日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2015年8月2日
「和解のない平和は偽物である」コリントの信徒への手紙2 5章16~21節
 8月は平和について思いを巡らす時です。本日は和解をテーマにやや込み入った問題を取り上げます。
 キリスト教の核心的主題は神との和解ということです。神との和解というからには、その和解以前には、敵対していたことが前提されています。では神との敵対とはなにか。しかし、その前に考えるべきことは、そもそも敵対しているという意識自体があったのかなかったのかが問われる必要がある。
 ユダヤ教から生まれたキリスト教は、すでに神との関係は神から律法が与えられたとする伝統的な考え方を通して前提されている。しかし、それだけでなく、律法以前に太祖アブラハムに対して神との契約(一方的な約束)がなされていることから、やはり神との関係は古くからあったと信じられてきた。とりわけ前者、いわゆるモーセの律法を守ることが後のユダヤ的生き方の基本となった。そして、この律法に忠実でないとされた時、それは罪であるとされた。つまり罪とされた者は、神と敵対するものととみなされたのである。では「罪あり」とされ、神に敵対するとみなされた人々はどのようふるまうだろうか?
 ただし、そのまえに律法自体を知らない人々にはユダヤの罪の意識を理解することはできないし、また理解する必要もないという事態が了解されている必要がある。つまり、神との和解は、ユダヤ的文脈の中で意味を持つ。
 さて、神の律法に忠実でない人々は罪人とされる、そしてそれは敵対する者である。彼らは共同体から差別され、時に排除されるだろう。しかし、きちんと祭儀的な秩序に服し、犠牲を捧げ、神に祈るならば、その罪は赦され、敵対者としてはみなされないことになる。要するに、律法主義と祭儀的な取りなしや救いの儀式によって罪の贖いは可能である。つまり、和解は可能であるとみなされたのである。神との関係は律法と祭儀によって確立されており、罪は法的に判定され、贖いは祭儀的に執行され、その人は神と和解することができるとされたのである。
 イエスはそうした客観的な救済の仕組みが結局のところ罪人とされた者たちを造り出し、敵対するものを造り出してきたことに気づいている。そこで彼は伝統的な律法と祭儀の権威を踏み越えて、直接神の名によって罪からの救い、すなわち神との和解を実現した。それは奇蹟物語をともなう彼の振舞いから見てとれる。もちろんこの行為はユダヤ教の正統派からは到底許されることではなく。彼の権威など認められない。そこで捕らえられ、十字架に架けられた。
 ここまではユダヤ教の枠内でおこったメシア運動の失敗に過ぎないとも言える。
 しかし、そうではなかった。イエスの行動はユダヤの律法に違反した者を救済する新しい権威、すなわち新しいユダヤのメシアであるという狭い理解に基づく行動ではなく、彼自身がおよそ世界全体の救済を目指したメシアであり、しかも人間的なメシアではなく、神の子、すなわち神自身が人間のために送った天的な救い主であると信じたのである。この時点で、ユダヤ人だけでなく、あらゆる人間は救いを必要とする、あるいは潜在的に必要とする、罪人である、つまり神に敵対して生きている者であるとする非常に普遍的な人間理解が生み出された。それゆえに、新しく生まれたキリスト教は、人間全体と神との和解ということを核心の主題としたと言えるだろう。
 そのことをはっきりと、かつ神学的に打ち出したのが使徒パウロである。彼は伝統的なユダヤ的律法主義、つまり律法の遵守を通して人間は神に正しい者とされるという考え方を捨て、むしろ人間はその罪を悔い改めて信仰を持つこと、つまり神の方へと方向転換することでひとまず十分であると考えた。それは一般に信仰による義認と呼ばれるが、もちろんそれだけでは不十分である。パウロはあのイエスの十字架の死をすべての罪を背負って死んだ犠牲のメシアの死、つまりイザヤ書53章に表現された苦難の僕として理解し、しかも、その死によって人間全体の罪が背負われた、かつ人間全体が買い戻された、つまり贖われた、さらに言えば、すべての人間が救われたと考えた。そしてその死をもって神との和解がなされたのであると主張した。
 加えて、イエスを神自身が送った神自身の子であるとする、神自身の深刻な苦難(苦しむ神)を想像することによって、人間自身は神の底知れぬ深い愛を知るのであると主張する。つまり、和解とは神自身が人間のために苦しむことを通じて、実現されたのである。これは非常に観念的なドラマであるが、要するに、和解のために人間自身が苦しむのではなく、むしろ第三者、神でもなく人間でもなく、神の子が自らを父に捧げるという極めて驚くべき自己犠牲(代理贖罪)を行ったと考えた。
