見解自体が、パウロ擁護的であることも指摘されるべきだろう。
ステファノは彼をリンチする者たちのために執りなしの祈りを捧げつつ、息を引き取ったのでした。彼は当時のユダヤ教のあり方を、見失われている預言者的精神を基にして、根本的に批判したのですが、もちろんそれは理解されない。いや、もしかすると、かえって理解されすぎて、つまり、あまりにも正しいことを言われたので、逆上したのかもしれません。人間は正しいことを面と向かって言われると腹が立つものです。そしてステファノはあまりに正直すぎたのかもしれません。このことが引き金となり、ついに大迫害が起こります(8章1節)。そして多くの信者はエルサレムから離散し、ユダヤ(エルサレムの外側の)やサマリアへと逃れて行ったのです。
 ステファノのリンチ殺人は、これ以後のキリスト教の伝道に大きな方向転換を与えたと思われます。この迫害のゆえに、この新しいユダヤ教は伝統のユダヤ教を越えて、新たな地域へ、そして新たな人々へと伝わって行ったのです。そして、エルサレムの伝統的ユダヤ教とは別の道を歩み始めたのです。
 私たちはステファノの殉教と迫害という歴史を通して何を学ぶでしょうか。わたしはこのような出来事は過去の出来事であると同時に、今もなお、起こっていることであると感じています。ステファノは伝統的なユダヤ教を批判し、殉教しました。今私たちは、この日本で、戦後のシステムの崩壊に直面しています。そしてその崩壊の現実を直視せず、これまで通りのシステムが動くかのごとく、行動しています。しかし、原発にせよ、沖縄にせよ、矛盾は誰の目にも明らかです。その中にあって、少なくともキリスト者は、預言者的精神を取り戻さなくてはなりません。ただし、一方では、ステファノは預言者的精神を自らにまとったゆえに、かつての預言者のように迫害され、殉教しましたが、私たちはすくなくとも、単なる批判ではだめであるとも感じます。正しいことだけでは人は動かず、かえって逆上する。このことは一つの教訓です。わたしたちはこのステファノの死を美化することも、また軽視することも控えるべきでしょう。むしろ、ステファノを繰り返さないために、何らかの建設的な、あるいは持続的な批判をして行く必要があるでしょう。手前みそですが、わたしは最近いくらか気が長くなりました。結論を急がず、より広い視野、長いスパンで展望する。もちろんそんな悠長なことではだめだという批判もわかります。それでも、わたしはステファノの悲劇を繰り返さず、しかもひよらずに前進したい。そして教会も変に世間におもねらず、さりとて奢らず、この世の塩であり、光でありたいと願う者です。
 時代が困難であるほど、冷静であらねばならない。使徒言行録は、初期キリスト教の歴史と言われますが、その中の人間模様は、すべて私たちの鏡になるものである。わたしは今そのような感慨を新たにしているところです。
 ぜひ、今日は読みませんでした6章から改めてお読みいただきたいと思います。