 このようなシナリオをつつがなく受け入れることが可能だろうか。そのことを説明するのが本日の個所であるが、先程読んでいただいた個所だけではやや足りないので15節も加えておきます。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」とありますが、要するに人間が自己の利益のために生きる、つまりエゴイズムの立場を離れて、キリストのために、つまり他者の利益のために生きる、あるいは和解のために生きることなのである。
 16節以下ではそれを受けて、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言う。つまり目に見えるものによって知るのではなく、霊を通してすべてを知る(ただしこのことは5節以下を読まないと分かりにくい)。17節では「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古い者は過ぎ去り、新しい者が生じた」とされ、キリストの出来事を受け入れたものは、新しい命をふき入れられたことになる。こうしてついに核心となる言葉に至る。すなわち「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちに委ねられたのです。」(18―19節)。パウロは神の愛が無償で私たち人間に改めて示されたこと、つまり神自身がキリストを送り、かつ十字架につけて犠牲として人間を赦したことを語るのである。そのことを21節でこう言っている。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。要するに無垢のキリストが十字架にかかったことで、つまり代わって死んだことによって、さらに言えばすべての罪を代わりに担ったことで、私たちがひとまず正しい、つまり罪はないことにされたということです。
 では、それで終りなのでしょうか。違います。今度は誰かにこの和解のありがたさを勧めることが求められるのです。20節にあります。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の役目を果たしています。キリストに代ってお願いします。神と和解させていただきなさい」とパウロは勧告しています。パウロはキリストの犠牲の出来事を通してすべて人間は新しくなる可能性を秘めることを伝えていくのです。
 さて、本日の題である「和解のない平和は偽物である」という文言はやや分かりにくいですが、これは前世紀からの日本の営みを背後に思い描いた題です。そして当然、上に述べたことと関連します。
第二次大戦での敗北後、わが国は連合国の占領国として出発した。しかし講和条約の締結を機に、再び主権国家として国際世界に復帰した。その前に平和憲法を持つ国家となった。それは戦前のファシズムを反省し、平和国家として歩む決意を示したものである。しかし、こうしたスローガンは、真に和解を経たものであろうか、あるいは和解の意味するものを理解したものなのだろうか。
 和解とはキリスト教の考え方からすると、無垢なる義人の犠牲を通して、罪の重さに気付いた人々と神との間で起こったものであるが、それを援用するなら、あの戦争において数多くの無垢の人間たちが死んだこと、それも日本の人々でだけでなく、朝鮮半島から中国、東南アジア諸国において日本のために殺された人々のことが確実に想起されること、従軍慰安婦などと称して性的な奴隷状態に置かれた人々のことが想起されること、その人々の死を通じて自分たちがその重さに畏れを抱くことができるなら、和解が生じたと言えるだろう。つまりあの死者たちにキリストの死を見ることができるならば、和解がある。そしてそのあとにこそ、国と国、民族と民族の間に平和がもたらされるだろう。
 逆に今ある国と国とが、例えば戦略的互恵関係などと言って経済の利益を分かち合える関係こそ平和だなどと言うのは、パウロ的に言えば「肉にしたがって知る」というレベルに過ぎません。その証拠に今ではあっという間に例のスローガンは色褪せてしまいました。

 和解とは取り返しのつかない事柄にひたすら恐れ入ることにおいて成就する。つまり十字架の出来事を想起することによって成就する。和解とは先立った者と残された者の間の無限の距離を感じとる瞬間に成就する。例えば二つの国が平和となるためには責任の重い側がどれほど他者の死に自らの罪の重さを感じとれるかがカギとなるであろう。
 キリスト教の核心にある和解とは、「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました」(21節)とうい文言に象徴される、取り返しのつかなさ、身代わりの負い目、この永遠に埋めることのできない時の隔たり(つまりあの時そうすべきであったがそうしなかった)を心の底から悲しむこと、悔いることである。そして、その後に平和が築かれるのである。
 しかし、そうした悲しみや悔いは、一度きりで終わるものではない。人間は忘れ、かつ繰り返す生き物である。それゆえに、私たちはこの和解の営みを折に触れて想起する必要がある。8月はそのような想起の時である。私たちキリスト教徒はそのことの意味をもっとも深く知っているがゆえに、平和について多くの責任を負うのである。